七章 人魚の章

 今日も今日とて波は打ち寄せ、せっせと何かを運んでくる。

 海から来るそれは、石だったり、貝殻だったり、何かの破片だったりする。

 それは風だったり、空気だったり、何かの匂いだったりする。

 ただ、流石に今回はびっくりだ。

 なにせ、人魚マーメイドが運ばれてきたのだから。




「もしもーし」

 アザラシかなにかのように横たわる、ひとりのマーメイド。

 もちろん女だ。オトコならば魚人マーマンである。そしてもしそうなら、声などかけず、しっかりじっくり海の藻屑になるように石でも括りつけて放流している。

 しかし目の前のアザラシ……もといマーメイドは、それはそれは美しい人魚さま。お伽話にでも出てきそうな麗しい見た目をしている。

 しっとりと濡れた長い金の髪はまるで絹のようで、横たわるその体は太陽の光を受けて真珠のように輝いている。目を閉じているので、瞳の色が確認できないのが残念だ。

 ただ。

 こいつ、なんにも着てない。

 下半身はまだいい。だって、魚だし。青いウロコがばっちりカバーしてるし。

 ただ、上半身がまるっとぽろっとしちゃってるのは、現代の倫理的にちょっとマズいと思う。私が女だからよかったものの、オトコがこいつを見つけてたらきっとそのままキャッチアンドイート、おいしくぺろりといただかれていたことだろう。

