風薫る別荘にて 前編
五月女の別荘へ行く前日となった。残りの夏休みはそこで過ごす予定だ。万が一のことがあってはならないため、麓にある町医者に紹介状を認めてもらった。毎日の検診に来る手配もなされているはずだ。
宗田家に戻り、荷造りを始める。長く滞在するため、料理人と女中を何人か連れて行く事になっている。そのため衣服は最小限でも良いのだが……。
「ヘイゼル。父様と母様から、旅行の服を頂戴した。」
己れ達には膨大な選択肢が与えられていた。荷物はなるべく簡素にしておきたいが、二人の好意は無下にしたくない。
「またこんなに……。全く、僕らに甘いんだから。」
苦笑しつつも、包装を丁寧に解く清陽は楽しそうだ。贈られた被服はハイカラなデザインばかり。人形の様なヘイゼルが着れば似合うだろうが、日本人面の己れに合わせたら滑稽なのではないかと首を捻る。清陽の父様は日本人ではあるが、外国の香りが漂う、貫禄ある人だ。己れの様な垢抜けぬ、凡漠な男では格好がつかぬのでは無いのだろうか。
「シリカ。これ着てみてよ。」
他所へ思考をとばしていると、清陽から背広一式を差し出された。紺色よりやや明るい、
一先ずそれを受け取り、手早く着替える。
「やっぱり! 似合うと思ったんだ。」
同じ色の中折れ帽子まで被せられる。ヘイゼルの瞳に、釈然としていない己れの顔が映っていた。
「どうも、紳士服というは違和感が拭えんな。」
身体の線がくっきりと出る洋服はなかなか着慣れない。制服は外套を羽織るし、普段は浴衣か袴を着用する己れにとって、洋服はよっぽどの余所行きである。
「黒髪黒目である若造の己れが、こういったものを着ても滑稽なのでは?」
「あのね、珪。僕らは背丈はほとんど変わらないし、手足のバランスだって大体一緒だろう。」
そうは言われても、目に浮かぶのはやはり清陽の父様。海外を飛び回り、仕事熱心である姿を見て育っているため、どうにも背広というのは格好の良い大人が着用する物と認識してしまっている。そしてそういった人間が着て初めて、魅力が引き出せると思っている。
解せない己れの貌を見てか、清陽は少し笑った。
「抜ける様に白い肌と、オニキスの瞳に濡烏の髪。最高に綺麗な黒だよ。僕から見ればとても素敵だ。」
そんな言葉と共に己れの髪を梳く。絹を撫でる様な手つきで触れられ、ふわふわと空中を漂う様な心地だ。
「それは、どこぞのフロイラインに言ってやったらどうなのだ。」
「その撫子たちが羨む要素を持ち合わせていると、そろそろ自覚したらどうだい。」
余りにも真剣な目つきで見つめられ、返す言葉に詰まる。気恥ずかしさから視線を外したのが面白かったのか、清陽は機嫌良さそうに口角を釣り上げた。
「よし、明日は僕も、飛び切りの美人に化けてやろうじゃないか!」
妙に張り切りだしたヘイゼルは、間違いなく碌なことを考えていない。この直感は外れないだろう。伊達に己れの、僕のと呼び合う仲ではない。そう確信し、己れはこっそり溜息をついた。
◆ ◆ ◆
ガタガタと揺れる道を、馬車は慎重に進んでいく。この進み具合で行けば、到着は昼過ぎとなるだろうか。己れは手持ち無沙汰なのもあって隣に座る清陽の姿をまじまじと見た。
美人に化けると豪語した奴は、貴婦人と見紛う様な格好になっていた。化粧はしていないようだが、母様のコロンを拝借したらしい。金木犀の甘い香りが爽やかに漂う。
ドレープ、というらしい。垂らした淡い桃色の布が、柔らかなひだを作りながら清陽の身体を包んでいる。太腿まで及んだ、流れていく様な衣服は奴にしか着れぬだろう。黒いトラウザーズは細身に作られており、より華奢に引き立てる。鍔の広い白い帽子は、強い日差しを遮るのには打って付けだが、大きなリボンが飾られていた。
「父様も母様も、僕の性別を間違えてる時があると思うんだよね。」
