翠が青に溶けていく

 怒涛の一学期が終わった。鳳先輩は相変わらず己れのヘイゼルにちょっかいを出してくるし、親衛隊は更に人数が増えた。

 夏休みの間は寮から宗田家へ帰省している。父母が亡くなってからは、己れも宗田家に厄介になっており、与えられた自室で課題を消化していた。己れの部屋は二階の一室であり、向かいの部屋は清陽のだ。

 宗田家は資産家であり、清陽の父様は貿易商。母様は英吉利人でありながら、女学校の英語教師として教鞭をとっている。己れの父と父様は古くからの友人であったと聞いている。生きていた頃に、膝の上に乗せられて昔話を聞かされた事もあった。

「珪、入ってもいい?」

 控えめなノックと清陽の声がした。走らせていた筆を止め、招き入れる。盆の上にグラスが載っていたので、休憩しに来たのだろう。

「課題の具合は?」

「今日の分はあと僅か。余力があれば、明日の分も簡単な部分は片付けようかと。」

「僕と大体一緒か。しかし独逸語と仏蘭西語には参った。同時にやると混ざってしまって。」

 珪もどう? と差し出されたのは冷たい紅茶だった。母様の国から直接取り寄せているものだ。有難く受け取り、何も入れずに煽った。キリリとした飲み心地に頭が冴える。小机に置いた紅茶と瑞々しいゼリーは夏の光を強く反射し、母様の宝石箱を思い出させた。