「む……むう」

「およ?」

 なにか、今、声を上げたような。

 ずりずりと近寄り、口元に耳を寄せてみる。

「…………こぉ」

「こ?」

 ヘイビューティフルガール、ワンモアセイ。ソレじゃ伝わんないゼ。

「こぉ……」

「むむ?」

 ヘイヘイ、ワンモアセッ。

「…………ここ、どこぉ……」

「……あー」

 美しいマーメイドは、ひたすらにその言葉を繰り返しているらしかった。



―― ―― ――



 目を覚ますと、そこは満点の星空でした。

「わあ」

 なんだか見たことがあるような。

 でもちゃんと見るのは初めてのような。

 遮るもののない星空はどこまでも広がっているようで、まるで宇宙に居るみたい。

 ふと、波の音が聞こえたので、寝そべったまま、そちらに目をやりました。どこまでも広がる暗い海に、写し鏡のように星空が瞬いていました。

「綺麗……」

 うっとり。

 何もかもを忘れて、見入ってしまいます。

 がつん。

「へ?」

 唐突に。

 なんだか物騒な音が聞こえたかと思うと、なんだか物騒な痛みが頭部を覆いました。

「あ……ぐ、むむぅ……」

 あんまりにも唐突だったので、しばらく頭が回らないのもしょうがないことです。そのまま両手でつむじのあたりをおさえて、地面にむかってうつ伏せになると……。

 ぺしん。

「あいた」

 今度は背中に痛みが広がりました。

 なんなのでしょう。

 もしかしてわたしは、知らないうちに裏社会の取引材料にさせられ、いまどきB級映画でもやらないような人身売買の果てに、こんな荒れ果てた離れ小島に……」

「こら、なにが荒れ果てた、だ。すっげー綺麗じゃないの。このばかたれ」

 ぺしん。

「い、いたあ」

 二度目のビンタが背中を襲ったようです。というか、聞こえてたんですね。

「す、すみません。ではでは一体、わたしはなにゆえこんなところに?」

 うつ伏せの姿勢からごろんと仰向けの姿勢へと転がると、綺麗な女性がわたしの顔を覗き込んできました。

「はあ? こっちが聞きたいんだけど、それ」

 赤い髪の女性は、呆れたようにそう言いました。

「そ、そうですか。そう、ですよね、はは、は……」

 なんだか恥ずかしくなって、ぽりぽりと頭を搔いてみたり。

「まあ、いいけど。とりあえず、その毛布被っといてよ。そんな立派なもんブラブラさせてたら、男が黙ってないだろうから」

「りっぱ?」

 はて? と首を傾げていると、眼前の女性がそっと指をさしました。

 わたしの、胸のあたりを。

「―――――」

 ばるん。

 それは見事に、まるだし、でした。




「ハイ、きっかり三秒」

 波に運ばれてきたマーメイドは、その美貌に違わぬ透き通った声を島中に響き渡らせた。

「あ、あわわわ、あばばばば」

 砂まみれの毛布を引き寄せ、ぎゅっと胸元に押し付けるマーメイド。

「あー、横からこぼれるね、それは」

「ひゃあああ」

 今度は毛布にくるまりたいのか、地面の上をごろごろしはじめた。見てくれとは裏腹に、中身は残念なようだ。面白い方向に。

「明日になれば服くらいは用意できるから、そのまま寝といていいよ」

 毛布としっちゃかめっちゃかやっているマーメイドにそう伝えて、薪木に火を点けた。

「む?」

「ん?」

 火が点いた瞬間に、マーメイドが頓狂な声を上げた。

「あ、いえ、なんか今、変な感じが」

「変な感じ?」

「なんか、こう……ぞわぞわ?」

「ぞわぞわ?」

「じゃなくて……もきょもきょ?」

「―――――」

「そ、そんな顔しないでくださいっ」

 自分がどんな顔をしているのか、鏡を見ずとも分かる気がした。

「もきょもきょ、ねえ」

 マーメイドの言葉を反芻する。

「もきょもきょ、です」

 わからないでもない。

「…………しゃわしゃわ、かな?」

 毛布を体に掛け、思案するマーメイド。

 そんな彼女に見えるように、右手の人差し指を空に向かって立てた。

「みててごらん。……ふう」

 魔力を込め、人差し指に息を吹きかける。吐息は霧雨のようにマーメイドへと降りかかった。

「わ、つめたっ」

「ほら、これでしょ、あんたの……えーと、もきょもきょって」

「え、あ……はい。なんですか、それ」

「何って、魔法よ、魔法。あんた、人魚なんだから、使えるでしょ」

「そ、そんなヘンなこと、できませんよう」

「ふぁ?」

 あ。ヘンな息が出た。

「ぶ、ぶへえっ」

 私の驚きの声は、そのまま水流となってマーメイドの鼻を直撃した。

「げ、げほ、か、はう」

「ごめんごめん。今のは私が悪かった」

 びしょ濡れになった顔をシャツの袖で拭ってやりながら、さっきの言葉について尋ねてみる。

「で、あんた、魔法使えないの?」

「使えないというか、使い方を知らないというか」

「――――――ああ」

 なんか、分かった気がする。

「今更だけどさ、名前は?」

 推測が正しいかどうかは、この質問で分かる。

「わかりません」

 やっぱり。

「生年月日」

「存じません」

「出身地」

「忘れました」

「記憶喪失」

「そういうことです」

「シャーコラーッ」

 平然と言ってのけるマーメイドに、全力のビンタを炸裂させた。

「いたあ」

「ああ、もう、めんどくさいっ。人魚が波打ち際で漂流してただけでも大問題なのに、記憶喪失とか、これどうすりゃいいのよっ」

 うがあ、と頭をかきむしる。

「まあまあ」

 そんな私に、マーメイドが声をかけた。

「なんであんたが落ち着いてんだっ」

「さあ」

「…………はあ」

 地面に座り、きょとんと私を見つめるその目には、よこしまなモノがなにひとつない。純粋無垢とはまさにコイツのためにあるような言葉だ。

 その顔を見た途端、なんだかもう、どうでもよくなった。

