滴るピアス


 それはさながら花道といって差し支えない。入学した頃よりは随分秩序が出来た様に思う。前列は中腰、後列は直立。贈り物は学舎に持ち込めないので帰り道のみ。一月の間に出来た規則は熱心な清陽の親衛隊によって取り決められた。

「いらしたわ!」

「嗚呼、今日もお美しい……。」

「文は読んで頂けたかしら。」

 慣れ親しんだ宗田そうだ家から離れ、高等科の寮へと移ったのは学問へ集中するためだ。難関校を優秀な成績で入学し、己れは医学科へ、清陽は商学科へと進む予定だ。

「全く毎朝、飽きないものだ。」

「仕方ないさ。僕の見た目は、まだまだ世間からみたら珍しいのだから。」

 西洋館が多く建立する都会でも、西洋人は珍しい。清陽は日本で生まれ、日本で育った日本男児であるが、英吉利人の母を持つ。清陽は母の血を色濃く引き継ぎ、日本人離れした美しい瞳と髪色を持っている。

 中等科までは良かった。なんたって幼い頃から慣れ親しんだ人はわざわざ清陽の見目で囃し立てたりはしなかったからだ。初等科では差別的な者もいたが、一視同仁の心を持った師によってそれは直ぐに無くなった。美しいものは時として排除される事もあると学んだのはその時であったし、またそういった排斥する動きを清陽へ向けようものなら、己れが相手になったものだ。

「あとね、珪。君は自覚が無いようだから言っておくけど、君目当ての子達だっているんだからね。」

「何を莫迦な。こんな無愛想で睨みをきかせる男に、わざわざ好意を寄せるなど理解が出来ん。」

「僕のシリカが今日も鈍感で、本当に嬉しいよ。」

「なんだ、それは。ますます意味が分からん。」

 寮から学舎へと向かう僅かな道程さえ、己れ達二人にとっては長く感じる。

 黄色い声とはよく言ったものだ。程よくその色を差せば華やかで良いものかもしれない。だがこうも塗りつぶされていると危険色としか感じられない。

「おはよう、美しいフロイライン。今日も元気そうで何よりだよ。」

 清陽が一声掛ければ一層色めきたつ。甲高く鋭い音に一瞬耳を塞ぎたくなるが仮にも男児。そこは止まった。

 ふと、若葉の香りに混ざって雄叫びが聞こえる。まるで合戦の如き地鳴りに、己れの眉間に力が入った。

「宗田清陽イィ!」

「……ああ、やっぱり今日も来たか。」

 清陽は海より深い溜息を吐く。己れは肩を叩き励ましてやった。

「宗田! 俺はお前に、今日も勝負を申し込む!」

 現れたのは道着を着た男。親衛隊からの文句もなんのその。野蛮だの汗臭いだのと言われようが耳に入っていないようだ。この愚直で哀れな男は、選りに選って入学式の新入生の挨拶で壇上にあがった清陽を女であると勘違いし、しかも一目惚れをしてしまった先輩だ。あまりにも愚かすぎる。己れ達の学校は男子しかいないというのに。

「諦めの悪い鳳先輩、今日は野試合ですか。」

「黙れ、五月女さおとめ珪! 俺は一人の男として、宗田清陽という男に勝負を申し込むのだ!」

 この輩、何が厄介かというと、筋を通してしまうことだ。一度女と見間違えた相手を男だと認識し直しているのに、尚、清陽に近づこうとする。しかも男同士のサシ勝負で、だ。時に体育館で、時に教室で、時に昼休みの校庭で、時と場所を選ばず一日一回やってくるのが日課と化していた。

「珪、いいよ。僕がやるよ。」

 じっとりした視線を大莫迦先輩へ送っていると、清陽が口を開いた。

「己れの清陽。お前がやる事はない。己れ達の腕は互角だ。つまりは己れに勝てなければ、お前にも勝てない。」

 入学式翌日から、毎日来る様になってしまった男は主に己れが散らしていた。己れの衣服が汚れていてもヤンチャした程度にしか見えないが、清陽だと見た目も相俟って乱暴されたかの様に見えるからだ。そうなると、どうなるか。

 ……猛烈に、学校で騒ぎになるのである。

「全く。あの時ややこしい事をあの莫迦者に言うから、こんな事になるのだ。」

 そもそも、なぜ清陽に付きまとってあるのか。それは清陽が『僕より強ければ、僕に惚れたと、仰って良いです。』と言ったのが始まりなのだ。この大莫迦先輩は、男でもなく女でもなく、清陽に惚れたと言って憚らないのだから面倒である。

