第3話 歩き巫女

 私共一族郎党は卯月の半ばに厩橋うまやばしを出ました。

 父があらかじめ滝川一益様に申し出て……というか、むしろ「手を回して」とでも言い表した方が良い気がするのですが……皆で一旦は砥石といしまで戻り、その後各々が行くべき場所へ向かう許しを得ておりましたので、我々は列をなして砥石へ向かいました。


 山の麓では暑いほどの陽気でしたが、高い尾根にはまだ雪が残っております。山肌をひんやりとした風が吹き下ろしてくれば、寒ささえ感じました。

 上州街道を鳥居とりい峠を越えて進み、真田郷を経てたどり着いた砥石の城は、小さな、しかし堅牢けんろうな山城でした。

 東太郎山ひがしたろうやまの尾根先のみねの伝いに四つの曲輪くるわがあり、これら全てを合わせて砥石城と呼び習わしています。

 細かく言えば、尾根の一段低い所を開いた場所が本城、そこから北側の出曲輪でぐるわ枡形城ますがたじょう、南西の山端には米山城こめやまじょう、そして、南の一番高い場所にあるのが砥石城となります。


「相変わらず退屈な城よな」

 矢沢頼綱大叔父が六十の老顔をほころばせて言いました。

 天文十九年と言いますから、武田滅亡の天正十年からさかのぼること三十と二年程昔、頼綱大叔父は信濃衆の一人としてこの城においででした。……村上むらかみ義清よしきよ殿の旗下として、武田と対峙たいじしていたのです。

 この頃、武田は、信府まつもと小笠原おがさわら氏を攻め落とし、南信濃から中信濃を手中に収め、その勢いのまま北信濃まで手に入れようという勢いでありました。

 これに立ちはだかったのが、村上義清殿です。

 実を申しますと、その前年に義清殿は上田原うえだはらという地で信玄公を打ち破っています。

 この戦について語り出すと大変長くなりますので、ここでは詳しい話は出来ません。ただ「武田は散々に負けた」とだけ申しておきます。


 ですから砥石城攻めは、信玄公にとって意趣返しのためにも勝たねばならない戦でありました。

 私の曾祖父・真田幸隆は、この頃にはすでに信玄公の旗下きかに有りましたが、一族の内にはまだ武田に帰順していない者も多くいました。

 その筆頭というのが、実は矢沢の大叔父殿でした。

 大叔父は祖父の直ぐ下の弟でしたが、あるに甲冑も着ずに飛びだして行き、敵方を殲滅せんめつさせたといった……あまりにも無茶な……武勇を、上田の矢沢郷にあった矢沢城主で諏訪神氏の流れを汲む矢沢頼昌殿が気に入り、養嗣子ようししにと望まれたため、真田の本家と別れて信濃に残ったのだそうです。


 砥石での戦でも大叔父はを上げられ、そのかいもあって、武田は千余の人死にを出すほどの壊滅的な被害を被りました。武田信玄は同じ相手に二度負けて、這々ほうほうていで逃げ出す結果となったのです。

「砥石の『と』は、刃を研ぐ砥石の『砥』とも、戸板の『戸』とも書くが、どちらにしても切り立ったこの岩場を良くも言い表しておる」

 頼綱大叔父は崖から身を乗り出して山裾を覗き込み、

「この山の所為せいであの時の戦は退屈きわまりなかった。武田の兵がこの山肌に貼り付いた所へ、岩の一つ二つ蹴り落としてやれば事が済んだ。何ともつまらぬ戦であった。城が守るに良すぎて、我が武勇が発揮できなんだ。さても残念なことだ」

 大叔父殿はカラカラと笑いました。一歩下がった場所に立っていた我が父は、苦笑いして、

「挙げ句に叔父御が存分に勇躍しておったなら、今の我らは此度こたびとは違う算段を立てねばならなんだろうな」

 ここで『今の我は無い』と言わないのが父らしいところです。父としてみれば、例えどんな状況に陥ったとしても、真田の家は残っているのが当たり前のことなのでしょう。


 さても、武田相手に二度も大勝した村上義清殿ですが、その一年後にはこの城を負われました。

 真田幸隆の調によって、です。

 祖父は砥石城の中に在った一族縁者に内応させて城を乗っ取りました。

 どのような調略が有ったのか、私は知りません。父によれば、祖父はその話を三男であった父には直接口伝することがなかったというのです。それ故父は、何も教えてやることができぬ、と言います。

 あるいは話を伝え聞いていたやもしれぬ父の兄たち、すなわち信綱のぶつな伯父、昌輝まさてる伯父も、私が十になる前に長篠の戦で討ち死にしています。

 調略された側でもある頼綱大叔父に聞けば委細が判りそうなものですが、

「なに、ちぃと兄者にそそのかされての。ま、幾らか味方に付く者を集め、あとは少し戦らしいことをしたまでのことだわい」

 程度にしか話してくれぬのです。

 大叔父が「戦らしいこと」などと言っても、それを小規模な戦闘だとは思えないのが不可思議ではあります。


 経緯はともあれ、祖父は砥石城を奪い取りました。そしてその褒美として信玄公は、砥石城をそのまま祖父に与えてくださいました。

 以降祖父はここを居城としました。あるいは本城と考えたのでしょう。

 後年、祖父が真田の庄に新たに作った館ではなく、この山城で最期を迎えたのは、そんな理由からだと、私には思えます。

 我が父・昌幸はここで生まれ、七つで証人ひとじちとして甲府へ送られるまで暮らしました。

 つまり、父にとってはここが故郷なのです。

 だからこの度も、どうしてもここへ戻ってきたかった。新たな主に仕えるに当たって、初心のある場所に戻りたかった。

 父は私などに心中を悟らせてはくれませんが、私が父のような生い立ちであれば、恐らくそうしたでしょう。

 ところで、「父のように」ではなく、「私として」生まれ育った今の私は、父のように「生まれ育った所」に戻りたいとは思っていません。

 甲府は懐かしい場所です。帰りたいと思うこともあります。ですが今、あの場所からやり直したいとは思えません。

 全く我ながら不思議なものです。


 砥石の城櫓に立てば、南には上田平うえだだいらを、北東には真田の郷を一望できます。南東の方角に目を転ずれば、北佐久きたさくの土地を眺めることも出来ます。西を流れる神川かんがわが南に進んで千曲川ちくまがわと合流している様子が見えます。