視線に気がついてか、鍔を指先で遊ばせながら、清陽は零す。それでも奴はどこか浮ついた様子だった。
「豪奢なドレスでないだけ、良いのではないか。」
今の清陽を鳳先輩が見たら卒倒しそうだなと考え、それを独占しているという状況に少なからず優越感を覚える。
己れはというと、昨日清陽が見立てた背広を着用している。暑くなってきたので帽子を外すと、飾りピンが装着されていた事に初めて気が付いた。清陽の両親は良い趣味をしている。モダンな一品なのは間違いない。だが、清陽への贈り物は何故か婦人物が多い気がする。
恐らく伊太利亜製だろう、中折れ帽子をもて遊んだ。
「大体、婦人に間違われるのが厭だと言っておきながら、何故その様な格好をする。」
「だって、悲しいかな。似合ってしまうのだもの。贈り物に一度も袖を通さないのはどうかと思うし。」
何よりも、と付け足しながらこちらへ視線を向けた。モダンカラーのリボンが鮮やかに揺れる。
「遠目から見たら、僕たち、なかなかハイカラな恋人のようじゃないか。」
この榛色の眼はどこまで己れの事を分かっていて、企みを持つというのか。努めて冷静を装い、鼻で笑う。
「なら全力でエスコートしてやらねばなるまい。」
「病人には、フロイラインより丁寧なんだろう? 期待しているよ。」
ヘル・シリカ。ふくらとした唇がゆっくりと動く。
全くもって、頭痛がしそうだ。瀟洒な品々で身を固め三文芝居をする心地である。それでいて満更でもない気がする理由など、最早言葉にする必要もないだろう。
「では今日は特別に、病人のフロイラインのつもりで接してやる。覚悟をしておけ。」
悪どい笑みを互いに浮かべ、やがて噴き出した。
空は磨かれた青瑪瑙の色をしていた。雲は疎ら、眩い陽光に包まれる。木々と土の匂いが暑さを和らげているおかげか、吹き抜ける山の風が心地よい。
「嗚呼、なんだか呼吸がし易い!」
夏の酸素をたっぷり肺に取り込む清陽は、馬車から降りてすぐに、猫の如く伸びた。ドレスでは無いにしろ、一瞬見止めたらやはり婦人のようであるので、その姿が妙に可笑しかった。
「随分とお転婆なフロイラインだ。」
「ふふっ、もう待ちきれませんもの。ほら、早くエスコートしてくださる?」
悪巫山戯というのは止め具となる人間がいなければエスカレィトするものだ。己れのヘイゼルは女言葉を話し出した挙句、パラソルを差し、更には左手をヒラヒラとはためかせた。己れは笑いを堪え、右手で白い蝶を捉える。
「では。粗野な己れで大変恐縮ではあるが、同伴仕る。」
父様と母様が居れば、笑いながらその様子を窘めるだろう。だが、今日連れているのは女中と料理人、それから馬を走らせていた従者だ。彼らは惚けた顔で己れ達を門まで見送り、ややあってから弾けた様に動きだした。清陽の美しさに見惚れていたのだろうと予想がつく。やはり、愛している人間が美しいというのは自慢気に思えるものだ。己れの清陽はこんなにも美しい。
「ねぇ、シリカ。皆、母様達と違って僕たちを止めなかったね。やっぱり僕の珪が紳士で素敵だからかな!」
思いもよらぬ発言であった。己れの清陽は自らのことになると鈍感になるのだろうか。いや、こいつはその見目を大いに活用して生きている。そんな奴の発言としては随分的外れだ。
「お前の美貌の所為だろう。全く、己れの清陽には畏れ入る。」
「……シリカの鈍感め。」
「そっくり返すぞ、ヘイゼル。」
緩みっぱなしである奴の唇は、いつもより柔らかそうだ。玄関の鍵を開ければ、かつての五月女家らしい懐かしい香りがした。
避暑地であるので、当然外には都会的な娯楽はない。散歩に出るか、課題を消化するか、身体を休めるかといった装飾を排した生活になる。それでもここは退屈する所ではない。
夜になれば星々が瞬く。星座表などあてにならぬ程、無数の光の粒が夜空を埋め尽くしてしまう。清陽の体力次第ではあるが、釣りに没頭するのも悪くはない。