 不意に、清陽の様子が気になる。

 気心知れた仲と言えど、清陽が断りもなくベッドに腰掛けることはあまりない。それどころか両手を後ろにつき、楽な体勢を無意識に取っている。呼吸も心なしか浅い。

「……お前、何だか貌が赤くないか。」

「そうかい? ……知恵熱でも出ただろうか。」

 清陽の額に手を添えると、じわりと染み出す熱さだった。元々冷え気味である己れの手は心地良いらしい。両手で頬を支え、じっとヘイゼルの瞳を見つめる。

「未来の名医の診察が受けられるなんて、僕は幸運な男だな。」

 気が抜けた笑顔。寮では見せなかった表情だ。もしかしたら、慣れない環境で張り詰めていたのが、実家に戻ったことにより、糸が切れたのかもしれない。

「語学如きで知恵熱を出し、あまつさえ己れの診察を受けようとするなど、己れの清陽は随分緩んでいると見える。」

 こつり、と己れの額を清陽のに合わせる。睫毛が触れ合うか合わないかの距離。やや熱っぽいヘイゼルが己れの貌を写している。

「僕の珪、仮にも熱を出している人間に、あまり厳しい事を言っては駄目だよ。」

 戯れ合う内にベッドへと倒れこむ。留守の間も使用人が手入れし続けていたのだろう。肌触りのいいシーツを二人で滑る。まるで水辺で遊ぶ童だ。

「……ねぇ、海へ行こうよ。」

「鎌倉の別荘か?」

 清陽も同じことを思ったのだろうか。並んでシーツの上に寝転ぶと、昔、そこで夜通し話をした夏の日を思い出す。

「うん。父さんには言ってあるんだ。行くのはいつでも良いってさ。」

「なら、早い方がいいな。週明けにしよう。長くいるつもりだろう?」

「うん! それでその後は、五月女の別荘に行こう。」

 五月女の別荘は山奥にあり、避暑として建てられたものだ。管理は清陽の父様にしてもらっている。こちらも毎年訪れ、山や川を楽しむのが通例となっている。

「やっぱり海と山に行かなきゃ、夏が来たって感じがしないでしょ。」

「同意だな。」

 ベッドの海に再び沈み、清陽の額を掌で包むと擽ったそうに清陽が応じる。

 触れ合っているうちに、まろやかな体温にまどろみを覚えた。このまま昼寝をしても良いだろう。清陽は言うより早く睡魔に飲まれていた。


 ◆ ◆ ◆


 毎年一度は来る、宗田家の別荘。

 昨年より洒落た店が新たに並んでいた。目の前の海も相変わらず気持ちのいい青。気分転換や休息にはもってこいの所だ。

「嗚呼、夏休みって感じがするね!」

「課題がたんまりあるのだからな。遊ぶだけじゃ無いのだぞ。」

「分かっているさ。それも毎年の事だろう?」

 ふう、と吐いた溜息の熱さに違和感を覚える。

「結局、あれから熱は下がってないのか。」

「うーん……。薬を貰って飲んでいるのだけど。」

「いっそ今日一日、丸々休んだらどうだ。」

「海だけはすぐに行きたい!」

 行きたいったら行きたい! と駄々をこねられた。熱のせいで思考力が低下しているのか? と真面目に心配をしたら一睨みされてしまった。

 仕方なく、妥協案を出す。

「海には行くが、泳ぐのは無しだ。」

「えーっ! どうしてさ?」

「風邪が治りきっていないのに、医学科志望の己れが赦すと思うか?」

 ぐっ、と言葉に詰まる清陽は普段より幼く、かつ年相応の悪餓鬼だった。急に子供じみた雰囲気を纏うものだから、己れは可笑しくなって声をあげて笑った。

 そういえば、と担いだ鞄の奥底を探る。母様から無理矢理に持たされたある物を思い出したからだ。なるべく清陽から見えぬ位置でそれを引き抜いた。華奢な造りをした柄は細やかな装飾がなされ、見るものの視線を奪うだろう。それが麗人であるならば特に。己れは無言でそれを開いた。

「僕のシリカ。……何だい、それ。」

「パラソルだ。」

「……何故?」

 一体どこから出したの、と心の底から厭そうな貌をされたが、それに怯む己れではない。あくまで論理的かつ端的に説明をしてやる。

「陽射しが身体に障るかもしれない。婦人が差すものだが、どうせこの辺りに知り合いは居ない。どうだ、問題無いだろう。」

「合理的でいっそ清々しいよ……。」

「大丈夫だ。きっと似合うぞ、己れのヘイゼル。」

 本来なら、お前をベッドへ沈めてやるのが最善なのを忘れるなよ、と付け足せばしぶしぶ日陰へと入る。母様に無理矢理に持たされたものが活躍するとは思わなかったが、もしかしたら清陽の行動などお見通しだったのかもしれない。

「僕のシリカが可愛くない!」

「己れのヘイゼルは可憐だから安心しろ。」

「ああもう、君ってやつは!」

 そういうことを言うのは僕だけで十分だ! と良く分からない清陽の主張が潮風に乗った。


「ねぇ、珪! 見てこれ、この魚!」

「……英語の原田先生に似ているな。」

「あはは! 逃がすのが惜しいくらい似ている! 」

 泳がない、と言いはしたもののシャツは二人とも既にずぶ濡れになっていた。着替えがあるから良いが、日が落ちる前に屋敷へ行かねばとは思う。パラソルは荷物置場に鎮座させている。なんとなく母様に叱責されている様な心地がするが、それよりも清陽の危なっかしい足取りに、慌てて駆け寄った。

「嗚呼、楽しい! 此処に来ると、本当の自分が出せる様な気がするよ!」

 砂浜に足を取られ、もつれたらしい。興奮したまま、ドサリと砂浜に倒れこんだヘイゼルだったが、満喫しているようだ。身体中砂まみれで、最早何もかもがどうでもよくなりつつあった。これだけ濡れてしまえば、どうせ風呂に入らねばならぬ。そうなると急に吹っ切れてしまうから不思議なものだ。

「僕ね、やっぱりシリカと居るのが一番落ち着くよ。」

「どうした。藪から棒に。」

 隣同士寝転び合う。恒星が放つ光は突き刺すほど強い。皮膚を焼く光線は、熱砂を更に焦がしていく。

「普段から思っていることさ。寮生活は楽しいけど、令嬢や先輩、先生方に同級生の視線があるだろう?」

 うつ伏せになって、己れの前髪を梳かす。白い指先は火を灯したように熱い。触れられたところから、火傷しそうだ。清陽の貌にも熱がこもっているのか、瞳は陽射しも相まって橙を熔かした色合いになっている。