 私が四方を見回していると、

「手狭、であろう」

 背後から声をかけたのは、父でした。

「兵も馬も武器も兵糧も水も、止め置ける量が少ない。山城はそこが不便だ。源三郎は、いかが思うか?」

 父は私の顔ではなく、眼下に広がる景色を遠く眺めておりました。

「不便というよりは、この城は位置が悪いと存じます」

 私は父の色黒で皺の深い、年相応以上に老けた顔を見ました。栗の渋皮が石塊いしくれになったような、固い顔つきをしています。

「そうか?」

「上田の平には近く、塩田しおだの平が遠う御座います。あるいは、真田の庄に近く、川中島には遠い。沼田はまだしも、甲州、振り返って信府、さらに申しませば諏訪、木曽、あるいは、京の都には遠い遠い」

 私が地名を言うごとに、父の顔が歪んでゆきました。頬の辺りがひくひくと攣れ、奥歯でギリギリと音をたてています。そして、目尻がじわじわと下がってゆくのです。

 京の都の辺りになると、父は堪えきれずに、弾けるように息を吐き出して、山が崩れるのではないかというくらい、大きく大きく笑いました。

 珍しいことです。

 腹を抱えて一頻り笑い終えると、また渋皮顔に戻って、

「さても、源三郎は強欲よ」

「はて、私はただ『遠い』と申したまでです」

 私は空惚そらとぼけて答えました。その土地が欲しいなどとは……例え淡い憧れのような思いはあったにせよ……一言も発していません。

 父は渋皮顔のまま、

「儂もなにがどう強欲とは言っておらぬぞ」

 口元だけ僅かに微笑させました。


 私と源二郎、頼綱大叔父は、着いた翌日にはそれぞれ、岩櫃いわびつ、木曽、沼田へと向かうこととなっておりました。

 於菊おきくは、滝川様が厩橋の御屋敷を整える都合もあって、先方から迎えが来るまでは砥石に留まることになっています。

 恐らくは、於菊を手放したくない父の「手回し」があったのでありましょう。

 私が入った岩櫃城には、山城には似つかわしくないほどに立派な作りの館がありました。父がここに武田勝頼かつより公をお迎えする腹積もりで築いたものです。結局、勝頼様は御自害あそばしましたので、真新しい居館は、暫くは主のない状態でした。


 私が岩櫃に入って三日ほど経った頃のことです。

 信濃巫しなのみこであるとか、などと呼ばれる「歩き巫女」の統帥である望月もちづき千代女ちよじょ殿と、その弟子の娘達二十人ほどが訪ねてきました。

 巫女言っても、ノノウ達は特定の社寺に属しているのではありません。ノノウはご神体を携えて各地を遊歴ゆうれきして、その土地土地で雨乞いや豊作を願う祈祷きとうをしたり、あるいは死者や神仏の口寄くちよせせをするなどして働くのです。

 中には、田楽でんがくを舞い、傀儡くぐつを操るといった、旅芸人に近い者達もいます。あるいは神仏に仕えるのではなく、男衆にような事をする者達もおります。

 千代女殿は四十歳を少し過ぎた、白髪の多い、ふくよかな、品の良いご婦人です。元は武田信玄公の外甥そとおいでもある望月盛時もりとき殿の奥方であられました。

 その盛時殿は、永楽四年の「八幡原はちまんぱらの戦い」とも呼ばれる、あの川中島の四度目の戦でお亡くなりなっておいでです。寡婦かふとなられた千代女殿に、信玄公は「甲斐信濃二国巫女頭領」の任を与えられたのです。

 以降、千代女殿は、信濃国小県ちいさがた禰津ねづ村でノノウの修練場を営んでおられます。

 千代女殿の巫女道修練場には常時二~三百の女衆が居り、修練に励んでおります。その多くは、戦の続く世で親兄弟を失った若い娘御でした。百姓の娘も、商家の娘も、武家の娘も入り交じっているそうです。

 私は本丸館の新しい床と新しい敷物の上に落ち尽きなく座って、女衆を迎えました。

 まだ十にも満たない童女から、三十を過ぎた年増まで、様々年頃の女がいました。

 女衆は、神社の巫女のような一重と袴といった出で立ちではなく、それぞれに様々な柄の、丈の短い小袖を着ております。

 足首辺りがちらりと見えるその出で立ちが、妙に艶めかしく思え、何やらじっと座っていることが出来ない気分になりました。私はその照れを隠そうと、

「新しい館というのは、居心地の良くないものですね。とにかく尻の座りが悪い」

 うわずった声で言いました。その様が無様であったのでしょう。若いノノウの幾人かが、口元も隠さずにクスクスと笑い出しました。

 千代女殿が気恥ずかしげに

「修行の足りない者ばかりで」

 と頭を下げると、流石に女衆は神妙な顔つきとなり、師匠に習って深く頭を下げたものです。

「いや、男の前で笑うて見せるのも、ノノウの役目で御座いましょう。若い娘の笑顔は、男の心を開かせる。心を開かせれば、こちらの聞きたい話を思うままに聞き出せるというものです。……今私も危うく余分なことを言いそうになった」

 私が言いますと、千代女殿は誇らしげに頬笑みました。

 甲賀望月氏は甲賀忍びの流れを組む家柄です。盛時殿はその甲賀望月氏の本流の当主でした。千代女殿がその妻となったのは、千代女殿自身の忍びの術が、すこぶる巧みであったためだと聞き及びます。

