[4]追ってくる女
ぼく、
時間は平日の真昼間。太陽が暖かい日差しを地面に投げかけていた。
園内には、3歳くらいの男の子の手を引く、若い母親の姿がある。
近所に住む主婦が子供を散歩に連れてきたのだろう。
二人がぼくの目の前を通りすぎていく。
母親はこちらに目もくれないが、子供がこちらを向いた。
その子と目が合った気がして、ぼくは無意識的に微笑みを返す。
「ままー、にゃーにゃ。あそこに、にゃーにゃがいるよ」
しかし彼が見ていたのは、ぼくではなかったようだ。
振り返ると、植え込みの中で猫が昼寝している。
紫色の花に囲まれて、猫は気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「にゃーにゃのお昼寝、邪魔しちゃダメよ」
母親は優しい口調でそういうと、猫に構おうとする男の子を引きずるようにして、少し遠くの滑り台まで連れていった。
滑り台を前にした男の子は、猫のことはすぐに忘れてしまったらしく、無邪気に遊び始めた。
ぼくは膝に頬杖をつきながら、その様子をぼんやりと眺めていた。
「よう」
不意に声をかけられたが、驚きはしない。
ぼくに話しかけてくる者なんて決まっている。
我が同僚にして友人、
「待たせたかな?」
「少しだけ」
「それは悪かった」
いうや、カズキはぼくの隣に腰を下ろした。
簡素なプラスチックのベンチが少しだけ軋み、植え込みで寝ていた猫がびっくりして目を覚ました。
「おお、悪いな猫ちゃん。昼寝の邪魔して。何もしないから寝てていいぞ」
カズキがおどけた口調で猫に話しかける。
猫はしばらくベンチを見つめていたが、やがて安心したように目を閉じた。
ふわふわの尻尾が、もぞもぞと動く。まだ周囲を警戒しているのかもしれない。
「ケン、終わったのか?」
「うん。そっちも無事みたいだね」
「今回はもう一人付き添いがいたからな。気は楽だったぞ」
カズキはそういうと、両腕をぐっと持ち上げて背伸びをした。
そして「ふわぁ……」と間の抜けたあくびをする。猫みたいだった。
「そういえばケン、今回一緒だったやつに、面白い話を聞いたぞ」
「何? どうせまた、くだらない話でしょ?」
「はは! くだらないといえば、くだらないな。最近ちょっと流行ってる怪談だ」
カズキがもったいぶった口調でそう言った。
ぼくは怪訝な気持ちで眉をしかめる。
「怪談? 科学万能の時代に?」
「科学万能の時代だからこそ、ロマンがあるんだろう! お前、『追ってくる女』て知ってるか?」
ぼくは無言で首を横に振った。その手の非科学的な話には疎い。
はっきり言って、ナンセンスだと思う。
「仕事中に、知らない女が話しかけてくるらしい」
「ふぅん」
「その女は、俺たちがどんなに巧妙に隠れていても見つけてしまうらしい。そして、こう言うんだ。『ねえ、待って。私、あなたを追いかけてきたの。彼はどこにいるのかしら?』って……気味が悪いだろ?」
「へぇ」
気の無さそうな返事を返しながら、ぼくは少しだけ興味をひかれた。
活動中のぼくたちを探し出せるとしたら——相手は幽霊か、あるいは「同業者」に限られる。
ぼくの心境を知ってか知らずか、カズキは臨場感たっぷりに、おかしな抑揚をつけて語り始めた。
「そして、その女は悲しそうな声色でこういうのさ! 『あなたは、彼はじゃない。彼はどこにいるのかしら?』……そして、その言葉を残して、彼女はかき消えるようにいなくなる——らしいぞ」
「なんだ、『追ってくる女』っていうから、てっきり付きまとってくるもんだと思ったら。で、その女が追いかけている色男は、一体誰なんだろうね?」
冗談めかして尋ねると、カズキは「お、乗ってきたか」と言いたげに人差し指を立てた。
「それはわからんよ。その女を見たことある連中、誰も身に覚えがないらしい。ちなみにその女、上品な雰囲気の美人らしいぞ」
「ふうん、一度会ってみたいね」
ぼくのセリフを受けて、カズキは「まったくだ!」と笑った。
その様子を見るに、怪談を真に受けているわけではないらしい。
「さて、そんな話はどうでもいいか。んー、一休みしたし、そろそろ帰るかね!」
カズキが、背伸びをしながらベンチから立ち上がった。
ぼくが「そうだね」と相槌を打って、彼の顔を見上げた、そのとき——。
「ねえ、待って」
ぼくの耳朶を、若い女の声が打った。
上品で柔らかい声色、お嬢様っぽい言い回し。
声の主を探して、ぼくは辺りを見渡す。
「ここよ」
声はぼくの背後から聞こえていた。
ぼくが驚いて振り返ると、そこにはクリーム色のワンピースの上に、薄紅色のカーディガンを羽織った、若い女が立っていた。
年の頃は30歳前後だろうか? よくわからない。
みずみずしい少女のようにも見えるけど、佇まいの雰囲気は成熟した女のそれだ。
上品な笑みをたたえた口元、背中まで伸びた柔らかい黒髪、こちらを見据える黒目がちな瞳から、「古風な美人」という印象を受けた。
「私、あなたを追いかけてきたの……」
女の桜色の唇が小さく動き、言葉を紡いだ。
「ぼくのこと……?」
ぼくが自分を指でさすと、彼女はにっこり微笑んで、小さく顎を引いた。
恐怖とも違和感ともつかない感覚が、ぼくの体の駆け上る。
なぜ彼女には、ぼくが見えるのだろう。
それに、彼女はいつの間にここに立っていたんだ?