山には山の楽しみがあり、己れ達二人はこの場所が大好きであった。勿論、鎌倉の別荘も。
己も清陽も、毎年決まった部屋を使う。己れは畳と縁側のついた和室を。清陽は広々とした洋室を。この別荘の造りは全体的に簡素ではあるが、調度品は綺羅びやかであった。もともと父が、宗田家を招くこと前提で建てたらしく、西洋館を意識した部屋を、設計段階から複数盛り込んでいたのを知っていた。膝に己れと清陽を載せて、絵本を読みながらそう話してくれた記憶。あの時の情景は、心に染み付いている。
「ヘイゼル。」
開け放たれたままの扉を三回ノックする。白いカーテンが風に揺れる中、清陽は机に向かい鉛筆を走らせていた。天蓋付きのベッドに雑然とトランクが投げられている。案外大雑把な清陽の一面が感じ取れた。家や寮ではしないから、早速気が緩んでいるのだろう。
「ん……。ああ、薬の時間かい?」
課題に集中していた為か返事が半拍遅れた。持ってきた水を置き、薬を飲むのを見届ける。以前、死ぬほど苦いと評したそれを、感覚が察知する前に一気に煽っていった。
グラスを持つ清陽の手を目で追う。
「……爪、伸びたな。」
「うん? ……そういえば十日ほど放っておいているな。」
じっと自らの爪を眺める清陽に、ふとした悪戯を思いつく。無言でトランクを漁り、喰切を引っ張り出した。
「己れが切ってやろう。」
「ええっ! それ位は自分で……。」
「明日からフラウ・ヘイゼルと呼ばれるのと、今日一日病気のフロイラインとして扱われるのならどちらがお望みだ?」
貌の位置で喰切を翳し、何度か音を立てる。良く研がれている音がした。
「僕のシリカ。人はそれを脅迫と呼ぶのではないかな。」
「己れのヘイゼルが世話を焼かれるのが苦手だとは知らなかったな。」
「やれやれ、珪は僕の事を好きすぎる。」
清陽の溜息と共に席を立ち、二人掛けのソファーへと移動する。黒のベルベットが気持ち良い。柔らかな弾力を確かめる様に腰掛けた。大人しく付いてきた清陽の右手を拾うと、どうとでもなれと言いたげな虚脱感に溢れている。その様子に、己れは調子外れな鼻歌でも歌いたい気分だ。
「そんなに楽しいかい?」
丁寧にかつ慎重に切って行く。柔らかく、軽い感触が心地良い。
「遊び半分だったが、存外面白いな。」
「ふぅん。」
己れの手によって清陽の指先が整えられて行くのは、どうしてなかなか満たされるものがあった。桜貝の様な爪から落ちていく白い半月は、くるくると螺旋を描き、屑篭へ吸い込まれていく。
「ネイルクリッパー、欲しいなぁ。」
「何だそれは。」
「爪を切る道具さ。欧米にあるらしいんだけど、軽い力で怪我なく切れるらしい。」
「ほう、便利そうではあるが。喰切では駄目なのか。」
「……薬のせいか、時々力が入らなくなるんだ。」
その言葉と声音に思わず手を止める。いいや、切り終わったので、手を止めること自体は不自然ではなかったのだが。
爪の断面を指の腹でなぞる。ヤスリをかける必要なさそうだ。するりとした肌触りに、清陽が無性に愛おしくなる。
「そういう事なら、これからはずっと、己れが切ってやる。」
「そうじゃないんだったら。」
苦笑するヘイゼルは、己れの髪をくしゃくしゃと両手で混ぜた。爪の感触を楽しんでいたというのに阻害されてしまったが、降り注ぐ様な手つきに心地よさを覚え、目を細めた。
「言うことを聞くんだか聞かないんだか、よく分からない猫みたいだね。」
「己れ自身は、どちらかといえば犬であると思うのだが。」
「聞き分けの良い犬であれば、僕の爪を切ったりしないよ。」
白魚の指が己れの髪から首筋へ降り、シャツの襟へと伸びた。
「僕の可愛い、可愛いシリカ。君の魅力は、僕だけが知っていれば良いんだ。」