「そうすると、どうしても彼等が求める僕であろうとしてしまうんだ。」

 迷子の子供。そんな言葉がよぎる。すっかりシャツが肌蹴てしまい、砂だらけの肩口に指を這わすと、日焼けで赤くなり始めたきめ細やかな素肌があった。

「……確かに、《翡翠の天使》などと呼んでいる輩が、砂まみれの清陽を見たらどう思うか見ものだな。」

「揶揄わないでよ。流石の僕も、その呼び名は恥ずかしいんだから。」

 遠く透き通る様な青空、反射するさらに青い水面。再び海へと駆けていく、己れのヘイゼルの髪が綺羅と煌めき、眩しさに目が眩む。


   ――嗚呼、この瞬間が永遠に続けば良いのに。


 目に沁みる輝きは、網膜に焼き付いて離れそうもない。

 目が乾き、次いで泪が湧く。

 太陽光線は瞳に害があるのは承知している。それでもなお今、この光景を一刻たりとも逃したくない。

 錯覚なのは当然分かっているのだ。

 だが確かに、清陽が波打際で水を弾けさせる度、己れのヘイゼルが輪郭を無くしていく。

 少しずつ溶け出していき、清陽がこちらへ戻れなくなるのではないかという得体のしれぬ恐怖が己れの奥底を掻き立てる。

 現実離れした煌めきに充てられたのだろう。そうと頭が分かっていても突き動かされる。氷菓子の如く跡形もなくなる前に、清陽の姿を逃すまいと後ろから強く抱きとめた。

「シリカ?」

 何故だか、お前が遠くへ行きそうで。

 はくはくと口を動かそうとしても言葉にならなかった。

「珪、どうかしたのかい?」

 怪訝そうな表情に安堵の息が漏れる。

 絶対に消えやしない。当たり前のことであるのに、漸くそう思えた。

「……お前が眩しかったのだ。」

「莫迦だなぁ。」

 清陽の向きを変え、正面から力の限り抱き締める。長い睫毛が二重三重に折り重なり、淡褐色の瞳に複雑な影を作り出していた。その周りには宝石と見紛う玉の水。クスクスと笑うヘイゼルの瞳には幼子をあやしているかの様な色が見える。

 直ぐ側で揺れる、赤いピアス。

「ッ、けい。」

 吸い込まれるように、そこへ口付ける。ピアスに絡んだ水は塩辛かった。朝露のように輝く目元は喫驚し、見開かれていた。

「己れの清陽。己れのヘイゼル。

 ……そろそろ上がろう。冷えてしまう。」

「……シリカ。」 

 それは果たして、ただの海水だったのだろうか。


 別荘で過ごして三日過ぎた。

 清陽の熱は未だ続いており、下がる気配は一向に現れなかった。

「良いか、己れのヘイゼル。良く聞け。送ってやるから、大きい病院に掛かれ。そして家へ戻れ。」

「……知恵熱にしては長過ぎるし、僕のシリカは怖いし、そうしようかな。」

 正直遊ぶどころではないし、課題をこなすことなど、以ての外だ。額は燃えるように熱い。瞳は熱で潤み、時折決壊したように泪が溢れる。熱を排出しきれていないのは明らかであり、ただの風邪とも言い難い。

「参ったな。このままだと、独逸語も仏蘭西語も、どんどん綾ふやになっていってしまう。」

「この己れが付いているのだ。すぐ取り戻せるさ。」

 それもそうだね、と力なく笑う清陽に不安が募る。紛いなりに医者を目指し、まだ一年とはいえ自主的に学習を進めている。症状から思い当たるものは碌でもない病しかない。万病を風邪と称しているといっても、それで片付けるには無理がある。

「ふふ、僕のシリカ。そんなに怖い貌をしないでおくれ。きっと疲れが溜まっているだけさ。」

 随分はしゃいでしまったしね、という清陽の頬に翳りが出来ている。こんなことであれば、初日に気が付いた段階で引き摺ってでも帰宅すべきだったと歯軋りする。

「こら、珪。これは君のせいじゃない。僕が我儘を言ったからだよ。」

 己れの額を指で突く。悟られてしまい複雑な心持ちになりながらも、玄関で人力車を待った。一番近い病院であればすぐのはずだ。庭いじり用の椅子に腰掛けた清陽にパラソルを差すと、困ったように笑い、そうして己れに凭れ眠りについた。


 ◆ ◆ ◆


 病院についてから、清陽はすぐに入院が決まった。

 明らかに顔色が悪い清陽に、医者が処置を施しているその間に父様に連絡を入れた。様子見と検査のために三日はかかると言われ、己れは気が気でなかった。清陽の状態や、何の検査をするかを医者は伝えてくれたが、肝心の清陽の部屋へ通されることはなかった。

