[2]かつてのA氏のことを
目を覚ましたA氏は、自分がバスタブのような容器の中に横たわっていることに気づいた。
バスタブの中は薬品臭い黄色の液体で満たされており、A氏の口には呼吸用のマスク型吸引器が付けられていた。
わけのわからない状況に放り込まれ、パニックになりそうなA氏を落ち着かせたのは、バスタブの横に立っていた白衣の老人だった。
「ああ、すまない。びっくりさせてしまったね」
優しい口調でA氏に話しかけてきた老人は、「私のことは
まず、いま目をさましたA氏はクローンであること。
オリジナルのA氏はすでに亡くなっていること。
オリジナルのA氏は不幸な境遇に生まれ、成長してから凄惨な事件に巻き込まれたこと。
博士の所属する研究所は、残されたA氏のDNAデータからクローンを生成し、蘇らせ、基本的な言語能力と、一般常識の知識のみを睡眠学習で植えつけたということ。
博士の一通りの説明を聞き終えると、A氏は尋ねた。
「ぼくは、どんな事件に巻き込まれて、どんな死に方をしたんですか?」
「それは、いまは知らなくていいことだ。一つ言えるのは、あまり良い死に方ではなかったということだ。きみは新しい生を手にれた。いまの生を楽しむことを考えなさい」
博士の返答はにべもない。
A氏はそれをいぶかしく思いつつも、「まあ、この人は自分のためを思ってくれているのだな」と納得する。
「これから、ぼくはなにをしていけばいいのでしょう?」
A氏がそう聞くと、博士は優しそうな微笑みを浮かべ、
「まずは社会復帰の準備だ。奉仕活動を通して、社会性を育んでいこう」と告げた。
A氏が一番最初に行ったのは、動物の世話だった。
人間に捨てられたり、虐待されたペットを収容する施設に案内されたA氏は、そこで動物たちの世話をしたり、新しい里親を探す活動に従事した。
「こんなかわいい動物たちをいじめるなんて……」
ボウガンで撃たれて片足が不自由になった猫を抱きながら、A氏は悲しんだ。
A氏は1年間、その活動に携わった。
彼のはたらきぶりは真面目で、施設の職員たちは口を揃えて彼を称賛した。
「この活動をずっと続けていけたらいいな」
そう思い始めていたA氏のところに、博士がやってきた。
「きみはこの活動を見事に仕事をやりとげた。さあ、次の活動に移ろう」
後ろ髪を引かれながら、動物福祉施設をあとにしたA氏が連れてこられたのは、老人介護施設であった。身寄りがなく、手厚い介護が必要な終末期老人を集めた施設だった。
「次はここで働いてもらう。たいへんな仕事だが、がんばってほしい」
博士の心配そうな表情の理由は、はたらきはじめてからすぐに分かった。
訪ねてくる親族や友人がなく、体の自由がきかない老人たちは、常にストレスを溜め込んでいた。朴訥なA氏は、老人たちの苛立ちをぶつけられる格好の的になった。
A氏は、はじめこそ戸惑ったが、老人たちの孤独や悲しみを理解していくにつれ、彼らに優しく接することができるようになった。
老人たちもA氏に接する態度を和らげ、ついには彼のことを自分たちの孫のように思うようになっていった。
あるとき、A氏と特に親しかった老人が亡くなった。老衰だった。老人は臨終の際でA氏の手を取り、「ありがとう」とつぶやくと、眠るように息を引き取った。
A氏は悲しんだ。
「ぼくは親の顔を知らない。家族がどういうものかが分からなかった。それを教えてくれたのがこの人だった」
そういって泣き崩れるA氏の肩を叩く者があった。博士である。
「きみは十分に役割を果たした。さあ、次の職場に行こう」
次にA氏が連れてこられたのは、孤児院だった。
親兄弟のいない、小さな子供たちを世話するのが彼の仕事だ。
ここでもA氏は懸命に働いた。かつて、A氏は不幸な生まれであったと博士は言った。
「もしかすると、自分もここにいる子供たちのように、孤児であったのかもしれない」
そう思うと、俄然やる気が出てきた。
子供たちはかわいかった。親の顔を知らない子供に、A氏は全力で愛情を注いだ。
「わたし、おおきくなったらお兄ちゃんと結婚する!」
小さな女の子にそう言われると、A氏はうれしくて顔をほころばせた。
