第7話 鬼武蔵

 水無月の十三、四日頃のことでした。

 上州大泉の辺りをまわっているノノウからの繋ぎがありました。砥石といしの父宛の密書でしたが、岩櫃いわびつを通るからには、私にも目を通す権というものがありましょう。

 密書の中身は、小泉城主・富岡とみおか六郎四郎ろくろうしろう秀長ひでなが殿宛の手紙の写しでございました。

 手紙の差出人は、滝川左近将監さこんのしょうかん一益様です。

 富岡殿からの問い合わせに対する返書のようでした。

 おそらくは富岡殿が京都であった「」を聞いて、その真偽を確かめようとなされていたのでしょう。

 あいや、何故当家がそのようなものを手に入れられたか、などということは申されますな。もう遠い昔のことにございますれば。ま、経緯はともかく、我らはその中身を覗き見ることが出来た、というだけのことでございます。

 返書の中身と申しますのは、

無別条之由候べつじょうなしのよしにてそうろう

 といったものであったと記憶しております。

 私は文を畳み、砥石行きのノノウに渡しました。

「別条なし、か」

 この時点では、滝川様は織田様の死を秘匿なさるおつもりだということが知れました。

 危うい策としか言い様がありません。これほど大きな秘密を、長く隠し通せるはずありましょうか。

 少なくとも我ら真田は真実を知っております。知らぬふりをしておりましたが、知ってしまっているのです。我らのような小勢が知っていることを、強大な北条方が知らぬはずはないでしょう。

 同じ頃、木曽の方でが起きていたのですから、なおのことです。

 

 騒ぎの端緒は、木曽福島きそふくしま城の木曾きそ義昌よしまさ殿に届いた一通の書状でした。

 差出人は北信濃の海津かいづ城主・森武蔵守むさしのかみ長可ながよし殿です。

 織田信長の勢力下にあった海津城……後々松代まつしろ城という名にいたしましたが……それは重臣・森武蔵殿の所領とされておりました。

 書状の内容は、

のため、美濃国金山かねやまへ戻ることと相成り候。ついては、明日そちらにて一晩宿営を願いたく……云々うんぬん

 というような物だったと聞きます。

 東信濃では我ら信濃衆が滝川一益様にお味方するという形となっておりましたので、どうやら治まっておりましたが、北信濃では各地で一揆勢いっきぜいによる反乱が起き、領地運営も「大変」であったようです。

 北は越後の上杉様と直接境を接していたわけですから、なおのことです。

 森武蔵殿が織田信長横死の報を受け、運営の難しい新領地の放棄を決したのも、致し方のないことでした。

 書状を受け取った木曾義昌殿は

「合い判った、と武蔵守殿にお伝えくだされ。くれぐれも、よろしゅうにお伝えくだされよ」

 そう申しつけて使者を帰すと、ご家来衆を呼び集めました。呼び集められた者の中には、質として預けられていた我が弟・源二郎と、矢沢三十郎頼康よりやすも含まれております。

 多くの者共がいるというのに、場は水を打ったように静まりかえっていました。その中で木曾殿は落ち着いた声音で仰せになったそうです。

「聞いたとおりだ。明晩『』が来る」

 この「鬼」と申しますのは、誰あろう森武蔵守殿のことです。森殿はその剽悍ひょうかん苛烈かれつな、あるいは残酷ざんこく無慈悲むじひな闘い振りから、「鬼武蔵おにむさし」と呼ばれておいででした。

 森殿はのが信条の方でした。一軍を預けられたなら、その軍を文字通りに率いて戦われます。自分が先頭に立って敵陣に切り込み、部下の誰よりも多くの首級しるしを上げる大将であられたのです。