 忍びの達人たる千代女殿の教えが、加持祈祷かじきとう、呪術、薬石医術やくせき、神に捧げ人を惹き付ける歌舞音曲といった、巫女としての技術知識に留まる筈がありません。

 己が身を守るための武術を学び、並の男共と渡り合っても生き残れるほどの腕前となった者もおります。

 他の歩き巫女のように、夜に男の閨房けいぼうに入る者もおりますが、その房中術ぼうちゅうじゅつと言えば、ただ男を喜ばせ、小銭やその夜の食事を手に入れるためだけのものではありません。彼女らのそれは、男共を籠絡ろうらくし、操り、情報を引き出すための術です。

の若様……いえ、今はの若様でありましたな」

 千代女殿は丸い顔を綻ばせました。

 私が……というか、父が武藤姓を名乗っていたのは、天正乙亥の長篠の戦の後までです。もう七年も前から真田姓に戻っているのですが、千代女殿にとっては私は何時までもなのでしょう。

「真田の若様の本心を聞き出す機会を逸したとあれば、残念なことでありまする。若様も殿様も、真田の皆様は皆、中々に腹の奥底を見せてくださいませぬ故」

 千代女殿は元々細い眼を針のように細くなさいました。

 私は苦笑いして、

「父は元より、私も不誠実ですか?」

「さても……。腹の扉の開閉を己の一存で決め、誠実と不誠実の両方を使いこなすのが、今の世では良い侍ということでありましょう。若様はお父上に似て、良い侍であると言うことで御座いまするよ」

「それが信濃巫女の頭領が降されたご神託とあれば、有難く受けましょう」

 私は土地神の社殿に詣でる以上に深く頭を下げました。

「『神託』はまだ他にも御座いまする」

「それは父も聞いた『お告げ』ですか?」

 私が訪ねますと、千代女殿はこくりと頷かれました。

「真田の殿様は、武田の大殿様亡き後、身の置き所に不自由しておりました我らノノウを庇護してくださるとの事で御座います由に。殿様の求めがありますれば、我らは何時でも神懸かり、言葉をお告げいたしまする」

 遠回しな物言いでした。

 千代女殿とその配下のノノウ達が、我が父の命を受けて、「くさはたらき」つまり忍者の役目をしてくれている――ということをそのまま言うのは、例え真田の城の中であっても、まだ憚られるのです。それほど真田の立場は不安定でした。

 先ほどの私の問も、真意は『父も』ではなく『父から』であり、『お告げ』ではなく『指図・命令』を意味しています。

 千代女殿は笑顔を崩さずに、

「禰津村から優れた者を選んで連れて参りました。後は各地に散っております特に腕の良い者達にも繋ぎを付けております。合わせれば百に少し足りない程の人数になりましょうか。……とまれ、連れてきた内の十ほどは、砥石の殿様のご要請にて、砥石のあたりを中心にして歩き働く事になっております」

「では残りの衆は何処へ向かわれましょう?」

「さて、近いところで善光寺、甲府、沼田、小田原のあたりですね。私は草津のお湯にでも浸かろと思っておりますよ」

「遠いところでは?」

「諏訪のお社に『御札』を取りに参った者もおりますし、脚を伸ばして木曽の御岳おんたけ様、岐阜の伊奈波いなば神社。伊勢の神宮へ『祈願』に向かった者もおります。何分にも、あのあたりの『御札』は『法力』が強うございますから……。出来ますれば、北野の天満さまや厳島いつくしまの本宮、讃岐さぬき琴平ことひら宇佐うさの八幡さま辺りまで行きたいものです」

 即ち、ノノウ達はすでに、関東から信濃、そして岐阜美濃に進入し、京の都や芸州、四国、九州あたりにまでその「網」を広げようとしている、ということを意味します。

 父は砥石の山頂に座したまま、上杉殿の情勢、北条氏の情勢、関東に残られている滝川様の動き、南信濃の国人の動向、そして織田様の事を知ることが出来るのです。さらには山陰山陽、南海四国、西海九州まで見て通そうとしています。

 あの時、「砥石の城は京に遠い」と言っただけの私のことを強欲者と笑った父ですが、なんの、私などよりもずっと欲深なことでありましょうか。

 私は貪婪どんらんな父が無性に羨ましくなりました。父が得る事柄を私も知りたいと、猛烈に感じました。

 そこで、

「この辺りにもが居るので、幾人かこちらを回って貰いたいのですが」

 千代女殿に遠回しに私にも情報網の一角を握らせて欲しいと頼んでみました。

「もちろん、元より幾人かこの郷を回らせるつもりでございますれば。それから一人は若様の武運長久を祈祷をする役目に、このお屋形に留めおけという『神託』が、高いところから降りました故」

 千代女殿は手を捧げ挙げ、天を仰ぎました。

「なるほど『神様』は何でもお見通し、と言う訳ですか」

 真田昌幸という「神様」には到底敵わない――願いが通じたというのに、私は少々口惜しく思ったものです。


 岩櫃の城に残ることになったノノウは、年の頃十三、四ほどの娘でした。

 旅から旅の歩き巫女の割りには色が白く、目玉のくりくりとした、子供のような顔の娘です。

 千代女殿と他のノノウ達がそれぞれに出掛けた後、娘は、

「わたしは千代女様の秘蔵っ子、垂氷つらら、と申します。若様にはよろしくお見知りおき下さいませ」。

 などと臆面無く申しました。

 このように、少々勝ち気な所のある娘ではありますが、確かに『千代女殿配下の巫女』としての技量は優れておりました。

 祈祷であるとか医術薬草に関わる事柄についての知識や技量があるのは、ノノウとして当然のことです。

 それがなければ、人に「只のノノウではない」と見透かされ、怪しまれてしまいます。それでは「草」としての働きは到底できません。

 もっとも、もっぱら男衆の相手をすることに専念するノノウもおり、そう言う「役目」の者であれば、本来の巫女としての技量を持たない事も有り得ましょう。ただ私が見る限り、垂氷には其方の「役目」は与えられていない様子でした。

