第4話 火急

 沼田の矢沢頼綱よりつな大叔父が岩櫃いわびつに来たのは、皐月さつきも末のことだったと記憶しています。

 その日私は、運良く……いやむしろといった方が良いよう気もするのですが……出城の天狗丸てんぐまるにおりました。天狗丸は岩櫃の本丸の北東にあり、普段は兵や「」達が詰めている場所です。出城の南側の山下には街道が通っております。

 その道を、三騎の騎馬が疾駆してこちらへ向かって来るのが見えました。

 見事な騎乗でありましたから、遠目にも、さぞ名のある者達であろうとは思われましたが、流石さすがに山の上からでは、旗指物はたさしものも無しに疾駆する者達の顔かたちまでは判別できません。

 すると、街道の見張番をしていたが、少々困ったような顔をして申すことには、

「沼田の矢沢様です」

 並の「急使」であれば、使い番に文を持たせればよいだけのことです。事が重要であったとしても、もっと身軽な、年若くて目端めはしの利く者を選んで使者に立てればよいでしょう。

 大叔父の下には私の乳兄弟めのとご禰津ねづ幸直ゆきなおがおりましたから、その辺りを走らせれば十分だったはずです。

 それにもかかわらず、大叔父本人がわざわざ出向いてくるとは、余程のことに違いありません。

 一番に天狗丸にたどり着いた先頭の馬には、大層不機嫌な顔をした矢沢頼綱がおりました。残りの二騎は、どうやら山中で引き離されてしまった様子です。

 大叔父は私の姿を見付けると、飛び降りるように下馬しながら、

「丁度良い。砥石といしだ。急ぐ。換え馬」

 必要最低限の言葉だけを発しました。

 沼田から駆けに駆けて来たと見えて、さしもの大叔父も肩を大きく揺すって荒い息を吐いておりました。差し出された水をと飲み干すと、大叔父は私の首根を掴んで、

「大事だ」

 引かれてきた馬の一頭に、私をほとんど無理矢理に、さながら荷物を載せるように、乗せました。

 私は大いに慌てました。大叔父が、私がまだ鞍に尻を乗せきらぬうちに、私の乗った馬の尻に向けて鞭を振り上げたのが見えたのです。

 危ういところで私の馬が切り立った山道で奔走ほんそうせずに済んだのは、大叔父の前に馬が引かれてきたためでした。大叔父が私を蹴り出すよりもご自分が馬に乗ることを優先した御蔭で、私は危うく寿命が縮むような想いをせずに済んだのです。

 無言で馬に跨る大叔父に、

「いったい何のご用件ですか?」

 と問うてみました。

 返事は簡潔なものでした。

「火急だ」

 それだけ言うと、馬は猛烈な勢いで駆け出ました。そのまま、後ろを振り返ることもなく、砥石目指して真っ直ぐに駆けていったのです。

 大叔父の姿が見えなくなってしまった頃、沼田から引き連れられてきた家臣達がようやく天狗丸へたどり着き、滑り落ちるように下馬しました。余程に苛烈かれつな強行軍であったのでしょう。この者達は地面にへたり込んでしまい、換え馬が用意されても乗り換えることが困難でした。