プツリと釦を外す音がした。タイは着けていなかった為に、呆気なくはだけていく。
「ヘイゼル、何を……。」
間違いなく、戯れではあるが。花火の一件から、清陽は好んで肌に触れてくる様になった。とん、と身体を押され、ソファーへ背中から沈む。清陽は何を思ってか、己れのピアスへと唇を寄せてきた。
「清陽、……ッ!」
「珪だって、僕のピアスに良くこうするじゃない。」
喰切が木の床に落ちる。ガランとした音が鈍く反響したが、清陽が気に止める様子もなく耳元で囁く。羽箒の様な感触がする清陽の髪が頬に触れ、反射的に首をすくめた。
「ッン……。」
まだ完全には安定しきっていないピアスの穴。歯で引っ張られ、チリチリとした痛みと共に雫がヘイゼルの舌で揺れる。針で刺すかのごとく刺激に身体が跳ねた。
それでも、己れは清陽を止めることは無い。不安の色を隠そうともせず己れの肌に触れる己れのヘイゼルに、どうして抵抗できようか。
「珪、僕の珪。可愛い、僕のシリカ……。」
己れの温度を、確かめたがる掌が身体を這う。清陽の貌はいよいよ泣き出す手前である。滑り込んだ手を捕まえ、早鐘を打つ己れの左胸へと誘導した。
「ここが、お前のシリカだ。……そうだろう、己れのヘイゼル。」
忙しない速度で、尚且つ一定の規則で鼓動する己れの心臓。己れの右手を清陽のに当て、脈を探る。赤い熱がこもり、互いの指が僅かに上下する様は生まれたての何かの雛に似ていた。
「ふふっ……。珪には敵わないや!」
途端に晴れやかになった笑顔は、やがてこの己れから飛び立つのだろうか。妙に明るいその貌に不安が募る一方だ。今度は己れが、清陽の体温を確かめたくなる番である。両頬に手を添え、検温する様な素振りで額を合わせた。
「……少し、昼寝でもするか。」
「とっても賛成だ!」
大輪の笑みを咲かせるヘイゼル。陽だまりに似たその輝きを、曇らせぬにはどうしたら良いのだろう。
ソファーから転がり落ちぬ様に清陽を背凭れ側に寝かせ、腕の中へ閉じ込めた。ふわふわとしたキャラメル色の髪にひっそりと口付けを落とす。
「君はやっぱり、可愛い僕の珪だね。」
もしかしたら、秘めておきたい想いさえ、清陽には見透かされているのかもしれない。洗練された衣類が皺になろうと、喰切や屑篭が散らかろうと、そんなものはどうだっていいのだ。他ならぬ、唯一の温もりに触れる時間と比べてしまえばそんなものは、どうだって。
「……愛している、己れのヘイゼル。」
「僕の台詞さ。愛しているよ、僕のシリカ。」
優しい泥の中へ沈むようだった。己れも清陽も、どこまで深い場所まで共に出来るのだろう。夢か現か、金木犀に似た香りの向こうに、枯れぬ切り花が散らばる美しい景色を確かに見た。
◆ ◆ ◆
鼻歌交じりに湯船に浸かるヘイゼルの声は、思いの外、響く。わざわざ離れに作られた風呂は、何でも己れの父が随分こだわって造ったらしい。良質の湯に浸かることは万病の元を断つと考えていたようで、昔から湯治の地と名高い場所を選んだのだという。
「明日は何をしようかな。」
「課題も今のところ順調ではあるし、自由課題がてら星図でも描くか?」
「それだったら西洋と日本の神話を比較する、とかも面白そうだよね。小川へも行きたいな。」
のんびりとした時間が流れる。明日のことを話すのは楽しいものだ。ざぶざぶと、湯を掬って顔を洗う。じんわりと染みる湯は、普段暮らしている地域のものとは違い身体の芯から温まるものだった。細かい空気の泡が背中を這う。
「嗚呼……、生き返るようだ。」
「若人とは思えない声だね、僕のシリカ。」
含みのある笑いを込めた表情は悪友の貌であった。頭の片隅を金槌で軽くはじかれた様にも思えたので、無言で湯をかけてやる。
「……やってくれるじゃないか。」
二人の間で、合戦の合図が告げられる。清明の掌で押し出された湯は思っていた以上に量が多く、己れの耳に詰まった。負けじと横から薙げば、大波が清陽を飲み込む。