「いいや、もう。明日になればジェシー来るし。Tシャツも来るし」

「じぇしー?」

「なんて言うかな、執事っていうか、お世話係みたいな」

「わあ、すごいですねえ」

 ぱちぱち、なんて拍手をされてしまった。

「すごくないわよ」

 なんだか恥ずかしいので、マーメイドに背を向けるように、草を敷き詰めた簡易ベッドに横になった。

「すごいですよ。それに、純人さんなのに魔法まで使えて」

「ん?」

「え?」

 なんか、ヘンなことを言われた。

「私、純人じゃないけど」

「え、あ、失礼しました。エルフさんでしたか。髪が長いので、お耳が見えませんでした」

「それも違う。え、なに、ほんとにわかんないの?」

「ええと……はい、すみません」

「人魚よ、人魚」

 私は寝転がったまま、ころん、と、拾ってきたマーメイドの方を向き、そう言った。

「え? だ、だ、だって、ほら、立派な御御足おみあしが」

「ああ、これ、魔法。元はアンタと同じ、おサカナよ」

「……はー……………」

 放心したような顔でこっちに近寄り、ぺたぺたと脚を触ってくるマーメイド。

「いや、でも、これ、うわあ、ええー……」

「やっぱ陸で生活するぶんには足ってあったほうがいいからねー。便利でいいわ」

「……それ、人魚のアイデンティティ捨ててませんか」

「捨てるわよ。いらないし」

「わーお、大胆。で、どうやってるんですか」

「ん、流石に自力じゃないね。どっかの妖精が作ってくれた陣魔法使ってる。日中は人魚らしく振る舞わないといけないし」

「それはなにゆえに?」

 小首を傾げるマーメイド。

「なにゆえって、だってここ、カリブじゃん」

「そういえばそうですね」

「で、緑の残る美しき孤島、いわゆる秘境でしょ」

「まあ、はい」

「だから、観光客がうようよ来るワケ。希少種の私らは、たっぷりサービスしてあげてるの」

「ああ、見世物ですか」

「……身も蓋もないわね。せめて動物園でしょ」

「かわりませんよ」

「そりゃそうか」

 わはは、と、二人で一緒に、少し笑った。

「日中は下はサカナで上はビキニって格好だけど、夜中はこの格好で過ごしてるわ。ここ、電気もインターネットも通ってるから快適だし」

 ぽん、と、長袖のTシャツを着た胸を叩く。

「わあ、秘境感が一気に無くなりました」

「いまどき秘境なんてそんなもんよ」

「世知辛いですねえ」

 眉を寄せて難しげな顔を浮かべながら、彼女がそう呟いた。

「…………ちょくちょくヘンなワード入れてくるわね。ホントに記憶喪失?」

「はい、もちろん。そんな器用な嘘はつけません」

「でしょーね」

 と、急にマーメイドがきょろきょろし始めた。

「なに、どした?」

「いえ、その。ネットも電気も来てるって割には、なんていうか……」

「ああ。そーゆーのは地下にあるんだけどさ、寝るときはココなの。風があって気持ちいいから」

「なるほど」

「それから、あんたを浜辺から引きずって地下に降りるのが面倒だった」

「それは大変申し訳ございません。あと、ありがとうございます」

「別に構わないわ。どうせ暇だからねえ」

 くわあ、と、あくびが出た。それを見たマーメイドも、私と同じくらい大きなあくびをひとつ。

「寝るか」

「寝ましょう」

 うんうんと頷き、各々、草の上へ寝っ転がる。

「あ」

 唐突にマーメイドが声を上げた。

「ん、どうかしたの」

「お名前、お訊きしてませんでした」

「ああ、なんだ、そんなこと。アティーナよ」

「なるほど、お美しい名前ですね」

「名前に美しいとかあるもんかな。まあ、いいや、ありがと」

「うーん、ここで名乗れないのが悔しいですねえ」

「へえ、律儀なもんだね」

 私の言葉をよそに、むうう、なんて声を上げるマーメイド。

「……名前とか、思い出せそう?」

「そういったカンジはまったくしませんね」

「自信たっぷりねえ」

「えへへ」

「…………」

 まあ、思い出しそうにないのなら、それまでの呼び名が必要か。

「んー……………」

「え? なんです?」

 彼女は私の視線に気づき、不思議な声を上げた。

「……トレス」

「へ?」

「あんたの名前。とりあえず、トレスで」

「……トレスって、ウノoneドスtwoトレスthree、ですか?」

「うん」

「構いませんけど……なんで、tres?」

「その毛布、それで三枚目だから」

「………………」

 胸に掛けた毛布を握り、口をパクパクさせて絶句するマーメイド。が、拒否しているふうではない。

「じゃー決まりね。おやすみ、トレス」

「えっと、そのう……、……はい、おやすみなさい、アティーナ、さん……」

 なんだか納得していないようなトレスの声は、潮騒のなかに溶けていった。



―― ―― ――



「……って、寝れるわけ、ないじゃないですか」

 草のベッドに横たわり、空を見上げてつぶやくわたし。

 数メートル離れた同じ地べたで、彼女……アティーナさんは、すでにすやすやと眠っています。わたしことトレス(仮称)は、彼女との会話の後、何をするでもなく、ぼうっと横になっていました。

 記憶を紐解こうとしてみても、いろんな言葉や想いが泡のように消えてしまう。なにか大切なこと、忘れてはならないこと、そんなことがあったはずなのですけれど、どうにもこうにも思い出せません。

 特に、名前。名前は大切です。わたしという存在を、わたしたらしめる重要な要素なのですから。

 けれどやっぱり、それもわからないのです。

 アティーナさんの話から、わたしはどうも浜辺で発見されたようです。そしてわたしはマーメイド。きっとうっかり友達とはぐれて、どこかの岩っころにでも頭をぶつけて、ふよふよとここへ流れ着いたのでしょう。

