シリカとヘイゼル


 名は体を表す、と昔から云う。

 奴は清廉であり陽気でもあった。そして人当たりも良い。中等科の頃は食堂の淑女や寮の先にある駄菓子屋の常連ら、そして己れからも好かれていた。誰にでも赦すように笑い、話を聞き、頷いてまた笑うのだ。

 今年の春から高等科にあがり、四肢の成長も少年から青年へと変化する。背丈こそ己れ達二人は変わらない。しかし生粋の日本男児の己れよりも、英吉利の血を持った清陽の美しさは中性的であり、脆く危うい雰囲気を持っていた。そんな美しい奴が歩いて居れば、誰しも振り返るのは自明の理だ。いっそ誇らしい。己れの清陽はこんなにも美しいと自慢気になるのは、大目に見て欲しい。

 入学して直ぐは己れが側に居てやらなければ、人集りが出来てまともに教室へも行けなかったのだ。ふと、凡庸な己れが横に並ぶから、余計に奴を引き立てているのかもと思ったが、例え己れが居ようが居まいが振り返る人数に違いはなかったので、構わず清陽の隣を歩く。

 今日も今日とて、茶屋の前で女学生に捕まっている。清陽に惚れ込んでしまった哀れな柔道部の部長が割って入りそうな景色に、己れは彼女らが見る背景と同化し、清陽を待つ。チラリと彼女らを見止めると、白魚のように細い指先で口元を隠しながら、瞳を綺羅とさせ清陽を見上げていた。その様だけでもう見る必要はない。彼女と清陽から目を逸らし話も聞かぬよう遮断した。

 奴のヘイゼルの瞳はさながら宝石のようなのだ。恐らく、それを縁取る睫毛の長さも合わせて褒めちぎり、光に透けて輝く猫の様な髪色に見惚れているに違いない。

 やがて茶屋の菓子を渡され、二三言会話をして女学生らは去っていった。こちらをみた清陽のなんと柔らかな……いや、緩んでいる事。

「……お前はなんて貌をして笑うのだ。」

 菓子に女子に、噛み殺せないほど嬉しいか、と揶揄ったが、それを聞いて奴はまた笑う。

「勿論そうだとも! なんと言っても愉快なんだ。」

 ころころと笑うその顔は先ほどの女学生のようで浮ついている。仮にも男児たるもの締まりのある表情をしろと先生方に指導賜るが、その口角が引き結ばれることはまず無い。もともと緩やかに弧を描いていて、しかもふくらとしているから、余計に花が綻ぶように見える。

「僕のけい、知っているかい? 僕が他の子たちと話すと少し、ほんの少し、君の左眉が釣り上がるのを。

 マダムだろうが、メッチェンだろうが、フラウだろうが、フロイラインだろうが、同じ貌をするんだ。」

 そんな下らない台詞にム、と音がした。溜息すら出ない。清陽を追い越し寮へと戻る路を進む。

「やっぱり無自覚だったの?」

「そんなものは知らん。」

「怒った?」

「怒ってなどいない。」

 大股で風を切って通りを抜ける。早くも夏の気配がする空気は気持ちの良い風を含んでいるが、それで己れの何かが和らぐわけでは無い。相変わらず清陽は喉を鳴らして笑っている。それどころか鼻唄交じりに腕を絡めて来た。

「待ってよ、僕のシリカ。」

 聞き慣れない単語が聞こえてきた。視線だけで見遣ると、何か企んでいる瞳が目と鼻の先にある。

「なんだ。シリカというのは。」

「独逸語で珪石はシリカスタイン。だから珪はシリカかなって。」

 学び馴染めた独逸語と仏蘭西語はどちらも新鮮であり、そこかしこで使いたくなるものだ。発音が独特で口に出すのは面白い。なるほど確かに、己れの名を直訳し、近い音を当てればそんな響きになるだろう。

「安易な上に、それは硅素ではないのか。」

「良いじゃないか。僕の好きな鉱石は石英なんだよ?」

 人の気も知らないで、なんて奴なのだ。清廉であると言った事は撤回してやる。

「可愛い僕の珪。僕のシリカ。君の魅力は、僕だけが知っていれば良い。」

 途端、冷水が頭蓋の中を満たしていく錯覚が襲う。これはいっそ怒りだ。己れの魅力とやらがどの様な物かは知らないが、自らの魅力を安売りのように振りまいておいて一体何を言い出すのか、と。

 わざと急に立ち止まり、反応出来ず凭れた清陽の絡まる腕を引き、ぐいっと貌を近づけてやる。パチパチと瞬く宝石は驚きで星が散っていた。

「……己れの清陽が、己れのヘイゼルが、その輝きを他所へ易々と向けるのが気に入らん。」

 《僕のシリカ》と云うのなら《己れのヘイゼル》と返してやる。やられたら同じくやり返す。それが礼儀というものだろう。

「よく聞け、己れのヘイゼル。あまり己れを嫉妬させてくれるな。

 お前のその眼窩がんかに嵌った淡褐色が、どこの馬の骨とも分からぬ輩の眼鏡に掛かる事が、一等不愉快なのだからな。」

 力強く言い聞かせる様に言葉を紡ぎ、瞳を射抜く。するとどうだ。みるみる頬が紅潮していくじゃないか。吃驚し羞恥に染まっていくその表情に、胸がすく思いがした。

「……僕のシリカ。あまり、そういう事は外で言うものではないんじゃないのかな。」

「数えで十六年、己れのヘイゼルがそんな事を気にする性質だとは知らなかったな。」

 厭らしく笑い、上目遣いで囁いてやれば、言葉に詰まった清陽は、己れの頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

「この、薄ら鈍感のくせに! 僕より一寸ちょっと背が低いくせに!」

「言うに事欠いてそれか! 残念だったな、己れの背は着々と伸びている!」

「僕だって伸びているんだからね! 」

「来年の測定で泣きを見せてやる。」

「どうだか。」

 程近い距離のまま睨み合い、やがて堪えきれずに噴き出す。春の夕方、気持ちの良い風がそよそよと間を抜けていく。

 軽妙で莫迦々々しいやり取り。些細な幸福こそ、最も愛おしいものだ。

「帰ろう、僕のシリカ。」

「そうしよう、己れのヘイゼル。」

 若葉薫る桜並木。活気ある通りの中心を二人で歩けば、訳もなく祝福されている心地がした。

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