 これは、色町の女衆のような白粉おしろい臭さや酒臭さが感じられないといった程度の、私から見たらそうではなさそうだ、という感覚でしかありません。

 確かめようにも、年若い娘子に

「お前は巫娼ふしょうか?」

 と聞くわけにはゆきますまい。聞いたとして、そして答えが返ってきたとして、気恥ずかしくなるのは多分私の方です。

 何れにせよ、巫女の仕事の為に必要な事柄のことで優れている事には、感心はしますが驚く必要はないとおもわれます。当たり前のことなのですから。

 私が驚いたことの第一は、垂氷が読み書きが達者なことでした。仮名文字は言うに及ばず、漢文が読み書き出来るのです。

 武家や公家の娘であれば、仮名文を読み書きすることは出来ましょう。それでも、女衆で、それも歳若い娘で、乎己止点おことてんのない白文はくぶんを読み下せる者は、武家の中にもそうはいないものです。

 私がそのことに感心しますと、垂氷はけろりとした顔で、

「漢字が読み書きできませんと、『御札』を『頂戴』したときに、その『有難味』が判りませんし、『祝詞のりとの中身』をそらんじることも、それから新しく『御札』作ることを出来ませんでしょう?」

 と申しました。

 つまり「密書や他人の書簡を覗き見て覚え、その内容を主人に伝えたり、時として贋手紙を作るような工作をする為に必要なことだ」と言っているのです。

「源氏の君の物語を書いた紫式部でさえ、漢文に達者であることを隠していたそうで。読めないフリ、書けないフリをするのが、また骨の折れることなのでございますよ」

 垂氷は己の肩を叩く真似をして、戯けて見せました。小さき山城だとは言えど、一応は岩櫃城代である私の前で、実にけろりんかんとこういった振る舞いをしてみせる辺りは、剛胆と言うより他ありません。

「利口者が莫迦ばか者のふりをするのは大変だろうな」

 私がからかい気味に、しかし本心感嘆しますと、垂氷は、

「わたしより若様の方が余程お疲れで御座いましょう」

 などと言って、にこりと笑ったものです。

 しかし黒目がちな目の奥には探るような光がありました。

 いえ、あるような気がしたに過ぎないのかもしれませんが……。

 そのために、私には、垂氷が私が仕えるに値する男なのかを見極めようとしているのではないか、と思えたものです。

 品定めされるというのは、あまり気分の良いものではありません。かといって、そういった小心な不機嫌を察されるのもまた面白くありません。

「ああ、疲れる、疲れる。莫迦が利口のふりをしようと努めると、頭が凝って仕方がない」

 私は阿呆のようにケラケラと笑いました。

 垂氷は不可解そうな顔つきで、私を眺めていました。むしろわらってくれた方が幾分か気楽だったのですが、この娘は妙なところで真面目なところがありました。

 さても、こういった具合でありましたので、私は、この娘はおそらく武家の出身であろうと踏みました。

 よし農民であったとしても、戦になれば武士に変ずるような半農の一族、あるいは武士が帰農したような家柄だったのではないかと思われました。さもなくば、そこそこの武家に生まれて後、事情があって農家へ預けられた、とも考えられます。

 それにしては、礼儀作法がなっていない気もしましたが、少なくとも、ノノウの修行を始める以前から、ある程度学問ができる環境にあったには違いないでしょう。

 そんな垂氷のことで私がもう一つ驚いたのは、その脚の丈夫さ、速さでした。

 厩橋の城下で「巡礼」している仲間のノノウと繋ぎを取らねばならなくなった時のことです。

 本来ならこういった仕事は繋ぎ専門の者がするのですが、その日は頃合い悪く繋ぎ役が皆出払っておりました。

 そこで垂氷がその役を買って出たのです。

 垂氷は岩櫃から厩橋までの、途中険しい山道もある十里以上の道程を、まだそれほど日の長くない季節だったというのに、明るい内に苦もなく往復してのけました。それは徒歩軍かちいくさにも劣らない健脚ぶりでした。

「脚が頑丈なのは当たり前です。何分にもわたしはノノウ。歩くのが商売の歩き巫女の端くれで御座いますよ」

 垂氷は、少々自慢げに申しました。漢字の読み書きの時もいくらかは自負が感じられましたが、脚自慢はそれ以上でした。余程に己の健脚が誇りなのでありしょう。

「歩く仕事が一番好きでございますよ」

 胸を張って言うと、垂氷は厩橋のノノウからの繋ぎの書状と、もう一つ別の書状を差し出しました。

 繋ぎの書状は薄い紙を折り畳んで結封むすびふうにしたものでしたが、もう一方は折紙を切封きりふうにした書簡でした。

 細い筆による柔らかい筆致で書かれた宛先の文字は「真源三どの」となっておりました。私宛の物であることは間違いありません。

 差出人の名は「慶」一文字です。

「私が読んでも良いものかね?」

 私は結封の方を指して尋ねました。

「読んでいけない物は別にして砥石へ送ってございます」

「成る程、それはそうだろう」

 腹の奥にチリチリとしたものを感じました。くだらない嫉妬心です。

「それよりも……」

 なにやら言いたげな垂氷の目の奥に、幽かな嗤いが見えた気がしましたので、

「それよりも?」

 と重ねるように尋ねました。その声音には、いくらか険があったかもしれません。

「そちらの立派な文の方です。それは厩橋に反故紙ほごし漉返すきかえしを商いにしている者から……」

「もしや、紙座かみざよろず屋のことか?」

「あい」

 反故紙というのは、書き損じや使い古しの紙のことです。

 紙は高価な物です。書き損じたぐらいで捨ててしまえば、それは金を捨てるのと同じ事でしょう。古い紙を水に浸してほぐし、出来るだけ墨を抜き、もう一度紙に漉き直せば、それだけ無駄が省けるというものです。