「…………あれ?」

 いえ、今の考えはおかしいです。

 だって、わたしはどこも痛くないのです。怪我なんてしていません。

 そっと毛布をめくって体を眺めてみても、擦り傷ひとつありませんでした。

 そっと頭に手をやってみても、たんこぶひとつありませんでした。

 謎が謎を呼んでいます。これはきっと、わたしの手には負えません。





「くわあ」

 朝日を一身に受けながら、大きなあくびをひとつ。

 頭上に広がる青い空と白い雲。毎度のことながら清々しい朝である。カリブの海は今日も平穏なりけり。

 ふと、潮騒に混じって、聞き慣れぬ音が聞こえた。そちらに顔を向けると、それはそれは美しい人魚が整った寝息を立てていた。

「あー」

 トレスだ。

 そう、私が拾い、私が名付けた、記憶喪失のマーメイド。

 厄介なことだ。

 人魚は妖精種よりも数が少ない。その人魚が浜辺に打ち上げられて、その上身元不明だなんて、洒落にもならない。

 当の本人はそんなこともお構いなしに、幸せそうに眠っている。

「このやろ、起きろっ」

 げしげしと脚で蹴ってやると、トレスが気だるげに目を開けた。

「ふわぁ……。ここ、どこですかぁ……」

「…………また、そっからやんなきゃいけない? ト・レ・ス?」

 右手を顔の横でぐっと握りこみ、満面の笑みで話しかける。

「起きます起きます、すみませんっ」

 ばっと起き上がるトレス。

 ああ、そんなふうに起き上がったら―――

「おやおや」

 と、背後から、今度は聞き慣れた声がした。

「ああ、来てたんだ」

「ええ、つい今しがた到着したところです」

 涼し気な青いTシャツを着た、お世話係のジェシー。彼は私の後ろを見ながら、小さく頷いた。

「そちらが、ええと、トレス……さん、でしたね」

「あ、はい。ジェシーさんですね」

「ええ。記憶がないということで、何かと不便でしょうが、しばらくはアティーナと共に過ごして頂きます」

「え、マジ?」

 そんなこと、聞いてない。てっきりジェシーがこのまま帰りの便でお持ち帰り、あとは政府とかの偉い人がどうにかするんだと思っていた。

「本当ですよ。ダブリンの一件で今、政府機関がてんてこ舞いなんです。落ち着くのには三日はかかるでしょうけれど、少なくともその間は記憶喪失のマーメイドなんて扱っている暇はなさそうです。それまでにトレスさんの記憶が戻れば御の字ですからね」

「……むう」

 正論であった。コイツは正論を言わせればカリブイチだと思う。

 私が黙りこむ一方で、トレスはきょとんとしていた。

「ダブリンの一件って、なんですか?」

 至極もっともなトレスの疑問に、ジェシーが律儀に返答する。

「ええと、昨日のことなんですけれど、トリニティ・カレッジという……まあ、大きな教育機関で、ゴブリン達が爆破テロを起こしたんです。世界中の各情報機関がひっくり返るくらいの騒ぎになってまして、はい」

「はあ。タイヘンですねえ」

 トレスはいまいちピンと来ていないらしい。まあ、当たり前だろう。

「ではトレスさん、差し当たって、このお召し物をご着用ください。その格好・・・・では、観光客の皆様が大変驚かれますから」

 ジェシーはそう言いながら、小さな紙袋を取り出した。

「その格好……?」

 ジェシーの言葉を聞き、自分の体を見下ろすトレス。

 彼女の身に付けていた毛布は、勢い良く飛び起きたせいで、足元に吹っ飛んでいた。




 地下は涼しい。コンクリートで囲まれていて殺風景だけれど、冷暖房、インターネット、ふかふかのベッド、ぴかぴかの鏡、生活に必要なもの、そうでないもの、なんでも揃っている。

 ジェシーは服やら食料やら、私がネットショッピングで買ったその他モロモロやらを運び終えたあと、「では、失礼します」といつもどおりの台詞を言って、一足先にエレベーターで颯爽と去っていった。