「二人ほど参れ。馬の巧い者なら誰でも良い」

 私は怒鳴るように命じて、馬を走らせようとしました。老将・矢沢頼綱に後れを取ってはなりますまい。

 そこへ垂氷つららが飛び出してきました。結び文を頭上に掲げております。

「若様、砥石のお殿様より文が……」

 私は文を受け取るのがもどかしく思えました。大叔父が遙か先を駆けています。

「読め」

 私の口調は強いものでした。垂氷は一瞬、身を堅くしましたが、直ぐに薄紙を広げ、そこにある文字を読み上げました。

「全く、我が一族は性急せっかちな者ばかりだ」

 しかし、私もその一族の端くれです。垂氷が何か言おうとしているのに構わずに、馬腹を蹴りました。


 砥石に着くと、父はいつもの渋皮顔で我らを迎えました。ただ、私と大叔父一緒に来たことには多少驚いたようです。

「叔父御は……儂が呼んだから来た、と言うのではなさそうだな」

「お主の出した使者なら、岩櫃ですれ違うたわい」

 矢沢の大叔父はドカリと座ると、長大息して、

から厄介ごとを頼まれてな」

 父がきな臭気な顔をしました。

 滝川彦右衛門、即ち滝川一益様は、我らから見れば上官です。必要であれば命令を下す筈です。ところが

「滝川殿が、、とな?」

 父も私も不可解に感じ、二人して大叔父の顔を見つめたのです。

「それがあの男の面白いところぞ。それに相当に面倒なところでもある。こういったことは、むしろ命令であった方が、ずっと気が楽なのだがな」

 大叔父は何やら歯切れ悪く言いました。しかも、歯切れの悪い上に肝心なことは一言も言いません。

 父は珍しくいらついた様子で、眉根を寄せて、

「で?」

 と催促をました。

 大叔父はもう一度息を吐いてから、

「菊を、嫁に、欲しい、と」

「何と?!」

 父と私は、異口同音に声を上げました。

「誰を誰の嫁に、だと?」

 父は脇息きょうそくを跳ね飛ばし、身を乗り出しました。大叔父はきわめて冷静な口ぶりで、

「お主の娘のを、滝川殿のご嫡男一時かずとき殿の長子の三九郎さんくろう一積かずあつ殿の嫁にしたい、と」

 私はこの時、生まれて初めて、そしてこの後の生涯に二度と見ないものを見たのです。

 目を見開いて、口をぽかりと開けたまま、しかし声も出せずに、へたり込むように座って、ただ肩を振るわせるばかりの、真田昌幸です。

 しかし、その阿呆面を我々にさらしていたのは、どれ程の間もありませんでした。

にも驚くことがあると見ゆるわ」

 大叔父に幼名で呼ばれた上、部屋どころか城中が揺れるのではないかと思えるほどの勢いで破笑はしょうされると、父は途端に、だらしなく落ちた下顎したあご上顎うわあごにぴたりとめ込みました。目は針のように細くなり、いつも通りの渋皮面に戻っております。

 そして、私ならきっとするであろう、己の瞬時の痴態ちたいを取り繕ったりするようなこともせず、

「さて、考え物よな」

 何事も起きなかったかのように、腕を拱いて我らの顔を見回しました。

 大叔父はいぶかしげに父をにらみ返して、一言、

「考えるまでもない」

 その後に何の言葉も継ぎませんでしたが、父にも私にも『喜んで承れ』の意であることが判りました。

 この頃の矢沢頼綱はすっかりと滝川様贔屓ひいきでした。

 大叔父殿自身が武勇に優れた方であったというのが、一番の理由です。「先陣も殿軍しんがりも滝川」と称される戦上手の滝川一益様に、ある種の親近感を覚え、大層好ましく思ったのでありましょう。

 於菊おきくが三九郎殿と妻夫めおととなったなら、当家は滝川様の御嫡男筋と血縁を結ぶことになります。織田の大殿様の覚えも目出度い、仮にも関東管領かんとうかんりょうの、滝川家と、です。

 私も大叔父同様に滝川様を好ましく思っておりました。滝川の一族の皆様は、どうにも不思議に人好きのする方々です。確証は持てませんが、恐らく父も同様でしょう。

 ですが父は見るからにこの縁談に前向きではありません。

 それは、男親としての歪んだ情のために、可愛い於菊を嫁がせたくないだけ、が理由ではないようでした。

「石田方に断りを入れおらぬ」

 確かに、武田滅亡からこちら、直接石田様並びに義弟の宇多頼次様とは連絡を取っておりません。いえ、取れていない、と言い表した方がよいでしょう。

 そのころ、石田様御一党は主である羽柴はしば筑前ちくぜん様と共に、遠く備中国びっちゅうのくににおられました。

 滝川左近将監一益様に「武田征伐」を命じた織田の大殿様は、殆ど同時期に、羽柴筑前守秀吉ひでよし様に「毛利討伐」をお命じになっていました。石田様宇多様はこの遠征に付き従って行かれたのです。