「僕の珪。そんな貌しないで。まさか柔道部部長とは思わなかったんだもの。かと言って、僕は大木にだって倒されない自信がある。今日は僕がやるよ。」

「たとえお前の言葉が発端だとしても、あの大莫迦先輩が己れのヘイゼルに触れる事が心底厭だ。」

「僕のシリカ。いいんだ、いっつも任せっきりだし。偶には動かないと鈍ってしまう。」

 それに、と清陽は小さく続ける。

「男同士の勝負だと言われて、僕自身が行かねば男が廃るというものさ。」

 皆、忘れがちだが清陽は日本男児だ。女々しいと言われたくないが故に一通りの武術を修めている。共に研鑽し合う己れはよく知っている。清陽は人一倍負けず嫌いであり、男らしくあろうとすると。

「鳳先輩。勝負です。」

「よぉし! 勝ったら約束を違えるなよ! 」

「勿論。僕より強い男であったなら、口説かれてあげます。」

 悪戯に微笑し、学ランを己れに預ける。心配は無いが不愉快であった。清陽がそんな貌をしたら相手は躍起になるに決まっている。

 仕方なく、始め! と合図を出せば、すぐに激しい組み合いとなった。相手に掴ませ無い様に防ぎつつ、針の穴に糸を通す様な僅かな隙を互いに突く。親衛隊の応援もあって喧嘩と間違われる事は無さそうだが、学校の目と鼻の先でやりあえば登校中の生徒の目に付くのは当然である。次第に鳳先輩を応援する声も混ざり、まるで興行の如く盛況になってしまった。

「あっ!」

 清陽の襟首が捕らえられた。腐っても部長である。握力はその辺の生徒よりも秀でている。逃げる事は愚か、普通の道着であれば勝ちが見えただろう。

 しかし、清陽が来ているのは真新しい洋シャツである。そんな力で道着より強度の無い服を掴んだらどうなるかは、容易に想像出来るだろう。取り囲んでいた親衛隊からは劈く悲鳴があがり、生徒らはどよめき、先輩は石の様に固まった。

 大きくはだけさせた清陽の素肌は陶器の様であった。春の陽射しを受けて輝かんばかりの肌は、組み合いによって汗ばみ、妙な色気が香り立つ。視線がそこへ固定されている鳳先輩に苛立ちを覚えた。

「もらったァ!」

 清陽はその好機を見逃さない。硬直した鳳先輩はあっさりと投げ飛ばされてしまった。歓声が上がり、人集りは一層大きなものになった。嗚呼、また先生方に叱られてしまう。

「勝負アリ、ですよね?」

 仰向けのまま茫然とする鳳先輩は、清陽に手を引かれて起き上がった。ニコリと微笑む己れのヘイゼルは朝日を受けて一層綺羅めいて見える。至近距離でそれを見た鳳先輩はチカチカと眩しそうに目を細め、ややあってから大きく息を吸った。

「明日また来る! 逃げるンじゃあ無いぞ、宗田清陽!」

「勝機のない勝負など無駄だろうが。」

 思っていた事が口から滑って出てしまい、鳳先輩と目が合ってしまった。なんとも複雑そうな瞳の色をしていた。

 今後の勝機が潰れたも同然だからだ。敗因が清陽の色香では、勝ち目が無い。惚れた弱みというものだ。同情の意を込めて首を左右に振ると、鳳先輩は珍しく頭を垂れた。

「……竹造先輩、どうかされましたか?」

 びしり、と場の空気が止まった。

「……今、なんと。」  

 戸惑うのは当然張本人だろう。己れは幻聴である事を望むし、鳳先輩は何が起きたか分からないような貌をしている。あの莫迦者は、あの輩を今どう呼んだ?