 あの方の戦には作戦も何もありません。どのような方法であっても、相手を全滅させればよい、とお考えだったようです。

 立ちはだかる者は敵であれば当然切り伏せ、敵でなくても打ち倒して進む。ただそれだけのことです。

 相手を壊走かいそうさせ、追撃し、りにして殲滅せんめつする。あるいは、逃げる人々の背に矢と鉄砲の雨を降らせる。動くもの総てを動かぬようにする。

 その苛烈振りをおそれた国人くにびと証人ひとじちを差し出しました。無理矢理に証人とされた者の方が多かったとも聞きます。

 証人の数は数千の上といいます。その人数を、決して大きいとはいえぬ海津城内に押し込めていた、と伝え聞きます。

 そこまでせねば、領国内を治めることが出来なかったのでしょう。それほどに北信濃の国人衆は森殿を……織田信長公を嫌っていたのです。

「さてめは、その人々を総て引き連れて城を出たそうな。人々はめの本隊の回りを取り囲むように並ばされた。これでは国人衆も滅多めったに手を出せぬ」

 木曾義昌殿があくまで静かに仰せになると、諸将は歯軋はぎしりをしたそうです。誰も言葉を発しませんでした。

めは、人々は信府まつもとを過ぎた辺りで、解放した……亡骸にして、な」

 場がざわつくのも当然でありましょう。

 かつて武田の配下であった頃、木曾殿も武田に証人を出しておりました。よわい七十のご母堂ぼどう、十三歳の御嫡男・千太郎殿、そして十七歳の岩姫殿は、木曾殿が織田方に恭順きょうじゅんしたと知れたその時に、新府しんぷで処刑されたのです。

「北信濃の人々の悲しみはいかばかりか。証人に出した肉親を殺される辛さ、苦しさは、儂も良く知っている。……皆の者、儂は『』を退治せんと思う」

 どよめきが起きたといいます。木曾義昌殿の意見には皆同意しているのですが、伝え聞く「鬼武蔵」の恐ろしさが、ご一同に不安を抱かせたものでしょう。

「我らは深志ふかしよりの退却より間もなく、兵も疲弊ひへいしておりますれば……」

 不安を声に出す者も居ったようです。

 義昌殿はご一同の顔を見渡すと、

「遠山右衛門佐うえもんのすけ友忠ともただ殿、久々利くくり三河守みかわのかみ頼興よりおき殿、小里おり助右衛門すけえもん光明みつあき殿、斎藤玄蕃助げんばのすけ利堯としたか殿……東美濃の御歴々おれきれきも『』がお嫌いだそうな」

 名を挙げられたのは、元々森殿とは縁の深い方々です。そういった方々にさえ、森殿は酷く畏れ、憎まれていたのです。

 それが事実か否か、私には判りません。しかし、義昌殿の言葉を聞いた方々は、真実と思ったことでしょう。

「儂は『』の為に大事な家臣、領民を失いたくはない。良いか、明日この城へ来るのは人に非ず。彼の者は『』である。を退治するのに、人とするような堂々たる戦を、兵力を使う戦をする必要はあろうか。使うのはじゃ」

 義昌殿はご自身の米咬こめかみ当たりを指し示しました。

 人々は理解しました。つまり、森長可殿を騙し討ちにするのだ、ということをです。

 陣立てが行われました。

 ですが当たり前の戦のように「城を守るため城の外に敷く」布陣ではありません。門の内側、ほりの内側、壁の内側、屋敷の内側に、少数の兵を配置する布陣です。城の中に居る者が決して外へは出られないようにする構えでした。

 総てを城の中で済ませる為の準備であったのです。

 兵の実際の配置は翌日に行われることに決まりました。

 当然のことです。

 日本武尊やまとたけるのみこと熊襲くまそ討伐の例を上げるまでもなく、奇襲きしゅうを掛ける相手には充分油断をしてもらわねばなりません。当の「」が入ってきた直後に城内の異様さに気付いてしまっては元も子もあったものではないでしょう。