「はわわわわわわ」

 トレスは私のベッドの上で、顔を赤くして震えている。異性に裸を見られたのが余程恥ずかしいらしい。

「ジェシーはそれくらい、見慣れてるよ」

 なんともいたたまれないので、慰めの言葉を投げかけた。

「そ、それとこれとは別問題ですよう……」

 そう言って顔をうずめるトレスは、既にジェシーの持ってきた服を着ている。服と言っても、ビキニタイプの水着だが。

 下半身はおサカナのままである。半分意識の飛んだ人魚トレスをジェシーが担いで運ぶ様子は、さながら大物を獲ってきた漁師のようであった。

「……ええと、それで、これからどうするんですか?」

「海岸で観光客のおもてなしね。ほら、あのエレベーター、上と繋がってるの」

「はあ。でも、アティーナさんの足は戻さないんですか?」

「戻すわよ、これから」

 トレスにそう返事をして、私は身支度を始めた。

 Tシャツをぽいっと脱ぎ捨ててビキニに着替え、鏡の前で化粧と髪型を整える。

「トレス、あんた化粧……は、できないか」

「ええ、はい」

 ぼけっとしたまま答えるトレス。

「……ま、いらないかな」

「そうですか?」

「どーせあたしもナチュラルメイクだし」

「はあ。でも、海に入ったら消えちゃうんじゃないんですか」

「そこはそれ、この化粧、耐水性バッチリだから」

 ぱふぱふとファンデーションを叩きながら、この化粧品の素晴らしさをトレスに伝える。

「海水程度、何の問題もなし。ちゃんとした化粧落とし使わないかぎり落ちないわ」

「はあ」

 む。トレスはやっぱりピンときていないらしい。

「……人魚ってのはみんな美形だから、化粧なんてホントは要らないんだけどねえ」

「あ、それ自分で言っちゃうんですね」

「でも綺麗すぎて困ることなんて無いでしょ。だから人魚も、オンナを磨くワケ。まあでも、アンタはそのなかでもとびきりね」

「ジェシーさんもそうおっしゃってましたけど、その、喜んでいいのやら」

 トレスの声が淀んだ。

「馬鹿、素直に喜んどきゃいいのよ。ジェシーがオンナの顔を褒めるところなんて、少なくとも私は初めて見たわ」

「はあ。……目元はトレスさんに似てるっておっしゃってましたね。初めて会う気がしない、って」

「ん? そうだっけ?」

 その言葉を聞いて、鏡に写る自分の目と、背後でぼけっとしているトレスの目を見比べた。

 今になって気付いたが、私もトレスも、同じ、燃えるような赤い瞳だった。

「ほんとだ。私はもうメイクしちゃったけど、確かに似てるわ。へえ、おもしろいものね」

「えへへ」

 呆としていたトレスが、今度はなにやら照れている。感情の起伏が激しいやつだ。

「よっし、かんせー。トレス、上行くよ」

「わたし、動けないんですが」

「大丈夫。そのベッド、車輪キャスターついてるから」

 トレスの座るベッドに近寄り、エレベーターのほうへと押しやっていく。

「よいせ、ほいせ」

「……なんで、ベッドに車輪が?」

 落ち着かない様子でトレスが問いかけてきた。

「いや、まあ、こんなこともあろうかと」

「あはは。記憶喪失の人魚を拾うなんてこと、そうそうあるわけないじゃないですか」

「―――うん。昨日までの私も、そう思ってたわ」

 エレベーターの前にベッドを寄せて、トレスを抱え上げた。

「おもっ」

「わあ、ひどい」

 そう口にしている割に、トレスは嫌そうな顔はしていなかった。

 トレスをエレベーターに降ろし、私は私の準備を始める。床いっぱいに描かれた魔法陣に手をつき、自らの魔力を注いでいく。

「……なにしてるんです?」

 トレスが不審げな声を上げた。

「昨日言ったでしょ、下半身を魔法で変化させてるって。これがその切替機スイッチなの」

「ああ、なるほど。どうりで大きいわけですね」

 トレスの言うとおり、この陣は大きい。今乗っているエレベーターは機材搬入用のバカでかいものだけれど、その床にも壁にも天井にも、びっしりと魔法陣が掘り込んである。もっとも、今は私が魔力を注いでいるせいで不気味に青く光っているが、普段はただの彫刻だ。あまり気にはならない。

「よし、オッケーかな」

 十分に魔力を注いで、エレベーターのスイッチを押した。ごうん、と大きな音を立てて、エレベーターが動き出す。

「まだ普通の足ですよ」

「ああ、時間かかるから。先にエレベーター動かしとくの」

「はあ」




 トレスはとても飲み込みが早かった。

 今日一日の私たちの行動予定をキッチリ覚え、ついでにルールも覚え、昼になる頃にはお客さんに愛想を振りまく余裕まで出しはじめた。

「あ、お兄さん、チケット落とされましたよ」

「おや、本当だ。ありがとう」

 私たちが居る浜辺と、観光客の歩く浜辺は隔離されている。と言ってもアクリルの壁なんて無粋なものがあるわけもなく、腰の高さくらいまでの木の柵と、魔力殺しの軽い結界が張ってあるだけだ。

 だけども、我々人魚側のルールとして、境界線たる柵にはあまり近寄らないようにしている。観光客と私たち、双方の安全のためだ。無論トレスにもそのことは伝えている。彼女は波打ち際から、五十メートルほど離れた歩道にいる男性の落し物に気付いただけにすぎない。

「……千里眼かよ」

 私は歩道ともトレスとも離れた岩場の上でひなたぼっこをしながら、ぽつりと呟いた。

「千里も離れてませんよ」

「おまけに地獄耳」

「聞こえてますって」

 トレスは何が楽しいのか、尾びれを波にぶつけながらはしゃいでいる。

「なんていうか、あんた、いかにもってカンジの人魚ね」

「……アティーナさん、それ、褒めてます?」

「勿論。ジェシーが聞いたら夢かと疑うレベルで」

「あはは。それなら本当ですね。ありがとうございます」

 にっこりと笑うトレス。

 そう、彼女はとても人魚らしい・・・

 いや、らしすぎるのだ。世間一般、いや、私たち人魚も含めて、皆が持っている「マーメイド」という種族に対するイメージをそのまま具現化したら、たぶんあそこにいるトレスが出来上がるだろう。それほど、不自然すぎるほど、彼女は人魚らしかった。