 辺りはすっかり暗くなってしまった。それでもまだ検査があるからと、会わせてくれない。

 まさか己れの清陽は、訳の分からない検査を受け、仕舞には分断されてしまうのではないか、など夢想と嘲笑われても仕方の無いことを戦慄くほど恐れた。


「珪!」

「――……! 父様……。」

 だから父様がやってきた時、己れは情けないことに腰が抜けてしまったのだ。声もなく泪が溢れ、清陽が病だったら己れのせいだ、とまで弱音を吐いた。

「珪、聞きなさい。

 あの莫迦息子のことだ。どうせひょいと治って、山の別荘に向かうために準備を始めたいと騒ぐに決まっている。さ、お前も休みなさい。」

「……清陽と同じ部屋に泊まれるでしょうか。」

「ここは病院だ。幸いここには見舞い客用の部屋があるから、其処を借りなさい。いいね、珪。」

 父様のしっかりとした掌は安心する。心細かった気持ちが随分持ち直した。それと同時に、冷静になった分、自らの矮小さに気がつく。最も不安なのは父様ではないのか。一人息子が病に伏しているのだから。一大事だというのに、己れは泣き言まで言って、なんと気の利かない奴なのだろう。

 父様も医者に連れられ、どこかへと案内され消えてしまった。夜の病院に人は少なく、閑散としている。清陽の居ない世界はなんと冷たく、居心地が悪いのだろう。

「清陽、どうか。己れのヘイゼル……。」

 己れの祈りは闇へと呑まれていった。


 そうして己れは父様から、最悪で冷淡な話を聞かされる。

 清陽を隈なく検査した結果、重篤な病であることは確実であると。

 正式な結果が出ていないにしろ、医者からの経験則上、それは確定であると。

 余命は一年にも満たないだろうと。


 何もかもが耳の上を滑っていく。頭の中へ侵入するのを拒む。

 父様は何を言っているのだ? まさか清陽の悪ふざけに付き合っているのだろうか。もしそうだとしたら、こんな海辺の街まで来て、悪趣味と言われても文句はいえまい。

 清陽とまだ山の別荘にも行って居なければ、海だって遊び足りない。清陽の課題はこのままいったら消化しきれないのは火を見るよりも明らかであるから、己れが共に手伝ってやらねばならない。例年赴く祭りにも行っていなければ、秋の体育祭にだって。学年行事では己れ達二人は大いに期待されているのだ。だというのに、清陽は不治の病であると?

 

 不治の病とは何だ。何だ、それは。死ぬのか。

 

 清陽が、死ぬ。

 

「……ッ!」

 頭蓋の中で鈍い衝撃と、聞くに耐えぬ木霊が響く。突如としてこみ上げる胃酸に、弾かれるように便所へと駆けこんだ。後ろで父様が呼び止める声が聞こえたが、構うほどの余裕は無かった。

「ぐっ、うぅ……! ぐぅ……!」

 目の前で星が勢いよく衝突し合い、烈しい火花が散る。

 清陽が死ぬ? 何故。あり得ない。絶対に有り得ない! 明滅する言葉と共に胃酸を吐く。胃袋がポンプの如く伸縮する。

 父様や母様を残して死ぬなど。ピアスを、血を分けた己れを残して死ぬなど。有り得ない、あってはならない、そんなものは知らない!

「厭、厭だ。嘘だ。こんなのは、こんなのは……!」

 目の前が白く燃え尽きていく。呼吸が上手く出来ない。叫びが叫びにならず、胃液さえも上手く吐き出せない。

「あ、あああ、厭だ、清陽、清陽、清陽、己れの清陽――!」


 声にならない慟哭は、夏の陽射しが焼いてしまった。パラソルでは防げないほどの、灼熱の光線が。



◆ ◆ ◆


「珪様!」

「シリカ様!」

 自宅へと戻り、清陽の着替えやその他に必要なものを取りに帰ると、清陽の親衛隊の姿があった。情報はいったい何処から仕入れてくるのだろう、と妙に冷静な頭の中で思う。

「清陽様が、倒れたと聞いて、その。どういった具合ですの?

 あの方、とても努力家なのは存じております。過労で倒れられてしまったのですか?」

「病ではないですよね。そうですよね?

 私どもでお力になれる事はありませんか? どんな些細なことでも引き受けます!」

 そこには清陽とお近づきになりたいといった下心はない。ただ、直向きに役立ちたいと願う輝きを瞳に宿していた。

「……本当に、君たちは清陽が好きなのだな。」

 帽子を目深に被った己れは大層辛気臭いだろう。ただでさえ、人当たりの良い清陽と違い、己れは彼女らから近寄りがたい雰囲気を醸し出しているのだ。そんな陰気な男が今生一番に落ち窪む様相は、自らが思っている以上に暗鬱としているかもしれない。