 ことに、彼のは武勇の御方です。たくらみがばれてしまったなら、包囲網を易々と突き破って逃げられるか、あるいは城ごと落とされるということも無いとは言い切れません。

 運良く逃げられただけであっても、その後に本領で兵力を取り戻し、あるいは増強した「」が、怒りのままに改めて攻め寄せてくることが考えられます。

 失敗は許されません。

 策は綿密に練られ、準備は万端に整えられました。

 明日「」が到着したなら、歓迎の素振りで迎え入れ、饗応きょうおうしている間に精鋭の兵を配備し、油断に乗じて「退治」する。

 明日、総てを為す――。

 その夜は、流石さすがの木曾伊予守いよのかみ義昌殿も寝付けなかったと見えます。

 大事を明日に控えた夜に、大鼾おおいびきをかいて眠ることが出来る者はそうはおりますまい。私などは戦になるかならぬか判らぬ頃から、寝付きが悪くなります。

 深夜、義昌殿は灯明の消された真っ暗闇の中、独り広間に座しておられたといいます。

 私にはこの時の義昌殿のお心の内を推し量ることができません。されど、家名を守るためであれば、卑怯者ひきょうものそしりりを受けかねない策を講じ、実行せねばならない家長の、高揚したような口惜しいような、落ち着かない心持ちは、少しばかりは判るつもりです。

 只独り何事かを沈思黙考していたのであろう義昌殿は、その時不気味な音を聞かれた筈です。

 何かを叩く音です。いや、叩くという言い様は生温なまぬるい。何かが激しくぶつかり合うような、叩き壊されるような轟音ごうおんです。

 部屋が、いえ城そのものが鳴動めいどうしたことでしょう。

「何事だ!」

 大声を上げるのと殆ど同時に、小者こものが一人明かりも持たずに広間へ駆け込み、

「一大事にございます! 鬼……森様が只今ご到着でっ」

 小者の報告は、義昌殿には理解しかねるものでした。しかしながら、

「それはどういう意味だ?」

 というような、誰であっても当たり前に思い浮かべるであろう言葉を、義昌殿が口に出されるよりも先に、答えの方がご自分からやってこられたのです。

 悲鳴、怒声、床を踏みならす音、そして大きな笑い声をまとって、彼の方は現れました。

「伊予殿、久しいな!」

 暗闇を割って、美貌の若武者・たいらの敦盛あつもりかたどったという能面の「十六じゅうろくの面」が浮き出た……ように見えたやも知れません。

 手燭てしょくのか細い明かりがあごの下から白い顔を照らしました。炎が揺れ、影が揺れ、その方ご自身も肩を揺して、義昌殿に近寄られました。

「お……に……武蔵、どの……?」

 まごうことなく、森武蔵守長可その人です。

 義昌殿が驚き、ひるみ、そして震え上がるのは当然のことでありましょう。

「なに、この時節じせつ暑さが厳しく、兵も疲れ果てるであろうと考え、こちらへ着くのは明日あたりと踏んで、そのつもりでお伝えしたのだがね。ところが今日の日和と来たら、春先の如き涼しさであった。御蔭で道行きがはかどること、捗ること!」

 眉が太く髭の濃いところを除けば、まるで若党かのような優しげな顔に笑みを満たした森武蔵守長可殿は、武装そのもののような旅装を解かぬ侭に、義昌殿の真正面にドカリと腰を下ろされました。

「ところが着いてみれば何と門が閉まっている。致し方なくという次第だ。しかし伊予殿、城主たる貴殿を前にいうのは申し訳ないが、この城はあまり堅固ではないな。木槌きづち二つで門扉が壊れるようではのう!」

 膝を叩き、さも楽しげに声を上げて笑われたそうです。

 この時義昌殿は、鬼武蔵殿の哄笑こうしょうと、得体の知れぬ「音」が混じった物を聞いたに違いありません。

 庭と知れず、屋内と知れず、不寝番ふしんばんの者共も、眠っていた者共も、恐慌きょうこうを起こして走り回っていました。ありとあらゆる場所で、味方、あるいは「客」と鉢合わせが起きていたのです。叫び声、わめき声、泣き声、物がぶつかる音、壊れる音、壊される音が、城内到る処で立ち、到る処から響いていたはずです。

 あるいはしかし、耳にしても聞こえてこなかったのやもしれません。

 義昌殿とすれば、周到に計画し、万全の容易をして、相手の不意を突くつもりが、逆に先方から奇襲を掛けられた格好なのです。

 大いなる決心の上の策略が瓦解してゆく、その恐ろしさが、義昌殿の脳漿のうしょうの働きを止めてしまったとしても、不思議ではありません。

 義昌殿は、ただ眼を明けて、息をしているだけの人形のようになっておいででした。

 慌てふためいた幾人もの家臣が主君へ事態を報告をし、指示を仰ごうと、その元へ駆け付けました。

 しかし彼の者達の主君は、返答も下知もできぬ有様です。

 そんな主君の様子を見て不審に思った彼等は、主君が何も語らぬ理由を探し、辺りを見回したことでしょう。そしてこの時漸く、主君の眼前に広がる暗がりの中に「」を――完爾かんじとして笑う森長可を見出すこととなるのです。