そのことを博士にいうと、彼も自分のことのように喜んでいた。
A氏は幸せだった。
そんな彼のもとに、ある日一人の男が訪ねてきた。みすぼらしい、黒っぽい服を着た、不吉な感じのする男だった。
男はA氏にいろいろなことを質問した。クローンとして目を覚ます前の記憶はないのかとか、これまでどんなところで働いていたのかとか、そのときどう思ったのかとか。
「この人は、なぜこんなことを聞くのだろう?」
A氏は不審に思いながらも、男の質問ひとつひとつに、丁寧に答えていった。
「ふむふむ、なるほどね」
男は人懐っこそうな笑みを浮かべながら、何やらしきりにメモをとっていたが、A氏の言うことをあまり聞いていないようだった。
A氏は少し嫌な感じがした。
それから2週間ほど時は流れて。
A氏が孤児院に行くと、院長が入り口のところに立っていた。
院長は高齢の女性で、とても上品で優しく、子供たちにも慕われていた。
A氏もつねづね、「この人がぼくのお母さんだったらいいなぁ」と思っていた。
その院長が、何やら青ざめた顔で、困ったような表情を浮かべて立っている。
「体の調子が悪いのですか?」
A氏がそう尋ねると、院長は「……いいえ」と首を振った。
心配そうなA氏の顔を見ながら、院長は何かを言おうとして飲み込む。
A氏が院長の言葉を待っていると、彼の背後で自動車のブレーキ音が鳴った。
「ここにいたのか!」
孤児院の前に停まった車から降りてきたのは、博士だった。
「面倒なことになった。いますぐ来てくれ」
博士はA氏を車に押し込むと、研究所に向けて走り出した。
研究所に着くと、博士はA氏を何もない部屋に押し込むと、
「ちょっとここで待っていてくれ。すぐに戻る」
と伝え、あたふたと部屋を出て行った。
そのとき、博士の鞄から何か本のようなものが落ちたが、慌てている博士はそれに気づかない。
A氏はあとで博士に渡してあげようと思って、その本を取り上げた。
本は雑誌だった。表紙にはケバケバしい装飾をほどこされた、過激な言葉が並んでいる。
「あ、これは院長さんが嫌ってる雑誌だ。博士もこういうのを読むんだな」
意外に思いながらも好奇心に駆られてA氏が雑誌を開くと、そこには見慣れた建物——動物保護施設、老人医療施設、孤児院——そして鏡を見ればいつもそこにいいる、A氏の写真が載っていた。
「どういうことだろう?」
不審に思って記事の見出しに目を落とす。そこに書かれていたのは……
「“現代に蘇りし連続殺人鬼! 血まみれの過去の現在”……なんだこりゃ!?」
A氏の声がうわずった。殺人鬼? 誰が? ——不吉な予感が脳裏をよぎった。
震える手で、A氏はページをめくる。
「これは、ぼくのことじゃないか……」
記事の中で「殺人鬼」と呼ばれているのは、紛れもなくA氏のことであった。
記事によれば、A氏——正確にはA氏の遺伝子提供者は、極悪非道の
彼は生まれたときから家族がいなかった。捨てられたのだ。
孤児院で育った彼は、施設を出ると資格を取って老人介護施設で働き始めた。
そのころの彼の口癖は、「早く孤児院を出て行くんだ。自由になるんだ」だっという。彼のいた孤児院は、虐待疑惑の絶えないいわくつきの施設だった。
仕事についた彼だったが、やがて職場への不満を溜め込んでいくことになる。
彼が残酷な気晴らし——動物虐待に手を染めるまで、そう時間はかからなかった。彼は近隣の小学校で飼われていた動物たちを、次々と殺していった。あるときは毒を、またあるときは刃物を使って……。
彼の攻撃対象は、やがてか弱い動物から、介護施設の老人へと移っていく。医師にバレないよう、薬の使用量を少しずつ増減させたり、事故を装って老人を階段から突き落としたり……。
彼は狡猾で、心優しい青年を装っていたため、長く司直の目を逃れてきた。しかし、犯行がエスカレートしていくに従い周囲の不審をかい、ついに動かぬ証拠をつきつけられることになった。
彼が手をかけた老人は10人以上にのぼると思われた。
裁判で、彼はきわめて露悪的に振る舞った。その結果、裁判官から下された判決は——死刑。