「なんだい、そんな向きになって!」
「フラウ・ヘイゼルには少々過激な攻めだったか? それなら非礼を詫びよう。」
「僕の珪。君、今もの凄く悪い顔をしてるからね?」
両腕で取っ組み合い、押し合い圧し合う。しばしの間、生産性のないくだらない争いに全力を傾けた。当然、水の中と言うのは少し動いただけでも体力を使う。その上しっかりと温まる事のできる湯であれば、行く末は見えている。
「……きっと、湯を好むのは五月女の遺伝なのだろう。仕方がない。」
「珪の父様も、お風呂好きだったらしいね。」
案の定、すぐに逆上せる手前まで疲労していった。二人して息を切らしながら、湯船のヘリに腰掛け、足湯にして身体を休ませる。
「……己れの父、か。」
清陽の父様の古くからの友人なのは知っている。父と母は勤め先で出会ったとも聞いた。膝の上に載せて、昔話をする父が好きだった。だが細かい話は、己れが幼かったのもあってほとんど知らず、後から清陽の父様から聞かされたものだ。
「そういえば、珪の父様と母様に怒られたことあったよね。」
ヘイゼルは懐かしそうに、思い出し笑いをしながら湯を足でバシャバシャと混ぜる。あふれた湯がタイルを滑ってなだらかな波紋を描き、消えていく。
「それは、己れ達が探検と称して、夜まで籔の中を彷徨いた話か。」
「そう、それ。」
懐かしい話だ。己れたち二人で外出した挙句、鬱蒼とした木々の中を突き進んでしまったあの日。始めこそ勇み足であったが、薄暗くなるに連れ不安に駆られ、二人してべそをかいたのは記憶に焼き付いている。宗田家、五月女家、更には民警までもが己れ達を探していたのを知った時は、事の重大さを子供ながらに察知し血の気が引いたものだ。
「……あの時の母は怖かった。」
「あの二人からも、随分愛されてたよねぇ、僕達は。」
木の葉が掠れる様に、二人して笑う。最終的に己れの両親と清陽の両親に、誘拐されたかと思ったと泣き叫ばれ、抱きしめられたのも覚えている。当時、自らがどういう立場の嫡男であったか理解していなかったのだから仕方が無いといえば、それまでなのだが。
「珪の父様、外交官だったよね。」
「うむ。母は看護婦だったと。」
「そしたら、僕のシリカはきっと、世界を股にかける名医師になるんだろうな!」
なんたって、あの二人の子供なんだもの! と無邪気な笑顔で言う。長い睫毛に縁取られた淡褐色が未来への光を宿している。己れはそれに、根拠の無い安堵感を覚えた。
「お前に見届けてもらわなければ、困る。」
「そのつもりさ。僕、この病気と上手く付き合っていける気がするんだ。」
少し笑って、清陽はそういった。その表情に心臓が跳ねる。先ほどの、悪ふざけをする悪友、或いは兄弟の貌ではない。
言外に、己れと共に生きると言われている様にも聞こえてしまったのが、災いの素だ。いつもはふわふわとした髪が、水を含んで首筋に流れ落ちている。陶器の様な肌は火照っているせいで関節部分の、皮膚が薄くなっている所が紅く色づいていた。全く意識していなかったというのに、一度目に留まると、どうにも目の毒だ。
「もう一度浸かって、出るとするか。」
「まだ? 本当に好きだなぁ。」
ぼうっとするのを逆上せたせいにして、己れは鼻まで湯に沈んだ。
◆ ◆ ◆
明くる朝。やって来た麓の医者は意外にも若く、背は高くないものの、背筋の伸びた気持ちの良い男であった。活力にあふれ、生命エネルギーを振りまいているようだ。
「五月女くんだね。君の主治医からは聞いている。将来有望で心優しい子だってね。」
向日葵、と脳裏に過る。どこか清陽と雰囲気も似ているが、奴よりも色味を強く感じた。
「畏れ入ります。患者は二階ですので、ご案内します。」
