二つの軌跡

誠夜

第1話 帰還

 周囲に溢れるのは、彼女を嗤う声。それに彼女は、静かに、しかし身の内に滾る憎しみを己の掌を握り締めることによって押さえつける。いつか、この憎しみを彼らへとむけるために。



――『教室』という空間は、狭いながらも生徒たちにとっては一つの世界と同義である。

 教室の頂点の立った者こそがその狭苦しい世界の勝者であり、彼らに目の敵にされた者が敗者となる。

 大勢の子供たちが学ぶための場として巣くうその場には、子供たちなりの社会が形成されているといっても過言ではない。そこにあるのは、子供たちの子供たちだけによるシステムなのだ。そのシステムに、大人である教師たちが気付くことは少ない。なぜなら、子供たちは大人たちが思うほど易しくない。彼らは、大人たちの前では、優秀で賢く、まじめな一般生徒を演じているのだから。



 彼女自身が何かをしたというわけではない。彼女は、何もしていなかった。『教室』の勝者たちに単なる暇つぶしの標的にされた、ただそれだけの話。

「黙ってんなよ。マドンナ―」

 勝者の少年の声が、いやというほど彼女の鼓膜に絡みつく。「マドンナ」とは、彼らが彼女を貶すためににつけたあだ名である。なぜそのような名になったのかは不明用であるが、マドンナとは似ても似つかないという意味合いで彼女のことを読んでいることだけは明白だった。

 今、教室の支配者となっている少年は理性的で、小賢しいほど頭がよく、教師陣からは揺るぎない信頼を寄せられていた。だから、大人たちは気づきもしない。――そんな少年が『教室』という特殊な空間で築きあげている世間一般ではいじめと呼ばれるゲームの存在を。

 勝者というポジションを勝ち取る者は、大概において華やかな人間が多い。頭が良かったり、部活などで好成績を残していたりと、何かしらの特技を持っている者。彼女は、何も持っていなかった。ただそれだけで、底へと突き落とされたのだ。

(……絶対に、私はこのことを忘れない)

 この教室は、1年という短い期間で人間が変わる。クラス替えや卒業などのパターンがあるが、きっと勝者たちはこの1年感をすぐさま忘れていくことだろう。だが、彼女は違う。彼女にとってこの1年という時間は短くない。1年間嗤われ続けたという記憶は、彼女の中にひたすらに刻まれ続けている。

「マドンナちゃ~ん?黙ってないで、何か言ってくれよ~?」

 勝者たちの嗤う声を聴きながら、彼女は静かに己の中に燻る想いを抱きながら静かに誓う。――この教室が解体された時、それが彼女の報復の始まりである。

勝者なんて、結局それはこの空間だけの称号。その称号がなくなったら、彼らは彼女と同じ人間へと戻る。

(……なら、その時はどんなことに遭っても文句は言えない。そうでしょう?)

 早く1年が過ぎろと願いながら、彼女は胸の内で一人ほくそ笑む。いかにすれば、彼らに自分と同等の想いを残せるだろうかと。

 彼女がそのようなことに胸を馳せているなどとは、周囲の勝者たちは思いもしていない。

 勝者たちは、きっと彼女に自分たちが劣るはずがないという優越感を少なからず持っている。だからこそ、安心して彼女のことを嗤うことができるのだ。

頭がいいことと、常識があることはイコールではない。それが、彼女がこの空間の中で得ることのできた唯一今後役立たせることのできる知識ともいえる。

(だって、もし常識があったら、今こんな馬鹿げたことやっているわけないじゃない)

 冷めた表情で、彼女は勝者たちを見つめる。どうすれば、彼らを効果的に地獄へと叩き落すことができるだろうかという算段だけを思いながら、彼女は彼らに気づかれぬように小さく口角を持ち上げた。





 水島美乃(みずしま よしの)は、にこやかな笑みを浮かべながらその門をくぐる。10人いれば全員が人が好さそうと言うような風体で、彼女は堂々と敷居をまたいでいく。かつて、そこは彼女が一番嫌った『教室』がある懐かしいとは程遠い、忌々しい母校である。

「……――さぁ、昔話をしましょう」

(主人公は勝者ではなく、敗者ではあるけれど)

 彼女は戻ってきたのだ。自らの意志で、自らの足で、すべての過去を完済させるために。

「私は、このために生きてきた。あなた達は、忘れているかもしれないけれど」

 そっと手元にある名簿を愛おしげに撫でながら、彼女は静かに目を細める。その表情は、まるで大切でたまらない恋人に向けるようなものであった。……実際は、今までたまった計画を、想いを晴らすことができる喜びに染まった顔だった。

(忘れたなんて……)

「……言わせないし、許さない。だって、それだけのことをしたのだから。償ってもらわなきゃ、割に合わないじゃない」

 心底楽しそうに、彼女はそんな言葉を口にする。

今、彼女の中にあるのは『教室』という特殊な空間をいかにして崩すか、それだけ。まずは、土台を崩してしまわなければ始まらない。

「大丈夫。まだ、時間はあるわ。だって、今日からここが私の職場ですもの」

 ――そう、彼女は思い出の場所、因縁の地へと帰ってきた。自らが教師になるという手段を用いて。


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二つの軌跡 誠夜 @kouyou

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