「主は滝川殿との尻の下の小童こわっぱとを天秤にかけて、釣り合うと思うておるのかや?」

 大叔父の言葉には憤りと疑念が多分に含まれております。

 滝川様は織田家の直臣じきしん。羽柴様御配下である宇多様は陪臣ばいしんというお立場になります。当たり前に考えれば、天秤棒は滝川様の方に傾くこととなりましょう。

「まあ、釣り合うまいな」

「ならば答えは一つであろう」

 大叔父が膝を進めると、父は腕組みのまま、右の一の腕だけを持ち上げで、顎の辺りをぞろりと撫でました。

「さて、釣り合いはせぬのは確かだが……」

 父が薄く笑いました。

 大叔父は……そして私も……怪訝けげん顔で真田昌幸を見ました。次の言葉を待つその僅かな時が、随分と長く思えたものです。

 やがて大叔父殿が焦れて、

「主は何を考えておる?」

 少々強めに問いました。途端、父の面から薄笑いが消えました。

「傾く側が決まり切っているとは、限らない様子でな」

「何のことだ?」

惟任これとう日向守ひゅうがのかみのことよ」

「惟任?」

 眉間の皺を深くしした大叔父は、疑問の色濃い視線を、私の側へ向けました。父に尋ねたところで、答えないであろうと踏んだのでしょう。

 私は記憶の糸をどうにかたぐり寄せて、

「織田様ご家中の明智あけち十兵衛じゅうべえ光秀みつひで様ことです。随分以前に惟任の姓と日向守の御官職と御官位を……たしか従五位の下だったかを、賜られたとか」

「そんな奴は知らん」

 大叔父は不機嫌そうに言い捨て、直ぐに視線を父に戻しました。

「それで、そのがどうしたと?」

 私は「惟任様の仇名まで知っているではないか」と言いたいのをどうにか堪えて、大叔父殿同様に父の顔を見つめました。

「中国討伐の後詰ごづめを口実に、兵を集めている」

「口実? 中国討伐は大殿のご命令であろうに」

殿が三万の兵を率いて行ったそうだが、苦戦しているという話は聞こえてこぬ。幾ら相手が戦上手の毛利とは言え、殿が援軍を本心欲しがっているとは思えぬな。まあ、今からでも叔父御が槍をひっさげて毛利に荷担なさると言うならば、倍の援軍を貰っても足らぬだろうが」

「面白くもない冗談だ」

 そう言いながらも、大叔父殿はニンマリと笑っておいででした。

 私は笑う気にはなりませんでした。何やらどす黒いおりのような物が、腹の奥に淀み溜まっている、そんな心持ちになってきたからです。

「父上、つまりはどういうことでありましょうか?」

 何も判らぬような口ぶりで、尋ねてみました。

 父は答えてくれませんでした。それが答えでした。

 父が無言でいるということは、私が「惟任日向様と羽柴筑前様が、何か『』を起こそうとしている」と考えたそのことと同じ、あるいはそれ以上に大きな何かがおきるだろうと、父も考えているに違いありません。