 ある者は息を呑み込み、あるいは悲鳴を上げ、あるいは怯み、あるいは腰を抜かして尻餅を突きました。

 武士が、です。それも元は勇猛果敢な、向かう所敵無しと称されたが、です。

「なんだ、木曽福島には人が居らぬらしいな。なるほど、人のいない城では、門ももろいが道理というものか」

 森長可殿が呵々大笑かかたいしょうなさいました。

 反論できる者がいないと言うこともまた、嘆かわしいことでした。

 しかし、その場にただ一人、声を上げる者がおりました。

「なんということだ。とあろうものが、なさけないぞ」

 見事な大喝だいかつであったそうです。しかし幼く、舌足らずな声音であったことでしょう。

 腑抜ふぬけ達が振り返ると、そこには童子が立っておりました。

 年の頃は五、六歳ばかりの男の子でありました。

 幼いながらに眉の凛々りりしい、勘の強そうなお顔立ちで、小さな体の上に着崩れた寝間着を羽織り、その帯に立派なこしらえの小太刀を手挟たばさんで立っていたそうです。

 木曾義昌殿の顔が土色に変わりました。

 餌を求める鯉のように口をぱくぱくと動かされたといいます。

 ご本人は恐らく、

岩松丸いわまつまる、来るでない」

 というようなことを叫んだおつもりでしょう。しかし回りの者共には聞こえなかったやも知れません。

 森長可殿が、

「なんだ、この城にも人がいるではないか。なんとまあ天晴あっぱれな武者であろうか! さあ、近う寄られよ!」

 と、仰る大層たいそう大きな声に、かき消されてしまったに違いないからです。

 その小童こわらわは耳に届いた方の声に招かれるまま、すぅっと、長可殿に歩み寄られました。

 童子は長可殿の前に大将のように胡座あぐらを組み、座りました。胸を張って、

「きそいよのかみが、いわまつまるにござる」

 堂々と名乗られました。ご立派な振る舞いにさしもの鬼武蔵も瞠目したと見えます。居住まいを正して、慇懃いんぎんに名乗りを返されたのです。

「承った。それがしは森武蔵守長可にござる」

 その名を聞いて、流石に岩松丸殿も驚いたことでありましょうが、森殿が続けて、

「この騒がしき中、なんと堂々たるお振る舞い。この武蔵、感服仕った。先ほど木曽に人無しなど申したが、なんと我が目の暗いことよ! ここにこうして岩松丸殿が居られるではないか。岩松丸殿こそ木曾家随一の武者であられる。見事なり、あっぱれなり」

 などと持ち上げたものですから、悪い気はしなかったのでありましょう。

「ごこうめいなどのにおほめいただき、いわまつまるはかほうものにございまする」

 などと回らぬ舌で……少々正直すぎるきらいはありましたが……返答なさいました。

 さすれば森殿はますます感心して、

「おお、なんと賢い子であろう」

 楽しげに笑い、肯き、手を打って岩松丸殿を褒めちぎるのです。

 子を褒められて嬉しくない親がおりましょうか。

 義昌殿の青白い頬に赤みが差しました。ただし、ほんの一瞬のことです。

 義昌殿が何か言おうと口を開き掛けたとき、森武蔵殿はすっくと立ち上がり、

「気に入った! 岩松丸殿を我が猶子ゆうしとしよう!」

 言うが早いか、小さな岩松丸殿の体を抱きかかえたのです。

 そして、森長可殿は童子を抱いたまま木曾義昌殿の傍らに進み、その真横にドカリと腰を下ろされました。

 よく、「あっと言う間」などと申しますが、この時の義昌殿には「あ」の声を上げる暇すらありませんでした。

 幼い嫡男が、退治するつもりの「」の膝に抱きかかえられています。「」はニコニコと笑っております。そればかりか、当の岩松丸殿も笑っておったのです。

 森武蔵守長可という御仁は、その外見だけを見ますれば、それこそ十六の面そのものの美しいお顔立ちで、優しげな方であったと、私めも聞き及んでおります。

 それ故、小さな子供には「鬼」には見えなかったのでありましょう。むしろ自分を褒めてくれた、頼もしい大人に思えたのやもも知れません。

 森長可殿が本心岩松丸殿を買っておられたのか、あるいは、童子の器量など最初から眼中になかったのかは、私には計りかねます。されどこの時の森殿は、膝に抱いた岩松丸殿の屈託くったくのない笑顔を見るとさも嬉しげに、