「毎日、律儀に勝負を仕掛けてくる先輩。敬意を込めて下の名で呼ばせて下さい。」


 たけぞうせんぱい。


 確実に聞き取れる速さで、形の良い口唇が動く。鳳先輩はようやく咀嚼出来たのか、やがて茹で蛸よりも茹で上がり、脱兎の如く駆けていった。

 軽やかな足取りで戻ってきた清陽の両肩を勢い良く掴み、がくがくと揺さぶる程度に、己れは動揺していた。

「お前、今のは、一体どういうつもりなのだ!」

「何って。落ち込んでいる様に見えて、なんだかあまりにも可哀想で……。」

「情けをかけるな、莫迦者! そういう事をするから、奴は調子に乗るのだ!」

 折角、折角あの輩の心が折れたかもしれないと言うのに! 己れは昂らずにいられなかった。

「そう怒らないで、僕のシリカ。今日も先生方に、一緒に指導されてくれよ。」

 指導、という言葉に頭が痛くなる。己れ達は一方的に絡まれているだけだというのに、必ずとばっちりを受けるのだ。騒ぎの元凶として。

「コラァ! 五月女に宗田ァ!」

 案の定、よく通る声が正門から聞こえる。嗚呼、やはりあれは担任か。今日もやはり叱られてしまう。

 ぼたんが弾け飛んでしまった清陽に学ランをきっちり着せてやったが、その後湧き出でるものは苛烈な怒りだった。


 ◆ ◆ ◆


 頭に上った血は、夜更けまで終ぞ降りることはなかった。清陽の側には居たが、奴からの問いかけにはほとんど応えなかった。寮に戻ってからはずっと自室(と言っても清陽と相部屋である) に引きこもり、窓側の椅子に腰掛け文庫本を開いた。頭に一切入ってこないが、頁をめくる音が心地よい。時折清陽が話しかけて来たが、集中する振りをして、やはり無視を決め込んだ。

 怒りの正体ははっきりとしていた。

 幼い頃( それこそ物心つく頃から! )寝食を共にし、己れの清陽、僕の珪などと呼び合いって居るのに、あの大莫迦先輩を下の名で呼んだ事に腸が煮えくり返っていた。

 唯の学友ならまだ良い。清陽以外で、下の名で呼ぶ者は己れにも存在する。だが、清陽が大莫迦にしたことは全くそれとは異なることだ。

 あれでは。あれでは、まるで。


「珪。……まだ怒っているのかい?」

 後ろから抱きつく様な姿勢で清陽の腕が伸びてきた。ギジリ、と古めかしい木の椅子が鳴る。

「……何の用だ。」

「そう言わずに。こっちを向いてくれよ。その本、今日だけで何周しているんだい?」

 本を奪われてしまい、椅子ごと横に向けられる。清陽と目が合う。ヘイゼルの瞳はランプに照らされて、幻想的に揺らめいていた。

「何故、そんなに虫の居所が悪いんだい?」

 再度無視をしようとしたが、頬を両手で挟まれてしまった。緩やかな固定に逆らうことができない。ヘイゼルの瞳の中で、己れの顔がゆらゆらとしている。

「聞かせておくれ。可愛い可愛い、僕のシリカ。

 何に怒りを感じ、何に悲しみを感じ、何に癇癪を引き起こしているのかを。」

 妖しく笑う己れのヘイゼル。ランプからジリジリと音がする。焼き切れそうな、焦れた音が。

 嗚呼、この貌は。楽しんでいる貌だ。

 こいつは己れが怒るのを分かって、今朝みたいな児戯にもならぬ事をしたのか。

 瞬時に合点がいき、思わず伏して歯軋りをする。人の気も知らず、なんと残酷な己れのヘイゼル!

「……言った筈だ。」

「シリカ?」

 思っていた以上に唸るような声が出た。肉食獣が上げる、獰猛さを隠しきれぬ音。

 勢いよく清陽の手を払い、手首を掴む。力の加減が出来そうにない。

「あまり、己れを、嫉妬させるなと。」

 ランプがついに消えた。

 それを合図に清陽を机へと引き倒す。上に載っていた本や文房具が床へと落ちたが構うものか。派手な音がしたが、他室では麻雀に勤しむ奴らがいるくらいだ。誰も気に留めないだろう。

「己れのヘイゼル。己れは一体、お前の何だ?」

 月明かりに照らされる清陽は仄かな光を放つ様に見えた。驚きで彩られた美しい貌を、破壊してしまいたい衝動に駆られる。

「己れのヘイゼル。

 己れはお前のシリカでは無かったのか。」

 清陽の身体に覆い被さる。不安定な体勢になるよう、胸を強く押さえ抵抗出来ぬ様にした。息が詰まる音が奴の喉から聞こえ、どうしようもなく背が震える。清陽の耳に唇を寄せたが、僅かに身動ぎしただけだった。

「己れのヘイゼル。

 己れはお前を愛しているというのに、何故あの男に褒美をやった?」

「褒美……?」

 吐息で擽ったそうにする清陽が縊りたい程に愛おしい。だが、自身の行為に自覚がないのは頂けない。

「あれではまるで、出来の悪い犬を躾るのと変わらん。食いさがった褒美として名を呼んだとしか見えない。」

「僕は、そんな。」

 先の言葉が言わせないために、清陽の唇に人差し指を置く。反射的に言葉を飲み込んだせいか、やや窄まっている下唇をほぐし柔らかな感触を楽しんだ。

 はだけた洋シャツから鎖骨が覗く。浮き上がる影に喉が鳴り、思わず自身の唇を舐めた。歯を立てたら血潮が噴き出るのだろうか。どう清陽を傷つけたら、最も良い物になるだろうかという思考が脳を埋め尽くしていく。