 しばしの沈黙の後、父は天井を見上げて、

「出来るだけ幸せになれる方に嫁がせたいからな」

 ぼそりと言ったものでした。

 私も大叔父も、暫くは口が利けませんでした。

 織田様ご家中で実力者である惟任様と羽柴様が何か事を起こせば、例えその事自体は小さいものであったとしても、ご家中に大波として波及するに違いありません。

 あるいはその事が大事であったなら、波の大きさがどれ程になるのか。

 我らはその波を如何に堪え、如何に乗り越えるべきか。

 考えるだけで恐ろしくなります。

 ええ、そうです。その時の我ら三名にとって、その波に押し流され、家名が潰えてしまう可能性などは慮外りょがいでした。

 この中の誰か、あるいは、この場にいない一族の誰かが死ぬことは有り得ても、真田の家が消えて無くなるとは考えなかったものです。

 もっとも、私は死ぬのが怖くてならない臆病者です。脳漿のうしょうの奥の奥では、自分はどうやって生き延びてくれようかと、少しばかりは考えておりました。

 ともかくも、男三人、しばし膝突き付けあって黙り込んおりました。ですがそれほど長い時間ではありません。

 何分にも、我が一族は性急な者ばかりです。

 暫くすると、三名の中で特に一番のが、とうとう堪えきれなくなって、

「それで、主は何故我らを呼びつけた?」

 と唸るように言いました。

 父が僅かに――父のことを良く知らぬ者ならそうと気付かぬほどの小さな――苦笑を口端に浮かべて、発言の主、すなわち矢沢頼綱を見やって、

「滝川方の様子を良く見聞していただきたい。どうやら叔父御も源三げんざも、滝川様御一族、殊更ことさら、義太夫殿親子に気に入られているようであるから」

 大叔父が砥石まで出向くことを、沼田城代の滝川義太夫益氏ますうじ様がお許しになったということは、益氏様が大叔父を信頼していると言うことの証でありましょう。

 そして、私のことを「友」と呼んでくださった前田慶次郎殿の実の父親は、益氏殿でした。

 ――益氏殿のお歳を考えますと、慶次郎殿は益氏殿が随分とお若い時分に生まれたお子と見えます。

「気に入られている点では、主が一番であろうがな」

 大叔父殿はそう言って笑いました。

 滝川一益様に気に入られ信頼されているからこそ、父は本領安堵された上に砥石に住むことが許されているのです。

「あの仁は、実に面白い。実に珍しい生き物だ」

 父も笑っていました。

 これを聞いた大叔父は、

「向こうもお主をそう思うておろうよ」

 大笑しました。

 一頻りお笑いになると、大叔父はは急にお顔の色を険しくなさいました。

「儂は人の胸の内を探ったり内密に調べたりなどというのは苦手だ。故に、義太夫殿と当たり前に付き合うことにする。当たり前に付き合うて、当たり前に知れることを知る。面白きことがあれば、主に知らせる。それで良いな?」

「構いませぬ」

 父はにこやかに答えました。

 これを聞いて大叔父は肯き、立ち上がり、そのまま出て行こうとなさりました。……が、二・三歩歩んだところでふと立ち止まり、父に背を向けたまま問いました。

は、如何にする?」

 父の笑顔は途端に消えました。

「厄介ごとを思い出させてくれますな」

「忘れたで済む事でははない。主は正式な返答を後日送れば良かろうが、儂は帰れば直ぐに義太夫殿に復命せねばならぬ」

 振り返りもしない大叔父の背を睨み、父は口をとがらせて言いました。

「今、於菊が三九郎殿に嫁せば、降将が命惜しさのために娘をにえにしたように見る者もおるだろうから、今暫くはお待ちいただきたい、と」

「ふん。で、石田の方へは?」

「この度の事により未だ家中が落ち着かぬ故、輿入こしいれの義はお待ちいただきたい、とでも文を出す」

「して天秤の傾きを見極める、か。比興ひきょうなり、比興なり」

 大叔父はカラカラと笑い、歩幅大きく出て行かれました。

 その時私には、苦笑いして大叔父を送り出す父の目が、少しばかり曇っているように見えました。

 不安であるとか、心配であるとか、そう言った心持ちのために生じた曇りではない。何かを隠しておいでるのではないか。何か重要な事柄を、大叔父にも私にも言わずにおられるのではないか――私はそう思うて父の顔を見ておりました。

 父の目を見ることで、何かを読み取れるかも知れない、と思ってのことです。

 私の浅はかな考えなど、直ぐに父に知られてしまいました。

 父は瞼を閉じてしまったのです。

「源三」

 地を這うような低い声音が私を呼びました。身が縮む思いがしましたが、しかしどうやら平静を保ち、

「はい」

 返答いたしますと、父は小さな声で言いました。

「織田様の使い……いや、織田様の身辺からの正規の使いが重要な知らせを持って滝川様の元へ走り込むのと、ノノウや『がそれを持ってここへ走り込んでくるのと……お主、どちらが速いと思う?」

 私は暫し考えました。

 父のことですから、本当にどちらが速いかを尋ねているのでは無いでしょう。そのようなことなど、私に聞くまでもなく、父の方が良く知っているはずです。

 ではなぜそのようなことを聞くのか。

 父の意向が図りかねました。

 となれば、正直に答えるより他に術がありましょうか。

「どちらとも申し上げかねます」

小狡こずるい答えだな」

「そう仰せになられましても、私には『場合によると』しか返答できませぬ」

「場合、とは?」

「まずは、使です」

「ほう?」

「岩櫃におります垂氷つららと申しますノノウの足の速さには大変驚かされました。ノノウ達がみなあれほどに足早で、しかもその網が強く強固であるのなら……当たり前の連絡であれば、ノノウ達の方が恐らく速いかと。されど……」