「岩松丸はえらい子だ。我はよい子を得たものである。イヤ目出度めでたい、目出度い。誰ぞ酒を持て! さかなを持て!」

 まるで自分の屋敷に居られるかのような口ぶりで、他人の家人に物を言い付けられたそうです。

 この振る舞いに、流石に木曾義昌殿も腹を立てたものでありましょう。

「武蔵殿っ……」

 何か言いかけたのですが、次の言葉が出せません。

 森長可殿の膝の上で笑う愛児の首もとで何かが……鋭い鉄色のが、灯明の光を弾いたのを見た為でありました。

 義昌殿は眼を森武蔵殿の顔へと移しました。

 鬼は静かに笑っておりました。

「伊予殿は、証人として預けたお身内を武田四郎めにしいられたとお聞きするが……?」 

 この言葉に木曾昌義殿の心胆は凍り付いたことでしょう。

 岩松丸が「証人」にされてしまった。差し出すつもりも、無論差し出したつもりもないのに、すでに「証人」として扱われている。岩松丸の生殺与奪せいさつよだつの権をが握ってしまった――。

 そのことに気が付かぬほど木曾伊予守義昌が……己が一族を守るために妻の実家を「裏切る」ことの出来たほどの男が、鈍物どんぶつであろう筈がありません。

 義昌殿は震えました。薄闇の中だというのに、傍から見た者がはっきりと気付くほどであったそうです。

「母上……於岩おいわ……千太郎せんたろう……ッ!」

 歯の根の合わぬ口から、ようやくその名を絞り出したかと思うと、直後、義昌殿は裏返った声で、叫んだのです。

「岩松丸が目出度い門出だ。酒を持て、肴を持て。さあ、誰ぞ踊れ、謡え!」

 夜を徹しての宴会が開かれました。

 死に物狂いの酒宴です。

 木曾勢にとっては、まさしくうたげという名の戦でありました。それも、勝ちのないことが決まっている戦です。

 兵糧蔵が開けられ、食料と酒とが運び出されると、森殿配下の方々は牛飲馬食ぎゅういんばしょくされました。それこそ城内の蓄えを総て腹の中に流し込み、落とし込む勢いであったそうです。

 それでいて、その方々が心底楽しんでいるようには見えなかった、と云います。

 森長可殿は終始にこやかに笑っておられたのですが、配下の方々、ことに兵卒足軽の者共は、ただ飯を喰い、ただ酒を呑むばかりで、さながら餓鬼がきのようでありました。

 眼前の食物をにらみ付けている者達の前に立ち、木曾殿配下の方々は、震えながら唄い、泣きながら舞いました。

 観ていたのは、森殿と、そのご近習きんじゅうが数名ばかりでした。

 ことに森武蔵殿は大層楽しんで居られるように見受けられました。手を打って、

「流石に旭将軍あさひしょうぐん義仲よしなか公がのお家柄だけのことぞある。ご家中皆々芸達者であられることよ」

 褒められれば、返礼しないわけには参りません。義昌殿が奥歯を噛みつつ、

「お褒めに与り……」

 漸く形ばかりの返礼をしました。しかしその言葉尻も消えぬ間に、森武蔵殿は、

「しかし折角の舞い踊りも、こう暗くてはよう見えぬな」

 何が「暗い」だ。今は真夜中だ。明るいはずが無いではないか。

 義昌殿は胸の奥底ではそのように思われたことでしょう。あるいはそれを思うほどの余裕は無かったかも知れませんが、あったとしても、それを口にするわけにはゆきません。

「……では明かりを増やしましょう」

 暗いのならば、灯明、燭台しょくだいの類の数を増せば良い、というのが常人の考えです。義昌殿は家人けにんを呼び、城内の別の部屋にある灯明をこの場に集めさせようと考えられました。