 そういった漉返紙は、どれ程丁寧に叩いても元の書類の墨が残っているため、薄い鼠色になります。このため薄墨紙などとも呼ばれます。

「あそこは薄墨紙ばかり扱っている訳ではない。三椏紙みつまたがみ楮紙こうぞがみも、麻紙ましも、雁皮紙がんぴしだって扱っている」

 甲州、というよりは、武田信玄公の領していた土地では、信玄公の御意向により、製紙産業に力を入れておりました。

 元より高価な紙を、国外の産地より取り寄せていては、運ぶ手間賃がかさみ、益々値が上がります。それ故に信玄公は、領内で三椏や楮といった紙の元となる木々を植えさせ、紙座を置いて、紙の生産を奨励なさいました。

「さようですか。わたしどもなどは、安い紙しか使いませんので、てっきりそうなのだとばかり」

 確かに「草の者」が密書に厚手の奉書ほうしょ紙を使うことは、贋手紙を仕立てるのでなければ、そうはないでしょう。

「ともかく、その文は件の紙屋さんからあずかってきたのですが」

 垂氷はニコリというか、ニタリというか、何とも言い様のない笑みを満面に浮かべ、

「何処の娘ごからの付文つけぶみですか?」

 紙座の筆頭である萬屋は、元を辿れば信濃者だと称しており、そのため私たちが上州にいた頃から懇意にしておりました。

 何分、我が父は表に裏に、諸方へ様々な文を発するのがたいそうなものですから、紙屋と仲が良くなるのは必然でありました。

 武田が滅び、甲斐に織田様がお入りになって以降も、萬屋は商いを許されて、滝川様の御屋敷にも出入りしています。

 ですから、萬屋が厩橋にいる真田に縁のある者達からの様々な『文』や『届け物』を――表向きにして良い物もそうでない物も含めて――預かり、使いを立てて届けて寄越すことは、有り得ることです。

 もし万一、本当に私宛に付文を寄越そうという女性にょしょうがいたとしたなら、萬屋に頼むのが一番確実なのは確かです。

 しかし残念なことに、そう言った女性は居りません。

「男だよ。この手紙の主は男だ」

 私が苦笑いして言いますと、垂氷の目の奥の嗤いが、艶笑えんしょうじみたものに……あくまでも私が見たところなのですが……変わりました。

「まあ、で」

 垂氷はその笑いを隠しもせずに、顔の上に広げました。

「お前は何を考えている」

 と、口に出して問いましたが、実際の所おおよそのところは判っておりました。

 垂氷はあの文を付文と信じて疑っていないのです。例え、差出人が男であっても。

「若様は、おなごがお嫌いなのかしら、と」

 にこりと、実に面白げに、垂氷が笑って見せました。

 私はすこしばかり中っ腹になりましたので、狭量にも何も答えずにおりますと

「若様は、ご自身がどうこう言うのは別として、殿方から好かれる方なのですよ。つまり男好きのする良い男」

 恐らく褒めてくれているのでしょう。

 後にすれば、そう思えます。しかし、その時にはそうは思われませんでした。

「あまりうれしくないな。殊更お前に言われると、何故か面白くない」

 わたしは件の文を、我ながら態とらしく横に避け、結封を開きました。

 厩橋の曲輪の内に大層立派な「人質屋敷」が建てられたこと、わけても立派な一棟は、どうやら我が妹於菊の住まいに当てられるらしいということ。

 滝川様が軍馬の補給に苦労しておられること。

 駿河するがを知行することとなった徳川殿が盛んに街道筋の整備をしていること。

 そして、小田原の北条殿の動きがなにやら活発であること……。

 大体そのようなことが細かい鏡文字で書き連ねられておりました。

 大方は予想通りの事でした。私は文を手焙てあぶりの熾火おきびの上に置きました。

 立ち上がった小さな炎が、北条勢の動きに見えました。

 北条殿はこの度の「武田討伐」では一時的に徳川様の旗下に入り――武田方であった我らから見れば口惜しい事この上ない――存分の働きを成されたのですが、織田様からの恩賞は殆ど無かったと言います。

 織田様はあるいは北条殿との「同盟関係の維持」こそが、恩賞であるとお考えなのでかもしれません。

 ですが北条殿にしてみれば、それは目に見える結果ではありません。このために、ご家中には織田様に恨みを抱いている者が多くいる様子でした。

 今北条殿が半ば公然と軍備を整えているのは、あるいは織田様の本隊が離れた甲州・上州を狙ってのことかもしれません。

 炎は、あっと言う間に小さな紙を蹂躙じゅうりんし尽くしました。しかしやがて自らも衰え、一条の煙を以外には何の痕跡も残さず、掻き消えました。

「寒いな」

 私は独り呟きました。誰かに対して呼びかけたわけではありません。それが判っているのか、いないのか、垂氷は何も答えません。

 私は火鉢の中の熾火が静かに揺らめくのを、しばらくの間眺めておりました。

 私がじっとしておられましたのは、僅かな時であったと思います。なにやら腹の奥の方で何者かがうごめいている気がして、長くじっとしていることが出来なかったのです。

 私は徐ろに、あの切封の文に手を伸ばしました。

 文を開きながら、そっと、何気なく、垂氷の顔を覗き見ますと、何を期待しているのやら知れませんが、黒目がちな瞳に好奇の輝きがありました。

 私は開いた文に目を落としました。

 筆跡は見ようによっては女手にも思えるほど細いものでした。垂氷が女性からの文と思いこんだのも仕方のないことです。

 これを、前田利卓としたかという身の丈六尺豊かな偉丈夫が書いたとは、あの方をまるで知らない者や、知っていても語り合った事のない者であれば、到底信じられないでしょう。それほどに柔らかで繊細な筆運びでした。