「されど?」

が、思いもしない程に大きければ、正規の御使者が死に物狂いで馬を走らせることでしょう。ですから、場合による、と」

「事の、大きさ、か」

 父は言葉の一つ一つを、それぞれ絞り出すようにして言い、瞑目めいもくしたまま天を仰ぎました。

 このような勿体もったい振った有様を見せつけられますれば、幾ら鈍い私でも、父の所に来た連絡の内容が、実は相当な大事であったのだろうと察することが出来ます。

 己が頼みとする叔父に総てを開かすことができず、不肖ふしょうせがれにもそのまま告げることが出来ないような一大事です。

「速く届いた知らせが、必ずしも正しい知らせとは限らないのではありますまいか?」

 そのようなことなど父は重々承知でしょう。それでも私は言わずにおれませんでした。

「正しくなければよいが、な」

 父は大きく息を吐き、眼を見開いて、天井を睨みました。

 私は不安に駆られました。そして何故か、このまま父を沈黙させてはならない、そんな気がしたのです。

「正しいとご判断なさるに足る知らせで御座いますか?」

「むしろ、有り得ぬ知らせだな」

「ならばそれほど御懸念ごけねんなさらずとも宜しいのでは?」

「ここが、な……」

 つい先ほど、顎の辺りを撫でた右手の、骨太な親指が、胸板の真ん中当たりを突き刺すようにして指し示しました。

 父の唇の端がくっと持ち上がりました。笑っています。

 しかし、目は、眼は、暗い色をしておりました。

 いいえ、決して落ち沈んでいたのではありません。

 遠い暗雲の中の雷光のような、暗い、恐ろしい光を放っていたのです。

 心の大半では、大事が起きるのを楽しみに待っている。そして残った僅かなところで、平穏無事を願っている。

 人の心という物は、なんとも複雑な代物です。

 私は父の前に膝行しっこうし、その暗く光る眼を見つめ、思い切って尋ねました。

「どのような知らせで?」

「儂がこの『』を、人に開かすと思うか?」

 父は弾けるように笑いました。

になさりまするか?」

 私が拗ねた声で尋ねますと、父は笑声をぴたりと止め、

「菊の嫁ぎ先を決めたなら、真っ先にお前に教える」

 渋皮を貼ったような顔で言ったものです。


 私が岩櫃に戻りますと、垂氷が出迎えてくれました。

 その時の私といえば、情けなくも、できれば直ぐにでも寝てしまいたいと弱気になるほどに疲れ切っておりました。ところが、垂氷は私の都合など知らぬ顔で、

は、血の氷った鬼のような方ですね」

 口を尖らせました。

「大叔父殿が、なにかなされたか?」

 垂氷の顔には、そう尋ねろ、と、書かれておりました。

「戻ってお見えになるなり、『沼田だ。急ぐ。換え馬』 で御座いますよ。それで、沼田からお連れになって、ここで御休息なされていたご家来衆の襟首を掴んで、まるで荷物のように無理矢理馬に乗せて……」

「先刻私にそうされたように、か?」

「はい、先刻若様にそうなされたように、です」

 私の疲れ切った脳漿でも、大叔父のなさりようが、ありありと想像できました。

「それは……可哀相に」

 呟いたその直ぐ後を追って、大きな欠伸が腹の底から湧き出て参りました。

「本当にお可哀相でしたよ。丁度お茶を点じて差し上げた所でしたのに。まだ口も付けない内に、首根を掴まれて引きずって行かれて。本当に酷いお年寄りです」

 垂氷のむくれた声が、なにやら遠くにから聞こえるような気がしました。

 私は首を横にして、

「違う、あの者達ではなく、大叔父殿だ。父上から厄介ごとを頼まれて、その頼まれごとに急かされている大叔父殿が可哀相だと言ったのだ……」

 と言いました。

 いえ、正しくは「言ったつもり」でありました。

 情けないことに、首を横に振ったその途端に、耐え難い眠気に襲われて、途端、バタリとうつ伏し、そのまま夜が明けるまで、前後不覚に眠ってしまったのです。

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