どこか、干したての布団に似た匂いがする。若く見えるが童顔なのかもしれない。
「清陽、先生をお連れした。入るぞ。」
「……はぁい。」
あの声は寝ぼけているな、と内心思うが構わず扉を開けた。思った通りベッドに埋まっている清陽を揺り起こす。
「ヘイゼル、起きろ。診察だ。」
「ん……。起こして。」
「全く、良いのか。他所の人にこんなところ見られて。」
苦笑いしつつ、伸ばされた腕を引っ張り座らせた。ゆるりとした寝間着を幾分か整え、髪を撫でつけてやる。
「んっ。」
左頬をこちらに向けられた。意味するものは分かっているのだが、どうにも人前でやる気にはなれない。しかしやらなければ目醒も遅れるだろう。躊躇いはしたが、己れはそこに軽く口付けた。すぐその後に、清陽も己れの頬に口付ける。向こうの挨拶だと分かっていても、やはり他人に見られていると思うと抵抗がある。
「……申し訳御座いません。お見苦しいところを。」
「いいや、ゆっくり休息が取れているのは良いことさ。宗田くん、おはようございます。」
「おはよう、……ございます?」
漸く覚醒してきたのか、榛色の瞳がみるみる開いていく。あ、と間抜けな声が漏れ、正座した。
「すいません、すっかり寝入っていました!」
「良いんだ。安眠は健康体への第一歩だからね。早速始めようか。」
「宜しくお願いします。」
検温、脈拍の検査、それから咽喉の状態。手早く行う様子から、新米という訳ではないらしい。
「うん、随分良さそうだね。君の主治医から聞かされていることが合っているか、確認しても良いかな?」
町医者、となると年寄りや小児が多いのだろうか。醸し出す空気が、そういった弱者の警戒を解くのに長けている様に感じた。
清陽に代わり、病気の進行や服用している薬を伝え、活動範囲や時間の確認を済ませる。
「また夜に来ます。激しい運動はなるべく控えてくださいね。」
「どうぞ、二週間ほど頼みます。」
「ありがとうございました。」
部屋を後にし、玄関まで見送る。清陽が寝間着のまま出てきてしまったが、どのみちもう直ぐ朝食になるので眠気覚ましには好都合だ。
「では、宗田くん。油断してはダメだからね。」
「はい、承知しています。」
擽ったそうに笑う清陽。家の前の坂を降れば程なくして姿は見えなくなった。
「僕、あの人好きだなぁ。」
「はっ?」
思いがけない台詞が聞こえ、大袈裟に振り返る。存外動揺した声が出た。
「お前、これから世話になる医者だからといって、気を許しすぎではないのか!」
「そういう意味じゃないよ。シリカは可愛いなぁ。」
屈託のない笑顔に毒気を抜かれる。二の句を注ごうとしたが、ただ口を開閉する運動をしたのみになった。それもそうだ。途端に己れは羞恥に見舞われる。呼吸を置いて改めて声を発した。
「……確かに、布団の様な人だったな。」
「布団って! あれはお日様の匂いだよ。」
「どちらも似た様なものだ。」
「そう拗ねるなよ、僕のシリカ。」
戯れる清陽の長い腕が絡み、後ろから抱きつかれる。触れ合うことに悪い気はしないが全く以って複雑だ。初対面の医者に妬くなど、清陽の事となると何処まで己れは偏狭な男なのだろう。
「今日は天気も良いし、小川へ行きたいな。」
猫なで声、とまではいかないが、それなりに甘味を含んでいた。後頭部をガリガリと掻く。
「その前に朝飯だ。着替えてこい。」
はぁい。間延びした返事は階段を上る足音と共に遠ざかる。思いがけない所で清陽にしてやられてしまった。
ふと、清陽が出した今の様な声音に引き摺られて気がつく。
ああいった声と態度は己れへ向けている時以外に見たことがない。両親でさえ、背筋を伸ばし受け答えするというのに、起き抜けに甘える事など、己れ以外にしてこない。当然の事と捉えていて気がつかなかった事実は頬に熱を集め、引き結んだ口許を緩めていく。