 ところが、森長可というじんはさすがに「鬼武蔵」であります。そのお考えはでありました。

「床にを開けて焚火たきびをしましょう。さすれば部屋は明るくなり、また酒を温め、米を炊き、魚も肉も焼くことが出来る」

 木曾のご家中の方が呼ばれるよりも早く、森の近従の方々が立ち上がりました。木曾方が何かを言うよりも早く、森方は動きました。

 床板を割り、ぎ取り――無論、床に張られた木材が、簡単に割れるものであったり、剥がれるものであったりするはずが有り得ませんから、造作ぞうさもなくそれを行ったと云うことが、如何に「恐ろしい」ことであるのか知れるでしょう――見る間に囲炉裏いろりのような大穴が開いたかと思えば、剥ぎ取られ割られた床板が炉に放り込まれ、その殆ど直後には炎は天井近くにまで立ち上っておりました。

 この期に及びますれば、木曾義昌殿には悲鳴を上げる力も残っておられなかったようです。

 森家のご家中の方々が件の囲炉裏の回りに集まって、酒を温め肴をあぶって、酔いしれ腹を満たし、この宴会を「楽しんでいる」その様を、うつろな眼で眺めるばかりであったそうです。

 夜は更け、やがて明けました。

 木曽福島が焼け落ちなかったのが不思議ではありますが、城内はまさに杯盤狼藉はいばんろうぜきの有様です。

 木曾勢の方々は衣服も髪も乱れ、眼は濁り、顔色はくすみ、力なく立ちつくしています。

 ことに、木曾義昌殿と申しませば、小姓こしょうに両脇を支えられてもなお、ぐらぐらと身の置き所が定まらぬようにして、漸く立っておられるといった具合です。

 森勢の方々は、甲冑かっちゅう軍装ぐんそうに身を包み、髪は櫛目くしめ鮮やかに整えられ、眼は燦々さんさんと輝き、血気溢れ出る顔色をして、威風堂々いふうどうどうと隊列を組んでおります。

 先頭には、名を百段ひゃくだんという駿馬にうち跨った森武蔵守長可殿が、その腕の中にはぐっすりと眠る岩松丸殿がおられました。

「いや伊予殿、馳走ちそうになり申した。御蔭で我が勢は本領まで駆け戻る力を取り戻せた。礼を申す。では!」

 森武蔵殿が号令すると、軍勢は整った隊列のまま、打ち壊された門を潜り、堂々と木曽福島城を出立しました。

 城内の方々も、また城外の方々も、誰一人その行軍を止めることが出来ません。

 隊列の先頭に……鬼武蔵の前鞍まえぐらに岩松丸殿が居られるのです。

 岩松丸殿の体には太い紐が打ち巻かれ、その先は、森武蔵殿の胴の背の合当理がったりに結びつけられていました。

 森武蔵守殿が川中島から「脱出」する道すがらの「出来事」を、多少なりとも小耳に挟んだ者であるなら、手出し口出しすればこの小さく新しい証人がどのような目に遭うか、すぐに察しが付くことでしょう。

 かくて鬼の隊列は悠然と木曽路を進み、国境を越え美濃に入り、何事もなかったかのように金山のご城内へと消えていったのです。


 、と、お笑いになりますか? 