「喧しくて、姦しくて、正直邪険に思っていた事を詫びる。すまなかった。」

 帽子を脱ぎ、彼女らに頭を下げる。小さなどよめきが周囲を囲った。

「やめて下さい! そんな、珪様!」

「煩くしていたのは事実です! 珪様、どうか面をあげて下さい!」

 腕や身体を押され、半ば無理矢理に身体を起こされたが、己れは抵抗する気力も無く、なすがままであった。勘がいい女達のことだ。触れれば睨んでいた男が、この様なのだ。憔悴していることが、今の己れの挙動で伝わってしまっただろう。

 のろのろと帽子を被り直し、身体を彼女らの方へと向ける。目を合わせる事は出来なかった。

「知っているかもしれないが、己れは、相手が女だとしても優しくすることが出来ない。間違っていると思えば指摘をするし、おだててやる事も出来ない。嘘を上手く吐けない。」

 一つ呼吸を置く。彼女らは固唾を飲んで己れの言葉を待つ。

「清陽のフロイラインたち。だから、己れはお前たちに、正直に言う。誠意を持って、己れは清陽を愛する者として、お前たちに向き合おうと思う。それで良いか。」

 誰一人として是と言わなかったが、非とも言わなかった。沈黙を肯定と捉え、空気を胸に取り込む。

「……長い、入院になる。」

 再度、そんな、だとか、どうして、だとかを口々にし、己れに詰め寄ろうとするがすぐに足を止めた。己れの泣き腫らした目を見てしまったのだ。彼女らは聡い。己れも冷静ではないと確信させてしまったようだ。

 色々な感情の渦に呑まれまいとする彼女らは、一様に唇を噛み、目を伏せた。

「清陽様のもとに、お見舞いは出来ますの?」

 血を吐く様な声音であった。自らに出来ることは非常に少ないことをたったこの短期間で悟っている。無力さを受け止めるというのは冷酷な黒い塊を肚に収める様なものだ。彼女らは己れが思っているよりも強いのかもしれない。

「……幾つか、条件がある。」

 学帽を目深に被り直し、己れは彼女らへ更に酷な事を言うため口を開いた。

「一つ、あいつの前で泣かないこと。二つ、明るい話を聞かせてやること。三つ、見舞うのは全員まとめて、且つ一度きり。」

 一つずつ述べる度に彼女らの瞳は涙をたたえていく。

「最後に。待っていると、言わないことだ。」

 とうとう彼女らは胸を押さえ、声を殺して啜り泣いた。己れの清陽は本当に罪作りだ。

 既に枯れたと思っていた己れの目から、また一筋涙が漏れ出た。


◆ ◆ ◆


「おや、僕の珪が席を外すから誰が来るかと思いきや!」

 親衛隊と入れ違いに、病室を出て直ぐの、簡素な椅子に腰掛ける。清陽は思いがけない客人らを快く迎え入れた。

「よく来たね、フロイラインたち。見苦しいところを見せて、本当に申し訳ない。」

 いつも通りの清陽に彼女らの緊張感が幾らかほぐれたようだ。実際、熱が下がってからは倦怠感くらいしか病覚は無いらしい。重篤な病であると本人にも聞かされたが、半信半疑の状態だ。

「大方、珪に脅かされてここに来たんだろう? ああ見えて、僕のシリカは大袈裟なんだ。」

 まぁ、という柔らかな女人の感嘆と共に複数の密やかな笑いが聞こえる。こうしていると花と蝶が戯れている様な空気だ。己れは病室側の壁を背にして座っているので、その景色は見えないのだが。

「でも、その。珪様が清陽様を心配なさるお気持ち、分かります……。」

 控えめに、しかし芯のある声であった。清陽は返事の代わりに小さく笑ったようだ。

 暫しの間が空いた。空気が揺れ動く。外から夏の風が吹き抜け、廊下までその香りは届いた。

「おいで、フロイライン。僕は君に謝らなければならないことがあるんだ。」

 いつもより硬質な清陽の声。清陽がああいった声を発するときは、大抵フロイラインの想いに対する返事をする時だ。大方親衛隊の誰かが清陽へ手紙を書いて、好意を告げたのだろう。己れのヘイゼルは律儀であるから、一つ一つ返事をしているのを知っている。

 しかし清陽の言葉は思いがけないものであった。

「毎日、珪へ手紙を書いてくれて有難う。」

 己れに手紙?

