第3話「綾菱という人」
じゃあ、何かあったら連絡ください、と言ってその打ち合わせを終えた。業務に戻れば、僕も薮田も斎藤も、普段と何ら変わりない日常だった。甘ったれた斎藤は今日も薮田に怒られて、それでもニコニコしながらPCに向かっている。武田さんはいつもどおり自分だけコーヒーを入れて、黙々と仕事をしているし、薮田はやっぱりいつもどおり忙しそうだ。まあ、周りに言わせれば僕が一番忙しそうにしているらしいが。
そんな日常的な光景のおかげで、僕も仕事に集中できた。チームのリソース管理、スケジュール把握、それぞれの機能のステータス管理とテスト要員のアサインと、やることはいくらでもある。仕事が大好きということではないが嫌いでもない。こういう時は集中させてくれる良い薬にもなる。
「牧村」
振り返ると、木ノ原部長がいた。
僕の直属の上司だ。今年で40代に入ってまる2年がたつその人は、ぽっこりと出たお腹と二重あごに天然パーマと髭面が特徴の、一度見たら忘れないタイプだ。バリバリのシステムエンジニアが現場を離れて管理職につきましたという、典型的なタイプでもある。本来、辞令などの話はこの人から来るはずなのだが、どうして今回に限って彼を飛び越して本部長からメールが来たのだろう。・・・と、部長の顔を見たらつい思い出してしまった。
「ちょっと、5分後に会議室に来てくれ」
振り向いた僕に木ノ原部長はそういってフロアーを出ていった。
コンコン、と会議室の扉をノックすると木ノ原部長の声がする。
「入ってくれ」
会議室に入ると6人がけのテーブルの向こう正面に部長が座っていた。
「おい、聞いたぞ。峯岸本部長から。お前、何かやったのか?」
なるほど、木ノ原部長にも一応連絡がいっていたのか。
「いや、何もしてないですよ。少なくとも僕の記憶では」
部長は少しほっとしたようだった。
「そうだよなぁ。突然峯岸本部長からお前に異動の辞令が出てるっていうから、何事かと思ってな。でも、お前にも心当たりがないのか」
「ええ、全く身に覚えがありません。いったいどこに異動になるのか・・・」
そうつぶやいた僕に、まるで喫茶店で待ち合わせた探偵のように木ノ原部長は言った。
「気をつけろ。こんなに急に辞令が出るというのは、あんまり良い話じゃないぞ。いろいろあると思うが、覚悟しとけ」
はい・・・と言った僕を確認すると、じゃあ、仕事に戻ろうと言ってそのまま二人とも会議室をあとにした。
時計が16時から5分前を指している。
あれから、木ノ原部長も普段と変わらず仕事をしている。社内の光景だけ見れば普段と何も変わらない。部長も薮田もきっと、心の中は普段通りではない部分が少しはあるはずだが、それを見せないのは僕への配慮だと思う。ありがたい。
そろそろ、峯岸本部長が帰社する頃だろうか。自分は悪いことはしてないと思っていても、やっぱり不安は消えない。胸の鼓動がどんどん強くなってくる。そろそろ、心の準備をと思いPCに目を向けたら、一通のメールが届いていた。
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牧村殿
峯岸です。
すでに会議室にいます。
仕事のキリが良い所で来てください。
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メールで?