 漂流してきた、彼女の記憶。

 彼女の「人魚らしさ」は、その記憶の、何かヒントのようなものなのかもしれない。

「…………それも、あとちょっとでわかるかな」

 昼になれば、ジェシーが妖精を連れてくる。

 正直あのフェアリーのことは好きにはなれないのだけれど、魔法の腕は折り紙つきだ。あの妖精なら、トレスのことも何か分かるかもしれない。



「それで、トレス。何か思い出したことはある?」

 観光客に見えないよう、岩陰でこっそり昼食を食べながらトレスに話しかけた。あの妖精の手を借りずにするものなら、それに越したことはないのだ。

「うーん……具体的なことは、何も」

「そっか。……うん、仕方ないかな」

 私がそう言うと、サンドウィッチを食べていたトレスの手が止まった。

「でも」

 いつになく真剣で、不安そうな表情で、トレスが語る。

「なんだか、あの浜辺も、この岩場も、あの森も、初めて見る感じがしないんです。全然思い出なんてないはずなのに、でも、どこかで、見たような」

 海の上でふわふわと浮かぶ精霊エレメントたちを眺めながら、トレスが呟いた。

「……デジャヴ、ってやつかな」

「でじゃぶ?」

「うん。既視感って言ってね、初めて見る出来事のはずなのに、どこかで見たような感覚がすること。夢で見たような、はたまた昔どこかで見たような感じ。脳みその処理が速すぎて、見た瞬間に過去だと感じるから、とか、いろいろ理由は考えられてるみたいだけど、詳しいことはまだわかってないんだって」

 トレスが食べているのと同じサンドウィッチを私も食べながら、ゆっくりと喋り続ける。

「でもトレスのデジャヴは、ちょっと引っかかるかな。なんせアンタ、記憶喪失なんだもん。トレスがただ単純に思い出せないだけで、きっと脳のどこかが憶えているのよ。この海を、風を、森を」

「それは、つまり」

「うん。貴女はきっと、この島のマーメイド・・・・・・・・・




 一番暑いお昼が過ぎて、少し涼しくなる十五時。

 今日はセント・レースの大勝負があるとかで、お客さんは早くもまばらになっていた。

「トレス、憶えてるかな。昨日のちょうど今頃、あそこでアンタを拾ったの」

 そうトレスに声をかけて、岩場を指差した。

「あ……そう、なんですか。すみません、ちゃんと記憶があるのは、夜に起きてから、くらいなんです」

「だろーね」

「それにしても、岩場で、ですか。わたし、よくケガしませんでしたね」

 トレスはそう呟いて、自身の体を眺めた。白い肌には切り傷も擦り傷もない。

「確かに、言われてみればそうね。……そっか。この島の人魚だとするなら、漂流してきたんじゃないのかも」

 今まで考えていなかった可能性を思いつき、ぱん、と手を叩いた。

「トレスが浜辺で倒れていたから、てっきりどこぞの島から流れ着いてきたのかと思い込んでいたけど……。そうじゃなくて、ほんとは陸から海へ行く途中だったんじゃないのかな。島の中をふらふらして、やっと海にたどり着いて、そうして安心した瞬間に、ふっと意識が緩んでしまった。……………っていうのは、どう?」

「どう、と言われても、お答えできませんが……。でも、確かに、それなら辻褄が合う気がしますね」

「でしょ? なら、ジェシーのやつにキチンともう一回、戸籍なんかを調べさせれば―――」

「いえ、ジェシーさんがそんなミスを犯すとは思えません。アティーナさんの説が本当だとしても、やっぱりわたしは管轄外のはぐれマーメイドだったんじゃないでしょうか」

「……むう」

 やけにきっぱりとトレスが言った。

「随分、ジェシーのこと、信頼してるわね」

「え……、そう、ですね。なんとなく、仕事はきっちりするひとだと思っていました」

 自分でも根拠はないらしく、トレスが顔を曇らせた

「あ、ううん、ジェシーはほんとに仕事のデキるやつよ。そこは私も信じられる。私が驚いたのは、トレスが初対面のジェシーを、そこまで信じていたことよ」

 私がそう言うと、トレスは顔をほころばせた。

「それなら、アティーナさんも同じ、初対面ですよ。わたしはアティーナさんと少しお話して、なんとなく、わたしに嫌なことをするひとじゃないって思いました。直感、みたいなものです。ジェシーさんもアティーナさんも、顔を見れば、悪いひとじゃないってわかりましたから」