無防備な猫の腹に触れた心地がして、堪えきれず小さく笑った。
「嗚呼、変わらないなぁ。」
天然水が滾々と湧き上がるこの小川は、変わらぬ姿で迎え入れてくれた。己れ達はここでザリガニを釣り、沢蟹を捕らえ、水遊びをして育ってきた。
「余りはしゃぎ過ぎるなよ。身体を冷やすのは注意されているのだから。」
「分かっているさ。」
主治医が言った様に、慢性であるうちはほとんど健康体であるらしい。進行を抑える薬の副作用はあるものの、日常生活には支障はない。筋力の低下は体力の低下でもあるので、運動は禁じられてはいない。清陽が病持ちという事を忘れそうになるくらい、奴はいつもと変わらず過ごしていた。
「ね、これ綺麗な石だと思わないかい?」
太陽光に翳したのはごつごつとした透明度の高い石だった。親指の先ほどの大きさで、一瞬硝子の塊かと思うほどである。
「中々見事なものだな。」
「何だろう。石英にしては燻った色だね。」
「ふむ、持ち帰って調べてみるか。」
未知のものに遭遇すれば、共にのめり込むのは最早、性さがである。でなければ、好奇心にとらわれて籔で遭難する事件など起こさなかったはずだ。三つ子の魂百までと開き直るのにやや後ろめたさはあるものの、仕方のないものである。
「わっ!」
「ほら、すぐそうやって余所見をする。転ばない様に気をつけろ。」
かといって、清陽の足元に注意を払わないわけでもない。
大体こいつは元々、注意力が足りていないのだ。だから鳳先輩の様な阿呆を調子付かせるし、こうやって背中から己れの腕の中に収まったままで、立ち直ろうともしない。
「流石、僕の珪。頼りにしているよ!」
「仮に己れが側にいなかったらどうするつもりなのだ。」
「それは、だって。珪はずっと側に居てくれるだろう?」
間が空いた。天を仰ぐ様にして、己れの方へと双眸を向ける姿は、光を受けて輝く妖精のようでもあるが、唯の悪餓鬼の笑みを湛えていた。
「珪が居るから、僕は気楽に生きられるんだ。」
更に脱力して身体を己れに預ける。重力に逆らうことなくずるずる下がり、完全に後ろに仰け反った逆さまの清陽の貌がこちらを向いた。
「グニャグニャになるほど、愛しているんだよ。僕のシリカ。」
「それは光栄だし、勿論己も愛しているが、もう少しシャンとしてくれ。己れのヘイゼル。」
どうしたって笑ってしまう。狡いだろう、これは。天使だ聖母だと囁く同級生や、異国の王子の様だと夢見る親衛隊が居るのにもかかわらず、己れの前では意外に
「よし、シリカ。僕をしっかり捕まえていて!」
「今度は何をするんだ、ヘイゼル。」
「つまりはこうさ!」
途端、機敏な動きで腕から抜け出す。ア、と己れの喉から間抜けな音が漏れたが、急いで後を追う。あと一つで捕まえ損ね、信じられぬことに清陽は岩場を勢いよく蹴った。木漏れ日に照らされ、挑発的な瞳が踊る。反射的に己れもそこから踏み切った。
空中で清陽の肩を抱く。間もなく水中に落ちる。小川とはいえ深いところは深いし、頭の隅々まで冷える水はよく澄んでいた。ミルクを溶かした珈琲色の髪が目の前で揺蕩い、水の泡が派手に舞う。
水面から貌を出し息を吸う。咳き込むことは無かったが、冷たい水は肺の底から呼気を押し出していく。しばらく、清陽を後ろから抱えたまま呆然としていたが、やがて二人共、肩を震わせだした。
「ぷっ……くふっ! あははっ!」
「お前は、本当に……っ! くっ、ふはっ!」
「この莫迦シリカ! どうして僕を捕まえてられなかったんだい?」
「阿呆のヘイゼルがここまでの阿呆とは思えなかったのさ!」
水位は肩より下といったところか。のろのろと水の中を進み、どうにか陸へ上がる。寒気も止まらなければ笑いも止まらない。気持ちが昂ぶっているせいだろうが、可笑しくてたまらなかった。こんな山奥までやってきて頭から涼水に浸かるなど、なんと莫迦々々しい!