 思い当たる人物がいた。親衛隊に混ざり、己れへと手紙を綴る物好きな娘が。彼女は筆忠実らしく、己れが返事を考えているうちに二通も三通も新たな文が届く。よって己れが彼女へ文を返した事は数えるほどしかない。ある時から急に途絶えたので、清陽へと興味が移ったのだろうと思っていた。女心というものはよく知らぬが、コロコロと変わる物だとぼんやり捉えていたので、不思議に思わず今の今まで忘却していた。

「僕は……。僕はね、君にも、シリカにも最低なことをしたんだ。」

 彼女がこちらにまで動揺しているのが伝わる。清陽は清廉で陽気な奴だ。悪戯を好むが、悪質な行為を嫌う男だ。そんな奴が、自らを最低だと貶める行為は一体何なのか想像もつかない。それは彼女らも同様で、身を固くしていた。

「一学期が終わる前、手紙で珪を呼び出しただろう?

 だが、珪は来なかった。君は長いこと待って、本当に長いこと待って、泣いて泣いて、とうとう諦めてその場を離れたと思う。

 でもそれは、珪が君のことを嫌いだった訳ではないんだ。」

 身を隠しながら病室を覗く。娘の表情は見えない。だが、清陽の言葉につられ、はらはらと泪を落としている様子は感じ取れた。清陽はその泪を丁寧に拭っていく。清陽自身も、瞳が随分潤んでいた。

「僕はね、フロイライン。嫉妬深い男なんだ。君に珪を取られたくなくて、あの手紙、シリカには渡してないんだ。御免。御免よ。」

 思わず息を呑む。口から心臓が飛び出そうになった。

 鼓動が高まるのを必死で隠そうと胸と口を覆う。清陽が言っている意味が上手く飲み込めない。

「僕が弱っている時に、酷い話をしてすまない。でも、僕にはもう、そんなに時間が無いらしいんだ。

 次、君に会えるのがいつになるか分からないから、今、謝らせてくれ。一生分恨んだって構わない。卑怯者と罵ったっていい。僕は、僕はそれだけのことをしたんだから。」

 足が震える。ヘイゼル、お前は今何と言った。何故そのように泣く。何故、その娘と額を寄せあって涙を流すのだ。

「清陽様、誰が貴方を責めましょうか。」

「私たちは、もちろん貴方を好いています。ですが、お二人が闊歩するお姿が何よりも好きなのです。」

「ヘイゼル様、どうか。私たちは強いのです。ですから安心して。」

 数々の慈しむ声に、堪らず己れは走り出した。叫び、暴れたい様な――とにかく中で爆発しそうな衝動がひしめいている。

 裏庭まで駆け抜ける。幸いにも誰も居ない。整わない息のまま、己れは貌を覆い、天を仰いだ。


 ――嗚呼、嗚呼! 己れの清陽!


 己れは歓喜に満ち溢れていた。病室では誰もかれもが啜り泣いているというのに、胸の内側で何かが暴れ回る。歓びで只管に胸を掻き毟った。堪えきれず笑いがこみ上げ、やがてそれは高笑いとなった。


 清陽が己れを、あんなに想っていた!


 好ましい娘ではあった。他のものに比べて、物静かで姿勢も良い。聡明でよく気がつく女子なのだろう。言葉を交わした事は皆無であるが、送られてくる手紙の中で確かにそれは感じ取っていた。

 しかし、清陽と同列に比べることがあるだろうか。

 嗚呼、愛しい、愛しい己れのヘイゼル!

 なんと可愛らしいやつなのだ。あのフロイラインに取られてしまうなど、要らぬ心配をして手紙を隠すとは! 今すぐに抱き寄せ、一晩中――いいや、ずっと! ずっと側に居てやりたい。そう、ずっとだ!


 ずっと、とは?


 歓喜が萎び、やがて枯れ落ちていく。世界中の音が鳴りを潜め、急激に色を亡くしていく。

 嗚呼、何故だ。

 何故、あいつの寿命はあと僅かなのだ。

 何故、何故、何故!


 やがて高笑いは引きつった嗚咽へと変わった。泪は散々に流した筈なのだ。それなのに未だ、ぼたぼたと止め処なく落ちる。きっと涙袋が破れ、蓄積する機能がなくなったに違いない。

 上を向いたまま息を継ぐ。仰いだ空は雲ひとつなく、憎たらしいほど澄み切った青色。

 その色は清陽と見た、恐らく最後になる海の色。

「……ッ嗚呼、何故、何故なのだ! 何故ッ……!」


 清陽。己れの清陽。己れのヘイゼル。

 お前が青に溶けていく。

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