 ご不審はごもっともです。私自身がこの出来事を見たわけではありません。

 伝聞です。見てきた者達から聞いた話です。

 すなわち、我が弟・源二郎と従兄弟伯父・三十郎頼康、そして、

出浦いでうら対馬守つしまのかみ盛清もりきよにござる」

 盛清は埴科はにしな坂城さかきは出浦の庄の出で、武田家が北信濃まで勢力を伸ばしていた頃は、その家臣でありました。

 その武田が滅び、織田様が北信濃を押さえて後は、森長可が旗下きかに組み込まれたのです。

 盛清は大層小柄で、その上童顔でした。

 丸顔の中にある目は垂れて、鼻は団子のようであり、その上、唇の端が上がってい、なんとも柔和そうに見えます。

 少なくとも、鬼武蔵が証人達を戻す前に首と胴とに切り分たその様を、眉一つ動かさずに見ておられるような、非情で剛胆ごうたんな男には見えません。

「あそこで殿に逆らったなら、それがしの一族が同じ目に遭ったでしょうから」

 垂れ目を細めつつ、額の当たりを撫でました。

 元々笑っているような顔立ちの男です。笑っているようだからといって、本心笑っているとは限りません。

「ご苦労でありました」

 そう言う他に、掛ける言葉が思い付きませんでした。

「まあ、あの大騒ぎに乗じて、源二郎様を木曽福島から易々と落とすことができたわけでありますれば……。案外、伊予守殿は未だに真田の証人がいなくなっていることに気付いておられないかも知れませんな」

「まさか、木曾殿はそこまで魯鈍ろどんな方ではありますまい」

「どうでございましょうかなぁ。あの乱痴気らんちき騒ぎの後にございますれば、暫くは消えた証人や逐電ちくでんした家臣の行方を追うどころではありますまいて。ま、そろそろ岩松丸殿が無事に戻られるにござれば、正気に戻られたやもしれませんが」

 盛清はしれっと重要なことを申しました。岩松丸殿……後に元服なさって、仙三郎せんざぶろう義利よしとしと名乗られるようになったのですが……その安否のことです。

「出浦殿が手を打たれましたか?」

 一応いてみました。

「それがし自身が、とお訊ねならば、とお答えするより他ございませぬな。殿とは木曾に辿り着くよりずっと以前、猿ヶ馬場さるがばば峠でお別れ申しました故。殿が信濃衆の証人が非道ひどいことになった後、でございますが。ともかく、それがしが何かしらしたことがあるとするならば……お別れの直前、殿に一言申し上げた、ぐらいでございますよ。

証人ひとじちの使い方には二種類ございます。相手の力を奪いたいなら、命を取っておしまいなさいませ。相手に手出しをさせたくないのであれば、生かしておくのがよろしいかと存知まする』

……とまあ、その程度のことでございますが。御蔭で大層褒められまして。形見にと脇差わきざしを頂戴いたしました」

 と、と笑った盛清は、その笑顔のまま、

「しかしまあ、あの殿も、京の方の何とかいうお寺の『火事』で、ご舎弟しゃてい三人を失ったばかりなワケでございますれば、幾分かは身内を失った者の痛みのようなものは知っておられるのではないかと存じますれば」

 などと付け加えたものです。

 何分顔つきが顔つきだけに、腹の底がはかりかねました。ある意味で、至極しごく恐ろしい男といえるやも知れません。

 第一、奇妙ではありませんか。

信府まつもとに入る前に別れたわりには、顛末てんまつにお詳しい」

 私は思うたことを思うたままに言ってみました。

 さすれば盛清めは、やはりしれっと申したのです。

「それがし、にございますれば」


 さても、当家にはおかしな……いや人並み外れて不思議な者達が集まってくるものです。我ながら感心します。

 判っております。お手前は、己自身がおかしな者である故だ、と仰りたいのでありましょう? 

 論駁ろんばく出来ぬのが、何とも口惜しいことです。

 しかしながら、人並み外れた所がどこかになければ、当世生きてゆくことは難しい……そうは思われませぬか?