「シリカ。君は……。」

「それとも。欲しくなったのか。」

 言葉を遮り、沈黙させる。

「阿保で、莫迦で、従順で、涎を垂らしながら尾を振る駄犬の様な先輩を、手元に置いておきたくなったのか。」

「それは違う!」

 強く反発する声は冷水のようだった。烈しく燃えていた腹の炉が瞬時に消え、切り裂く風のごとき圧に、怯む。刹那、切り裂かれた隙間から、幾つかの囁きが視界を覆った。


 ――清陽からしてみれば、己れもただの犬なのではないか。

 ――対等であると思っていたのは己れだけで、清陽にとっては忠犬でしかないのではないか。

 ――《僕のシリカ》などと甘く囁いていたのは、特別視された立ち位置にあるからではなく、己れを呼び寄せる為の笛だったのではないか。


 それらは壮絶な虚無感となって襲いかかってきた。埋め尽くしていた衝動はシャボンが弾けるかの如く消えた。虚脱と共に、息が浅くなっていく。

「……ッ己れは、己れのヘイゼルの、何であると言うのだ……!」

 もしそうだとしたら最も莫迦犬なのは己れ自身だ。大莫迦先輩などと言って見下していた姿は、清陽からみたら随分と滑稽だっただろう。

 遂には清陽の胸にしな垂れ、幼子の様な嗚咽が漏れた。

「……御免よ、珪。」

 清陽から溢れた声は慈愛そのものだった。包み込む腕は只管に優しく、聞こえる鼓動が己れのものと区別がつかない。密着した肌から溶け出してしまいたかった。

「僕はただ、君にヤキモチ焼いて欲しかったんだ。」

 表情を窺えば、眉をハの字に寄せた困り果てた貌だった。何度も小さく謝罪の言葉を繰り返し、その度己れを抱きかかえる腕の力が強くなっていく。己れのヘイゼルの温かさに甘え、涙で濡れた頬をすり寄せた。


 熱が互いに行き来し始める頃に、清陽が口を開いた。

「ねぇ、僕のシリカ。お願いを聞いてくれないか。」

 散々に泣いて疲労していた己れは、のろのろと貌を上げた。

 しみったれた空気と対象的に、ヘイゼルの瞳が何か企みを持って煌めいている。

「母様から、真っ赤なピアスが贈られて来たんだ。」

 ピアス。異邦人の婦人が主に付ける装飾品だ。

 日本ではあまり普及しておらず、その名を知っている者は殆ど居ないのではないかと思う。清陽の父母はたまに外国へ赴き、土産と称して己れ達二人に膨大な贈り物をするのだ。きっとピアスもそのうちの一つなのだろう。

「二人で、それを分けて付けないかい?」


 まるで血を分けるみたいに。


 耳元で密やかに告げられたそれは己れの心に稲妻のごとく轟いた。身体に傷を付けることに対するは抵抗などは消し飛んだ。天涯孤独のこの己れに、己れの清陽が血を分ける様な儀式を持ちかけて来たのだ。どうしてそれを断ろうか。

「……今すぐに。」

「今すぐ? こんな暗闇の中で?」

「近寄れば見えるさ。」

 こんな風に、と清陽の腰を抱き、引き寄せた。

「悪い子だ、僕のシリカ。こんな窓側で、外から誰かが見ていたらどうするんだい?」

「何を言う。互いにピアスを開け合うだけだ。何のやましい事がある。」

 悪戯を仕掛ける時と同じ笑みが漏れる。


 やや太い針に消毒液。英語で手順が書かれてある。針の根元にピアスを嵌め、直接耳朶へ刺すらしい。


 清陽から己れへ。己れから清陽へ。


 清陽の柔らかな耳朶は抵抗なく針を飲み込み、己れの耳朶はぶつりと音を立てた。清陽の下手くそ、と小突いたが、あまりにも愛しい痛みに胸が打ち震えた。

「ふふ、愛しているよ、僕の親友。僕の兄弟。僕のシリカ。」

「愛している、己れの親友。己れの兄弟。己れのヘイゼル。」

 互いの耳に雫型のガラスが揺れる。開けたばかりの穴には刺激が強い。己れの右耳から、清陽の左耳から血が滴り、真っ赤なガラスは更に色を濃くなっていく。


 月光のみが二人を照らし、また二人を見ていたのも月光のみであった。

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