 私がもし、宋兵衛……いえ、慶次郎殿に一面識も無ければ、遭ったこともない女性からの文かと思って浮かれ舞っていたかも知れません。

 遭って、語って、一勝負したからこそ、私にはあの方の繊細さが知れたのです。

 細いながらも骨太な筆運びの墨跡ぼくせきからは、腐れ止めに使われている龍脳りゅうのうの香りがしました。

 本当に質の良い骨董品の墨はにかわがこなれており、文字がにじむむと筆を運んだ軌跡きせきの芯が美しく強く浮かび上がってきます。

 無論、美しい文字を書くためには、書き手にもそれだけの素養が必要ではあります。

「よい古墨こぼくを使っておられる」

 これも誰かに聞いて欲しくて言った言葉ではありません。感心が胸の内から口へとあふれて出たのです。

 さて、肝心の文面ではありますが、表向きは他愛のないものでした。



 厩橋の紙座で、置く品はすこぶる良いが、店主が頑固に過ぎる萬屋というのを見付けた。

 萬屋の面構えを見ていたら、まるで似ていないのに貴公を思い出した。

 たわむれに「お主は信濃者だろう?」と尋ねてみたなら、果たしてその通りであった。

 聞けば、貴公と萬屋は古馴染みであると言うではないか。これを奇遇と言わずして何と言うのだ。

 今、萬屋の座敷を借りて、この手紙をしたためている。

 特に何か知らせてやろうとか、何か聞きだそうとか言うのではない。大体友へ文を出すのに用事がいる必要はないだろう。

 時に、滝川左近将監さこんのしょうかんはこのところようや珠光小茄子しゅこうなすの事を口にしなくなったが、今度は儂の顔を見る度に、

「なぜあの時に鉄兵衛にここへ残るようにと口添えしてくれなかったのか」

 と嫌みたらしく言ってくるようになった。

 しぶとい年寄りの面倒を見るのは大層疲れる。さても貴公の父親も大変な男に見込まれたものだ。可哀相でならない。

 そんなわけで、伯父貴があまりに五月蠅うるさいので、儂は顔を合わせまいと思うて、この頃は出来るだけ外出をすることにしている。

 先の戦で馬を乗り潰したので、その代わりを得たいというのを言い訳にして、馬狩りを口実に出歩いている。

 この辺りの山野では良い野生馬が群れなしているのを見受ける。さすがに武田騎馬軍を育んだ土地柄である。

 鞍や馬銜はみの痕が見えるものもいるが、飼われていたものが逃げ出したのか、あるいは攻め手に奪われぬように態と逃がしたのか。

 儂の胸には、悪賢い馬丁がこの土地から去る時に、自ら馬囲いを壊した、という景色が思い浮かんでくる。

 その、我が夢想の中の馬丁の顔立ちが、貴公や貴公の父親の面構えに似て見えるのが可笑しくてならない。

 先日、ある野生馬の群れに、それは見事な青毛あおを見た。気性が激しく、中々捕まえることが出来ないが、手に入れるための苦労も、手に入れられるものが良ければ良い程、また楽しいものだ。

 あの馬ならば、岩櫃の崖でも苦もなく登るだろう。

 奴を手に入れたなら、遠駆けついでにそちらへ行く事に決めた。良い酒か、うまい茶の飲める碗、それから良い飼葉をたんと用意して頂きたい。

 云々――。



 私は文を眺めながら、思わず肩を揺らして、しかし声に出すことはどうやら堪えて、笑っておりました。

 私の頭の奥には、初めて訪れた萬屋の座敷で、自分の家におられるかのようにくつろいで、文を書いている前田慶次郎殿の姿が浮かんでおりました。

 その傍で萬屋の主が、初めてあった大柄な侍を、十年前からの同居人のようにあしらっている姿も、です。

 慶次郎殿ならば初対面の相手でも気に入れば刎頸ふんけいの友のように接するに違いなく、萬屋のほうも初めての客であっても「これ」と見込んだ相手なら心を開くに相違ないのです。

 それから、野山に出て何もしないことを楽しんでおられるような慶次郎殿、欲しいものを見付けて子供のように夢中で眺めている慶次郎殿の姿も、まるで現のように想像できます。

 そして、巨大な黒い馬に打ち跨った慶次郎殿が、今にも庭先にひょっこりと現れる、その光景も、ありありと見える気がしました。

 私は今すぐに筆を取り

『いつ何時でもお越し下さい。門は開け放ち、戸も鍵を開けてお待ちしております』

 と書きたい気分でした。

 その文が先方に届けば、おそらく慶次郎殿は本当に夜半の山道に馬を走らせて、この山城を訪れてくれることでしょう。

 私はその様子を想像し、楽しさのあまり身震いしました。

 その楽しさを押さえ込むのには大層苦労しました。

 そこへ垂氷は

「御返書は? お望みでしたら、今日の内に先方へお届けいたしますよ。わたしは歩くのが得意ですから」

 自信ありげに微笑してみせたのです。途端に、私は泣きたい気分になりました。

「その日書いた文の返書がその日の内に届いたら、どうなると……お主は思う?」

 こう尋ねると、垂氷は瞬きをしながら小首を傾げました。

 自慢の健脚が己自身にとって当たり前に過ぎるので、その速さが尋常ではなく、ともすれば怪しまれるやも知れぬ代物であることに、思い至らぬのでありましょう。

「最初の手紙を持って出た者も、返書を携えて戻ってきた者も、普通の人ではないと思われるぞ」

 私がそう言っても、まだ理解が出来ない様子でした。

「萬屋には普通でない者が出入りしているとか、その萬屋が真田贔屓ひいきだとか、萬屋の主人は店に出入りしているノノウや商人や百姓の格好をした者たちが『草』であることを承知しているだとか、承知しながらそれを滝川様に報告していないとか、そういうことが滝川様のご一門に知れても良いか?」