 森武蔵守殿にしてもそうです。人並み外れた非道の力があったからこそ、あの方はあの時生き残ることができたのです。

 それが先の長湫ながくての戦でお命を落とされたというのは、あの方を上回る人並み外れた者に真正面からぶつかったがためです。

 上回る「人並み外れた事柄」は何も武力とは限りません。

 知恵、胆力、忍耐、あるいは時節、機運。

 人知を越えたところにあるからこそ、「人並み外れた」力、なのではありますまいか。


 さておき。

 あの時私は、出浦盛清から木曽の方で起きた大変な騒ぎ――というか森武蔵という奇禍きか――の話を聞きつつ、別の人並み外れて不思議な御仁を思い起こしておりました。

 前田慶次郎利卓という仁です。

 件の厩の宴から日を数えますと半月ばかりの時が流れておりました。

 です。その半月の間に色々なことが起き過ぎました。

「慶次郎殿に詫び状の一つも書いておらなんだ」

 何の接ぎ穂もなく突然に零しましたが、盛清は平然として答えました。

「慶次郎様と申されるは、滝川様ご家中の前田宗兵衛様のことでありますな」

「ご存知置きか?」

「お噂はかねがね。武勇の点では、件の殿に引けを取らないと」

「雷名轟く、か。さて今頃どうして居られるものか?」

 私はあくまでも何気なく呟いたつもりでした。すると盛清はにこやかに見える顔で、恐ろしげなことを申したのです。

「さて、早ければもう北條勢と対峙たいじしておられる頃合いやもしれませぬな。何分あちら様も、を小耳に挟んで以来、五、六万ばかりのお供を引き連れて、上野国へに行くご予定を立てておいでだということですから」

「五、六万か」

 圧倒的絶望的な兵数でありました。しかしそれを聞いた私の口からは、

「北条殿は大した地力のあることですなぁ」

 などという、どこか他人事であるかのような言葉が漏れたものでした。

 他人事であったのは、間近に迫っているであろうその戦に、、という命令が下っていないためでありました。

 この時なお、我ら信濃衆にはあくまでも「織田上総介様御生害」を秘匿なさっている滝川様でなのです。味方である筈の北條方が攻め入ってくる理由を明かさないのであれば、我らの兵力を動員するのも憚れる、ということだったのでしょうか。

 理由はどうであれ、信濃衆は動きません。信濃領内に居られる滝川勢も動けません。例えば、小諸に居られる道家どうけ彦八郎ひこはちろう正栄まさひで様、この方は滝川一益様が甥御様であられますが、この方に何かしら動きがあったという報告が、やノノウから上がってくることはありませんでした。

 沼田にいる矢沢の大叔父からも正規非正規問わず繋ぎがないところをからすると、信濃に近い場所にいる滝川勢も動かない様子です。

 いえ、むしろ、動くに動けないとというのが正しいところやも知れません。

 と、申しますのも、実のところ信濃側にはまだまだ織田勢に反発する者が、僅かながらではありますが、いないでもなかったのです。動き出しそうな者達を睨み付けておく必要がありました。

 あるいは動き出したところを背後を突かれるようなことがあるやもしれません。

 沼田の滝川儀太夫殿は軽々に動くことが出来ないのです。

 ともかく、我らが出ぬのであれば、すぐに動かせるのは近場においでのお手勢と、実際に北條に攻め込まれた上野にいる者、即ち、有無もなく直ぐさま戦わざるを得ない者達のみとなります。

 その兵数は、

「多く見積もって、上州武州勢が間違いなく従って二万弱。少なければ、お手勢だけの五千余、といったところでしょうか」

 私は息を吐きました。やはり他人事のような口ぶりになっておりました。それに答える盛清の口ぶりもまた、他人事のようでありました。

「分が悪うございますな。数も数ですが、それよりも、勢いのこともありますから」

 絶対的な君主が逆賊にしいられたなどという大変事が起きたのです。忠臣達の動揺はいかほどでありましょう。そして敵対する者共はどれだけ士気を高めている事でしょう。

「お手勢の殆どを動かしておられるならば、今頃ご支配下の城々、ことさら上州の城々などはさぞ手薄になっておりましょう」

 先の二つは無意識に他人事のように申したのですが、この度の言葉は意識して他人事のように言いました。

「厩橋には確か左近将監様がご猶子の彦次郎忠征ただゆき様とやらがおいでるはずですが、証人を逃がさぬようにするのが手一杯といった所ではありますまいか。万一夜陰やいんに乗じて討ち掛けられたならば、あるいは相手が無勢であっても一溜まりもなく……などということもないとはいえぬかと存じますよ。やれ、くわばらくわばら」

 盛清も相変わらず他人事のように重要な機密に当たるであろう事を答えてみせました。

 いや、他人事どころか、まるで人をけしかけるかのような口ぶりであるようにさえ聞こえたものです。

「厩橋、ですか……」

「はい、厩橋にございます」

 出浦盛清との話しは、そこで終いになりました。

 私がその場から……つまり、岩櫃城から離れなければならなかった為です。

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