「―――――」

 ああ。

 こいつ、ばかだ。

 亜人であれ純人であれ、ヒトと名のつく知的生命体は、他のヒトを信用するべきではない。

 それが家族であれ、友人であれ、恋人であれ、信頼を寄せることはあっても、信用しきってはならない。それは、ヒトが生きていくうえで、自然と身につける知識であり技能だ。

 なぜなら、信用する、ということは、そのまま等号イコールで、裏切られる、ということだから。

 生きていれば必ず味わうこと。この世にいる限り逃れられないこと。

 ヒトはヒトを裏切る。

 これはもう、仕方のないことだ。世界というものは、ヒトというものは、そういうふうにできている。

 だからこそヒトは、せめて少しでも、裏切られたときに感じる痛みを減らすため、他のヒトを信じなくなる。

 信じれば裏切られる。

 ならば、信じなければ、裏切られない。

 それだけのこと。誰かに教えてもらわなくても勝手に身につく教訓だ。

 それを。

 それをこのマーメイドは、これっぽっちも考えていない。

 まるで、ヒトを信じることが、当然だと。

 まるで、ヒトが裏切るなんて、ありえないと。

 そんなことを言いそうな澄んだ赤色の瞳が、今、私を見つめている。

「…………参った。うん、アンタにはかなわないわ」

「え、え、なんですか?」

 純粋無垢のマーメイドは、わけもわからず首を傾げていた。




「ちーっす、アティっち」

 その鬱陶しい声が砂浜に響いたのは、日が傾き始めた頃だった。

「…………来やがったな」

「あはは、アティっち今日も怒ってるー。ねえジェシー、なんでアティっちっていつも怒ってんの?」

「アティーナは誰かれ構わずに怒るような、無作法な女性ではありませんよ、ロミ」

 ジェシーが傍らに浮かぶ妖精に語りかけた。

「ふーん、じゃあ、いつもタイミング悪いだけかあ」

「…………そうですね」

 心なしか、ジェシーの顔に疲れが見える。たぶん、あのハイテンションフェアリーと一緒に船に乗ってきたのだろう。ロミを連れてくるように頼んだのは自分なので、とても申し訳ない。

 ただ、他に妖精が居なかったのだ。この島を担当しているロミ以外の妖精を呼ぼうとするのなら、まるっと一週間はかかる。

 それでも、ジェシーには酷な頼みごとをしてしまった。後日、何かプレゼントでも買ってやろう。

「で、アティっち。用があるって―――」

 私に話しかけたロミが、唐突に言葉を切った。しゃべりだすと止まらないロミだが、こうやって不意に止まるとそれはそれで気になる。

「なに、ロミ」

「…………アンタ、何」

 私の言葉を無視して、珍しく険悪な表情を浮かべるロミ。

 その相手は、こともあろうか、トレスだった。

「ちょ、ちょっと、ロミ」

「アティっちは黙ってて。ねえアンタ、ここで何してるの。いつからここにいるの。何のためにここにいるの。いいえ、いいえ、どれも違うわね――――アンタ、なんでそんな格好・・・・・・・・をしているの・・・・・・

「…………は?」

 ロミの質問の意味がわからない。

 隣のジェシーも、波打ち際のトレスも、岩場の私も、全員が口を閉ざした。


「答えなさいっ。なんで妖精のアンタが、そんな格好をしているのっ」

 妖精ロミ人魚トレスに、そう叫んだ。




「―――つまり。その女は人魚に化けた妖精。コイツの言葉を信じるんなら、あー、妖精に成って・・・すぐ、の状態ね。記憶が無いのは当たり前よ。新しく生まれてくる赤ん坊が思い出を持っていないのと同じことだもん。コイツは妖精に成ったとき、無意識に変化へんげの魔法を使ったんでしょーね」

 岩場の影に私たちを集め、ロミはそう語った。

「わたし、が、妖精……?」

 トレスは戸惑いを隠せていない。

「そーよ。だからとっとと、その魔法を解きなさい」

「そ、そんなこと言われても、わたし、魔法なんて」

 トレスはそう言いながら、私を見た。顔に、タスケテ、と書いてある。

「…………あー、ロミ。トレスは嘘をつけるほど器用じゃないわ。魔法だって、きっと意識的には使えない。ねえ、ほんとうにそんな、魔法を使えない妖精、なんて居るの? そんな、エラ呼吸できないサカナみたいなのが?」

 私がそう言うと、ロミがこれ見よがしにため息をついた。

「まあ、いっか。ジェシーも信じてるみたいだし、ホントなのね。……あー、コイツはさっき言ったとおり、生まれたばかりの赤ん坊なの。考えてみて、母親の子宮から出てきたばかりの赤ん坊が、読んだり書いたり走ったり、出来ると思う?」