「そうなるとどうなりますか?」

「こうなる」

 私は自分の首に手刀を当てました。

 垂氷の顔が、僅かに強張った様に見えました。私は薄く笑い、言葉を続けました。

「なにしろ私たちは織田様の家臣になったばかりだ。良い家臣でなければならない。上役に隠し事をすることなどないような、ちゃんとした家来でないとな。でないと、私たちだけでなく、お前達ノノウも、それから萬屋も、萬屋に出入りしている者達も全部コレだ」

 私が再び手刀を首元に打ち付けて見せますと、垂氷は首を横に振りました。

「それは困ります。若様はともかくも、千代女様の首が飛んでは、困ります」

 これを真面目な顔で言うのですから参ったものです。

「お前、私を主とも雇い主とも思うておらぬな」

 私は苦笑いするより他にありませんでした。

 結局、私が返書をしたためたのは翌日の昼過ぎで、それを垂氷ではない、他の繋ぎ役のノノウに託して、萬屋へ届けさせました。

 そして萬屋の者がその又翌日に慶次郎殿の元へ届けてくれるように、と言づてました。

 一瞬、直接前田邸へ届ようとも考えもしました。間に何人もの人手を挟むのは、もどかしくてなりません。

 しかし、私の小さい肝がそれを押しとどめさせました。

 私が垂氷に言ったことは、全部私の本心です。

 武田家がノノウを庇護し、彼女らが「信心」を理由に自由に諸国を巡ることが許されていることを利用して「草」として利用していたことを、織田様や滝川様、そしてその将である前田慶次郎殿が全く知らぬとは考えられません。

 ノノウの統帥たる千代女殿の婚家「甲賀望月氏」は、甲賀忍びの流れを引いています。

 そして滝川様ご一門は甲賀発祥だと云います。

 同じ源流を持つ者として、武田の庇護を失った千代女殿達の動向を探っていても、不思議でありますまい。

 彼女たちの「網」は有益なモノです。手に入れたいと思うのが当然でしょう。

 そうであれば――あるいはそうでなかったとしても――父がノノウ達のことを秘匿していることが知れたなら、真田の家にどのような御仕置きがなされるか、考えただけでも小便が漏れそうなほど強烈な震えが来ます。

 ですから、出来るだけ「普通の文のやりとり」に近い速さで事を進めたかったのです。

 私は、友との手紙のやり取りを心の侭にすることが許せない程の小心者の己自身が、情けなくてなりませんでした。

 ため息を吐いている所へ、垂氷が興味津津きょうみしんしんといった顔つきで、

「それで、その『慶』様には、どのような文を送られたのですか?」

「なんだ、覗き見たのではないのか?」

 封印をしたわけではない、しかも私信でありましたが、垂氷のような「優秀な草」であれば、たとえ自分が携わったやり取りでなくても、主人……この「優秀な娘」が私のことをそう思っていてくれるかどうかは別として……と誰がしかが交わした文の内容を確認するのが当然なのではないか――と、私は考えていました。

 ですから垂氷が首を横に振ったことは意外でした。

「見なかったと言うことは、見る必要を感じなかったということだろう? それでいて、内容をお前に言う必要があるというなら、理由を申せ」

 垂氷は笑って、

「文を見なかったのは、火急の用件ではなかったからです。急ぐことであるならば、わたしも文の内容を直ぐに知っているべきで御座いましょうが、そうでないなら後から聞いても間に合いましょう」

「では、もしアレを早馬ででも出していたなら、当然封を開けてじっくり見た、ということか」

「あい」

 垂氷には悪びれた様子など微塵もありませんでしたが、ニコニコとしていた頬の肉を、きゅっと引き締めると、

「で、でございますよ。よしんば、万一、もしかして、それこそ火急の用件で、件の『慶』の所へ、若様の筆跡を真似た贋の文を、わたしが書かなければならなくなったときに、それまでのやりとりが判っておりませんでしたら、辻褄の合わないことを書くやも知れません。ええ、つまり用心のためです。そう、用心のために教えて頂きます」

 真面目振った顔で言いました。

 一応理に適っています。ですが私にはこの娘の目の奥に、仕事への責任感以外の光が見える気がしたものです。

「さて、先方に贋手紙を渡さねばならないような事が起きなければよいが。なにしろ私は友を作るのが下手だ。せっかく先方から友人扱いしてくれたその人との縁を失うのは嫌だな」

 私は贋手紙など出されては困ると遠回しに言ったつもりなのですが、私などが予想できないような返答が、想像していない斜め上の方角から返って来てしまいました。

「お任せ下さいませ。垂氷めは持てる力総てを注いで、迫真の贋手紙を書きまする。決して若様と『慶』様との仲が壊れるような事にはさせませぬ」

 垂氷は胸をドンと叩いて見せました。

 勘働きの悪いことです。私ははこの時になって漸く、この娘には皮肉であるとか湾曲した物言いであるとかいうモノが通用しないらしいと気付きました。

 垂氷の顔色は艶々と、目は爛々と輝いております。早く自分の持てる力を発揮したい、と、総身に力をみなぎらせているようでありました。

『まあ、それだけ自分の「草」としての能力に自身があるのだ、と言うことにしておくか』

 私は苦笑しながら腹の奥でため息を吐きました。

「どうあっても、文の中身を知りたいか?」

「あい」

 垂氷の目玉がますます持って輝きました。

「お前の期待しておるようなことは書かなんだよ。ありきたりな文だ、ありきたりな……」

 私は短い文の内容を殆どそのまま言って聞かせました。



 過日の身に余る送別の茶会の御礼を、今日まで申し上げておりませんなんだ事を、どうかお許し願います。

 今私は切り立った山の上で、日がな一日書物に当たる退屈な日々を送っております。

 と申しましても、この山城の蔵の中には米と味噌と柴以外の物はそれほど多くは入っておりません。遠くない日に読む書物もなくなってしまうのではないかと案じておりました所へ、先の文を頂戴し、涙を流して喜んでおります。