犬や猫ではないのだ。大人の人間がこんなに近づいてきて、ぼくたちが気づかないのは不自然だ。
俺の背中がぞわりと粟立つ。
一方、カズキのリアクションはといえば、ぼくよりももっと極端で「うわっ! 出たっ!」と叫びながら後ずさりしていた。出たはないだろう。失礼なやつだ。
「きみは本当に、ぼくたちが見えるのかい?」
好奇心が恐怖に打ち勝った。
ぼくはおそるおそる、彼女に問いかける。
彼女は笑いながら、ふたたび頷く。
そして、ゆっくりこちらに近づいてくる。
「彼はどこにいるのかしら? あなたは、彼……?」
カズキに聞いていた怪談と同じセリフを口にすると、彼女は俺の目の前で立ち止まった。
怪談の筋書き通りに進むならば、彼女はこういうはずだ。「あなたは、彼はじゃない。彼はどこにいるのかしら?」——そして、霞のように消えていく——。
「やっと見つけた」
しかし、彼女が紡いだ言葉は、予想に反したものだった。
ぼくとカズキの口から「え……?」という戸惑いの声が漏れる。
「あなたが、そうなのね……。やっと会えた」
「ちょっと待ってくれ、きみはいったい何者なんだ。ぼくたちのことを知っているのか?」
ぼくがまくし立てると、彼女は少し困ったような顔をした。
「あなたは、私のことを忘れてしまったの? あなたが私の記憶を奪っても、あなたが私のことを忘れることはない……そう思っていたのに」
まったく記憶にない——。
こんな美人、一度出会ったら忘れることなんてできないだろう。
それに、ぼくが彼女の記憶を奪ったというのは、どういうことだろう。
確かに、ぼくたちにはそういう力がある。
しかし、ぼくがそれを行使したことは、これまでに一度もなかった。
「悪いけど、きみのことは知らない。人違いじゃないかな……?」
ぼくが慎重に言葉を選びながら語りかけると、彼女は視線少し上にあげ、考え込むような仕草をした。
何かに得心したように「あ」と小さな声を上げる。
そして彼女は小さく含み笑いした。
上品な佇まいには似合わない、子供っぽい表情が覗く。
「……いまのあなたは、まだ私に出会ってないのね……」
彼女の言葉に、ぼくは確信を強める。
やはり彼女は、ぼくたちと同じ時間旅行者だ。
ぼくやカズキの「仕事」——それはタイムトラベルの実験だった。
いま、ぼくたちが立っているこの場所よりも、ずっと遠い未来。
そこで生まれたぼくたちは、過去の世界へと飛ぶ技術を開発した。
しかし、現時点での——過去の世界でこんな言い方をするのはおかしいけれど——ぼくたちのタイムトラベル技術はとても未熟で、不安定だった。
それゆえに、ぼくたちは幾度となく実験を繰り返している。
その時代の人間から姿を隠す特殊フィールドに身を包み、ぼくたちは過ぎ去っていった時の流れの中に身を投じ続けていた。
いずれ、ぼくは彼女と出会うのだろう。
過去人である彼女に姿を見られたということは、きっと不測の事故が起こったに違いない。
そしてぼくは彼女の助けを借りて、未来に帰る。
帰り際に彼女の記憶を消して——。
「あなたは、これから先——ここよりも過去の世界で、私に出会う。そこで……長くて短いような、不思議な時間を一緒に過ごすの」
しかし、彼女の記憶は完璧に消えたわけではなかった。
ぼくが去った後、彼女はなんらかの方法でタイムトラベル能力を得て、ぼくたちタイムトラベラーが残した痕跡を追い、未来へと飛び続けてきた。
おぼろげな思い出を頼りに、ぼくが彼女のことを覚えていると——再会したときに、ぼくが彼女に気づくと信じて。
飛んだ先の未来で、彼女は出会ったタイムトラベラーたちに声をかける。
「彼はどこにいるのかしら? あなたは、彼……?」と——。
過去人が、タイムトラベルの技術を開発したとは考え難い——が、もしかすると事故に遭ったぼくは、過去の世界に何かしら影響を与えてしまったのかもしれない。
ぼくがそんな推測を巡らせていると、彼女は寂しそうに微笑んだ。
「ふふふ……。あまり、いまのあなたを困らせてはダメよね。素敵な過去が、変わってしまうといけないから」
彼女の体の色が、透けるように薄くなっていく。
まるで幽霊が消えていくように。
その儚げな佇まいに、ぼくの胸がズキンと痛んだ。
「さようなら、いとしい人。過去の世界の私によろしく」
9割がた消えかけた彼女が、別れの言葉を口にした。
「……また会いましょう。あなたの未来で待ってるわ……!」
言い終わったとき、彼女の姿は完全に消え去っていた。
あとに残されたのは、ぼくと、呆然とするカズキ、呑気に寝息を立てる猫だけだった。
猫の寝床になっている植え込みから、甘い香りが漂ってくる。
春の優しい風が、紫色の花を揺らす。
その様子をぼんやり眺めながら、ぼくは彼女との再会の様子を想像する。
いまよりも将来、そしてこの場所より過去の世界。
あの花の香りがする場所で、ぼくたちは出会い、そして別れるだろう——そんな予感がした。
そして遥かな未来。
ぼくを追ってきた彼女と、また出会うであろうことを……。
————————————
[This story is based on the respect for Yasutaka Tsutsui.]
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