「実際トレスは、泳ぐくらいなら出来るみたいだけど」

 昼下がりの暑い時間、トレスは海ですいすいと泳いでいた。さすがは人魚だなあ、なんて思っていたのだけれど、あれを赤子と思え、というのは、ちょっと無理がある。

「あー、うん、例えが悪かったかなあ」ぽりぽりと頭を掻きながらロミが言った。「妖精ってのは、詳しいことは言えないけど、ある程度の知識とか経験を持った上で発生・・するの。コイツの場合は、この島で暮らす人魚の生活を見てきたんでしょ。実際、目はアティーナ、口はシャニラ、髪はカシューのを真似てるし」

「あ」

 シャニラとカシューというのは、別の地区を担当している人魚だ。そう言われれば、面影がある……どころか、瓜二つだ。

「そうでしたか。それで、どこか見覚えがあったのですね」

 ジェシーも納得がいったようだ。

「そーゆーこと。これでハッキリしたでしょ。コイツは妖精。人魚なんかじゃない」

 ロミはそう言って、またトレスを睨んだ。

 その視線に、トレスが抗う。

「ロミ・バーニャさん、でしたね」

 トレスが静かな声で、ロミに語りかけた。

「な、なによ」

 突然の雰囲気の変化に戸惑うロミ。

「わたしは、トレスです。コイツでも、ソイツでもありません。アティーナさんからきちんと、トレスという名を頂いています。ですから、トレスとお呼びください」

 凛とした表情で、トレスがそう言った。

「―――――」

 また、砂浜を沈黙が包んだ。

 今までなされるがままだったトレスが、初めて自身の意見を強く主張した。それも、私がテキトーに付けた名前のことを。

「―――そう。もう、名前を貰ったのね、貴女は」

「はい。仮の名でしたが、それ以前にわたしの名が存在しないというのなら、わたしがまだ、この世に生まれたばかりなら、わたしはトレスです」

――――胸が、詰まった。

「いいわ、トレス。貴女を、貴女の名を認める。ついでに、無礼も詫びておくわね」

――――こんなきもちは、久方ぶりだ。

「いえ、ロミさんの対応ももっともです」

「ありがとう。……じゃあ、トレス。魔法を解いてあげましょう」

――――私がつけた名。それを、こんなにも、大切にしてくれるなんて。

「お願いします。ロミさん」

「うん。…………解けろdispel

 しゅるり、と。

 大きな、衣擦れのような音がした。



「まー」ロミが言った。

「そりゃあ」私が続いた。

「そうなりますね」ジェシーがシメた。

 トレスの魔法は解けた。

「はわわわわわわわわ、あわわわわわわわわわ」

 ただ、トレスにかかっていたのは変化の魔法だ。

 それも体の構造を完璧に変える、とびっきり高度なシロモノ。

 それを解いたら、そりゃあ、生まれたままの姿・・・・・・・・に戻る。

「ジェシー、上は見慣れてても、さすがに下は見慣れてないよねー?」

 きゃいきゃいと騒ぐロミ。

「そのご質問、どう答えても私の立場はよろしくありませんね」

 そっと目を伏せるジェシー。

「ふわわわわわわわわわわわ」

 そして、岩陰に体を押し付け、必死に体を隠す、小さな小さな妖精トレス

「トレス。おしり、見えてるよ」

「ひゃわあああああああああああああ」



―― ―― ――



 トレスはロミが連れて行った。

『ここに置いといてもしょーがないでしょー。時計台に連れてくから、一人前になったらまたここに戻すよ』

 ロミはそう言っていたけれど、果たしてそれもいつになるやら。

 私の日常は変わらない。気ままに泳ぎ、気ままに食べ、気ままに寝る。そして気ままに、ネットショッピングをする。

「アティーナ。これはまた、沢山買いましたね」

 ダンボールの箱の山を持ってきたジェシーが、珍しく愚痴をこぼした。適当に部屋の隅に置いておくように指示し、化粧を続ける。

「おや、この小さな包みは?」

 大きなダンボールに紛れ込んだ、手のひら大の小箱を手に取るジェシー。ちらりとそちらを見て、宛名を確認した。

 少し前に買ったものだが、やっと届いたらしい。ジェシーに開封するよう促す。

「おや、よろしいのですか。では失礼して」

 中身は見ずとも分かる。

「…………ふふ。貴女も、随分と丸くなったものですね」

 三つの輪っか。

 男の指と、女の指と、妖精の腕に合う、金属のリング。

「ええ。いつか、これを身に付けた彼女の姿が見たいものです」

 彼はそう呟いて、箱を閉じた。

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