 何れ近い日に件の馬にて山駆けをなさった暁には、この山家にて精一杯のおもてなしをする所存で御座います。



 聞き終わった垂氷の目は、針のように細くなっておりました。

「若様のお腹の黒いこと」

「そうかな」

「そうで御座いますよ。『何もない』と言っておきながら、籠城するに十分な兵糧や、夜襲や火攻めのために要り用な柴がたんと備えてあると言っている。そういったことは普通は秘密にしておきたいことなのに、それをことをポロリと零したフリをして、相手を牽制なさっておられる」

 垂氷は細く閉じた瞼の奥から、私に向けて心の臓をえぐるような尖った眼差しを送っていました。

 私は首を振り、笑いました。

「考えすぎだ。私はそこまで策を弄することができるような小利口者ではない」

 この時の己の顔を、己自身の目で見ることは出来ませんでした。

 ただ、想像は容易に出来ます。

 恐らくは垂氷の言ったとおり、腹の黒い笑顔だったことでしょう。


 時というものは忙しいときほど速く過ぎてゆくものです。

 卯月の末には、異母妹の於菊が厩橋へ向かってゆきました。

 厩橋の人質屋敷が完成したから……という滝川一益様直筆の「催促」の文を持った御使者が来たのでは、流石の父も於菊の引き渡しを拒むことができません。

 於菊は侍女と共侍を一人ずつ、それから琴を一張携えて、上州へ向かいました。

 木曽へ赴いた源二郎と、矢沢三十郎叔父の文が、砥石を経由して私の所へ届いたのは、皐月の初め頃だったでしょうか。

 源二郎の文に書かれていたのは、次のようなことでした。



 無事に木曾殿の元へ到着いたしました。

 木曾殿が父に「今までもこれからも『同じ主君に仕える者同士』であることは変わらぬから」と、宜しく伝えて欲しいとの仰せです。

 織田の大殿様は、木曽にはお寄りになりませんでした。

 古府こうふから駿河へ出て、東海道で早々に安土城へ戻られたそうです。

 武田討伐において多大な力を貸してくれた徳川蔵人佐くらんどのすけ家康殿をもてなす宴を開くためであるとのことです。

 云々。



「しかし、父はどんな顔をしてこれを読まれたか」

 何分にも、父が嫌っているお二方のことばかり書かれている文でした。殊更ことさら、木曾殿からの言づてなどは心中苦々しげにお読みになったことでありましょう。

 それでも、顔色は平静と少しも変わらなかったに違いありません。あるいは薄すらにお笑いになっていたかも知れません。

 三十郎殿からの文は、砥石から木曽への道すがらを短くまとめた旅日記のような体裁になっておりました。

 もしこの後に私が彼の地に向かうようなときが来たなら、見物して回るのにたいそう役に立つに違いない、と思えました。

 私は文を読み終えると、自分の文……いいえ、何ことはない、只の時節の挨拶です……を添えて沼田の頼綱大叔父へ送りました。

 皐月の間中、私は毎日岩櫃の崖の上に立って、厩橋の方角を眺めておりました。

 その方角から文をが来るのを待っていたのです。

 前田慶次郎殿からの文です。

 最初の突然に送られてきたものから先、皐月の間は一通の便りもありません。このことが寂しく思えてなりませんでした。

「私が送った返事が気にくわなかったかな」

 誰に言うでもなく、ぽつりと口にしたその後で、『しまった』と心中舌打ちをしました。

 間の悪いことに、部屋に垂氷がいたのです。

「だからといって、失敗を取り繕うような文を送ってはなりませんよ。しつこい男は嫌われます。とは申しましても、少しも文を送らぬのでは、先方がこちらを忘れてしまいますが。げには難しゅうございますれば」

 垂氷ときたら、さても楽しげにニコニコと笑って申すのです。

 この娘は、どうあっても私と慶次郎殿の関わり合いを「念友ねんゆう」であることにしたいようでした。

 男同士の友情の最も強く固い繋がりが衆道しゅうどうの間柄だ、という方がおいでです。そういう方々から見たなら、私と慶次郎殿は真の友ではないと言うことになるのやも知れません。

 そう考える方々のお考えはごもっともでありましょうが、私の考えはは違うのです。

 友には、肌の触れ合いどころか、言葉の交わし合いすら無用である。

 ただ、何処かの空の下に、互いを友と思い合っている者がいる、そう思うことこそが必要であり、その事実が一番大切なことなのではないか。

 私がそういったことを言いますと、垂氷は急に笑顔を引きました。

「そうお想いならば、返事が返ってこないからと言って、焦れたりなさらなくても宜しい。若様が彼の方を友とお思いならば、ただひたすらに厩橋の空の下におられる方のことを思って差し上げなさいませ」

 真正面の正論が返ってきました。

 このような大上段の攻めを受けた時、小心者の私に、

「まあ、確かに、その通り、だ、な」

 と口ごもるより他に手立てがあるでしょうか。

 その様子を見た垂氷は、どうやら私が、

『生まれ故郷から引き離され、このような山奥の断崖の上に押し込められたために、懐かしい空の下にいる人々のことを思い出しては、酷く落ち込んでいる』

 のだと思ったようです。本当のところは判りませんが、恐らくそうだったでしょう。

「若様、わたしはノノウでございますよ。他人様の悩み事を聞いて、それの助けになるようなことを言って差し上げるのが、わたしの仕事でございますから、何ぞ心に架かることがございましたなら、何なりとお申し付け下さいませ」

 この時、胸の前で手を合わせ瞑目めいもくして言う垂氷が、白衣観音菩薩びゃくえかんのんぼさつの化身のように見えたのは、今から考えますれば、実際私の心が重く塞いでいたからやもしれません。

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