「どうしよう、シリカ。とっても寒い!」
「奇遇だな、己れのヘイゼル! こちらも非常に寒い!」
慌てて日向へ転がったが、清々しいはずの風は身体を冷やしていくだけであった。いくら今は健康体に近いとはいえ、清陽の体調が危ぶまれるので、まずは濡れた衣服をはぎ取る。奇跡的に岸に置き去りだった鞄を急いで引っ掴み、手ぬぐいを引きずり出して雑にふいてやったが、その間も清陽の笑いは止まらない。
「ふふっ! シリカも脱ぎなよ。うわぁ、唇真っ青じゃないか!」
「くっ、ふふ、だ、誰のせいだと思っているのだ、このお転婆な、活発な病人が!」
「あははっ! フロイライン扱いは昨日一日の限定だぞ!」
最早、箸が転がるだけでも笑える。傍から見たら、訳が分からない状況だろう。男二人が濡鼠で互いの服を脱がし合いながら、笑い転げているのだから。
おおよそ身体の水を拭い、ほぼ裸の状態で座り込んだ。その頃には笑い疲れ、無言であった。思い出したかの様に爽やかな風が吹き、まるで己れ達を冷やかす様に木の葉がさざめく。
ソファー代わりにしているつもりなのか、清陽は己れの背中にだらりと寄りかかっている。先程と同じく全身を己れに預けていて、密着したところから徐々に温まっていくのを感じた。溶けるほどの心地よさであったが、やられっぱなしなのは正直いって癪だ。水中の続きをしてやろうと、背中から一旦引き剥がし後ろから抱き直してやる。
「シリカ?」
「気にするな。医者の言うことを聞けぬお前を、捕まえておくだけだ。」
花の様な身体、と心の中で零す。さらりとした肌触りが甘そうだ。疾うに消えてしまった、コロンの香りを思い出す。包む様に腕を回し、鎖骨を撫ぜた。
「捕らえたぞ、ヘイゼル。さあ、次は? 次は何を仕出かしてくれるのだ?」
「ッ、あ……!」
全身濡れてどこもかしこも寒いほどであるのに、清陽へ直に触れているところは急激に熱を持つ。じわじわと広がるそれに溺れそうだ。息継ぎをする様な動作で項を数回、歯で撫ぜる。ほとんど息だけの短い悲鳴が上がった。
「全く……、珪は甘えん坊な猫だなぁ。」
酔狂や児戯などではないと言ったら、清陽は逃げるのだろうか。溜息混じりの清陽の言葉には何も言わず体温だけを交換する様に触れ合う。
「珪。僕の可愛い、可愛い珪。」
――その言葉の中に含む好意は、己れが持つものとは大きな隔たりがあるのではないのか。
「甘えたはどちらだ。寝起きで、先生の前で失態を犯しておいて。」
「そう言うなよ。珪しか居ないと思っていたんだから。」
清陽。お前の一挙手一投足に、今更期待ばかりが膨らんでいく。己れはどこまで求めて良いのだろうか。今まで、近くにあることが当然であったのだ。その距離を改めて測ろうとしても、己れたちに普遍的な尺度は意味を成さないだろう。お前の何もかもを欲するが、踏み込み過ぎた時を考えると、足が竦む思いだ。
己れのヘイゼル。お前にとって、お前のシリカはどうあるべきなのだ。
答えはなく、木の葉が通りすがりに、さらさらと鳴るだけであった。
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