なぜだろう。同じフロアーにいるのだから直接僕に声をかけたほうが確実なのに、一度自分の席に戻ることもせずに会議室に直行している。僕と接触することすら周りにはバレてはいけないようなことなのだろうか。不安が大きくなっていくのが自分でもわかる。胸の音が周りに聞こえるのではないかというぐらいに。ただ、四の五の言っても始まらない。とにかく峯岸本部長に話を聞かないことには何もわからないし、仮に悪い内容だったとしても戦いようがない。
僕は席を立って会議室へ向かった。薮田も斎藤も、現場は何の変化もなかった。薮田は少しこちらを見た気がしたが、周りは何も気づいていない。トイレへ立つのと変わらない流れそのままで、フロアーを出た。
数時間前、木ノ原部長を訪ねたときと同じように僕はドアをノックし、そして部屋の中にいるその人からも数時間前と同様の返答が来て、僕は会議室に入った。
「いやぁ、すまないね、急に」
峯岸本部長はいつもどおりのしまった表情で僕を迎え入れた。
この人は、ITエンジニアというよりは典型的なビジネスマンという方が似合う。大学時代はラグビーで有名な選手だったらしいが確かに長身で体格も良い。物事をハッキリと述べて周囲を凍りつかせるところもあるが、信頼は厚い。僕も、この人だからちゃんと話を聞こうと思えることが多い。
「いえ」
僕は少し首を振りながら最低限の返事をした。
まあ、かけてくれという本部長の言葉に従い、僕はテーブルを挟んで向かいに座った
「突然の連絡で驚かせってしまったようだね。申し訳ない。まず、君がなにか不祥事を起こしたなどということではない。一切そういうことではない。心配をさせてしまったようなら、まずは安心して欲しい」
ほっとした。
まだほっとしてはいけないのに、どこに飛ばされるのか何をさせられるのかもわかっていないのに、それでもほっとした。とにかく、僕の責任が追求される、僕が何か悪いことをしたわけではないということが、嬉しかった。何も悪いことをしていないのに、何もされなければもともと何の不安もなかったのだからそちらの方が幸せだったろうに、なぜだか嬉しかった。こういう手法で詐欺は行われるのだろうか。
「では、なぜ異動することになったのですか?僕は何をすることになるのですか?」
峯岸本部長は口を真一文字に結び、鼻から一息吐いたあと、説明をはじめた。
「まず、君の異動先や仕事の話の前に説明しておきたいことがある。私は君の移動先しか聞いていない。他のことは一切聞いていない」
「へ?」
どういうことだ?
そんなはずはないだろう。人事の最終決定がもっと上の役職だったとしても、いま目の前にしているこの人に裁量がないはずがない。異動をするにしても他の部署からおいそれと求められて差し出せるものではない。そこには理由があるはずだし、何より本部長自身が納得しなければ許可はされないはずだ。隣の部署は外国より遠いとはよく言うが、それぞれの役回りを定めればある程度は仕方の無いことだ。ある意味、それは組織というものを動かすときの必要悪であって、そう簡単に取り払われて良いものでもない。その組織体の常識ともいえる経路を飛び越えてきたとは何事だ。全く話が読めない。いや、1つだけルートがある。それをなし得るルートが。しかし、それこそあり得ない。彼は僕の名前すら覚えていないはずだ。
「この異動には木ノ原も私も、無論他の部署も絡んでいない。現時点でわかっているのは社長が絡んでいるということだけだ」
まさか。いや、そう、それしかルートがない。この異動を決定できるルートは、本部長の権限すら無にすることのできる権力者にしか使うことができないものだ。しかし、僕は入社式こそ社長と顔を合わせたが、そのあとはほとんど個人レベルでは対面していない。いつでも彼は壇上の人であり僕はエキストラだ。
「私にもよくわからないのだ。説明を求めても答えてくれなかった。ともかく"Webサービス部の牧村を至急異動させろ。理由は聞くな。異動するという事実以外はすべて最高機密事項だ。"の一点張りで、それ以外には指示一つない」
余計話が見えなくなった。
自分が悪いことをしていなかった、その責任追及ではなかったとわかったさっきの安心はなんだったんだ。むしろ、それの方がまだ良かったかもしれない。異動の理由もわからず社長が直接指示を出すような事態で、そして最高機密であると。いったいぜんたい、何が起こっているのだろうか。ともかく、まずこの質問からはじめなければいけない。ここまで聞いた限りでは、この質問の答えより先に情報があるとは思えないが。
「それで、僕はどこに異動になるんですか」
それがな―という言葉からはじまった本部長の返答は全く予想だにしていないものだった。
「箱根だ」
「は、箱根?いや、だって、え?」
「そうだ。この会社に箱根支社などない。営業所も、事業所も。だから、私にも何もわからんのだよ。社長がいったい何を考えているのか。もしかしたら、箱根に何らかの企業がありそこへ出向ということになるのかとも考えたのだが、しかし箱根にシステム開発をしに行くというのも・・・」
僕も一瞬そう考えた。しかし確かにそのとおり、箱根でわざわざシステム開発をするなんて聞いたこともない。大企業との取引が中心のこの会社ではなかなか考えられない。
「麓にあたる小田原には営業所がある。もしかしたらそことの繋がりなのかもしれん」
なるほど。それならあり得ない話ではない。しかしそれにしたって最高機密で突然の異動ということにはならない。
「それで、僕はどうしたら良いのですか?」
「社長からは、明日の13時に箱根峠の道の駅に行けと指示が出ている」
道の駅?次から次へと理解出来ない話が出てくる。
「道の駅って・・・どこかのオフィスに行くわけではないのですか?」
「いや、おそらくそこから移動するのだろう。そこに"綾菱"という人が迎えに来るそうだ」
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