控訴を放棄した彼は、裁判から1年ほどで絞首台の露と消えた。
しかし、なぜかそんな殺人鬼のクローンが作られ、動物保護施設、老人介護施設を経て、いまは孤児院で働いているという。
「人間の皮をかぶった化け物が我々の日常に入り込んでいるとは、なんとも恐ろしいものである」
A氏のことを本当に恐れているというよりは、むしろ小馬鹿にしたような文章で、その記事は締めくくられていた。
「そんな……嘘だ!」
A氏が雑誌を握りしめて叫んだとき、部屋のドアがノックされた。
博士が帰ってきたのだろう。そうだ、博士にこの記事のことを聞いてみよう——きっと嘘だと言ってくれるはずだ……。
そんな淡い期待を胸にドアを開けると、そこに立っていたのは博士ではなかった。
「おや、偶然会えるなんて、運がいいね」
目の前にいたのは、以前に孤児院を訪ねてきた、あの感じの悪い、みすぼらしい格好の男だった。
「おおう、俺様の会心の記事、読んでくれてるようじゃないか。どうだった?」
まるで今日の天気を話すかのような、気楽な口調で尋ねてくる男に、A氏は鋭い眼差しを向ける。
「おっと、怖え怖え、そんな顔で睨まないでくれよ。殺人鬼に睨まれたら、思わずちびっちまいそうだぜ!」
男は笑顔だった。A氏が目を覚まして以来、一度も目にしたことがないような醜悪な笑顔。
A氏はただただ不快だった。早くこの男に出て行ってほしいと思った。
しかし、どうすればいいのだろう? 彼はただ拳を握りしめてうつむくことしかできない。
「おい、部外者が何をしている!」
A氏を救ったのは、戻ってきた博士の声だった。
「きさま、どういうつもりだ! おおーい、警備員さん! なにやってるんだ、早くこいつをつまみ出して!」
いままでA氏が聞いたことのない、博士の攻撃的な口調だった。
A氏はその切羽詰まった口調から、「あの記事の内容は。まったくのでまかせではないのだろうな」と思う。
わずかも待たず、研究所の警備員がやってきた。怖い顔をした警備員たちが、いまだニヤニヤ笑いを浮かべる男を取り押さえ、どこかへと引きずっていった。
「博士……この記事のことは……」
A氏が尋ねると、博士は眉間に大きなシワを寄せた。A氏にいつも優しく声をかけてくれた口は、緊張で震えていた。
「本当なんですね」
「そうだ。だが、きみが気にする必要はない。死刑になった男ときみは、まったくの別人だ」
A氏は博士のいうことを信じたかった。
しかし、心のそこでは「まったくの別人」という表現に違和感を覚えていた。
「なんで、ぼくを目覚めさせたのですか?」
博士はそれには答えず、ただ首を振った。
「きみのことは我々が責任を持って守る。悪いのだが、しばらくはこの研究所でじっとしていてくれ」
A氏はそれ以上は何も問わず、頷いた。
A氏が亡くなったのは、それから1ヶ月後のことである。
死因は事故だった。
その日、A氏は研究所の中庭で、これから自分はどうしていくべきなのかをとりとめなく考えていた。
そこに、どうやってもぐりこんだのか、また例の雑誌記者の男が現れた。
いやらしいニヤニヤ笑いを顔に貼り付けた男は、A氏に何枚かの写真を見せつけた。
一枚目は、A氏がかわいがっていた、足の不自由な猫の写真だった。
記者は「この怪我はお前がやったんじゃないか?」と言って笑った。
二枚目は、A氏が看取ったあの老人の写真だった。
記者は「またお前が殺したんだろう」とすごんだ。
三枚目は、A氏のお嫁さんになりたいと言っていた、孤児の少女だった。
記者は「この子にお前のことを話したら怖がってたよ」面白そうに言った。
それから記者は、A氏が「世間」でどう思われているかをとうとうと語って聞かせた。
「帰れ!」
A氏が叫んで男を突き飛ばすと、記者は激しく抵抗してもみ合いになった。
その弾みで二人は地面に転がり、記者は腕の骨を折った。
A氏は庭の石で強く頭を打って、そのまま意識が戻らず死亡した。
このとき、A氏は激しく怒っていた。それゆえにもみ合ったときに力が入りすぎていた。結果として、それが彼の命を奪った。
いま、博士は火葬場にいる。
身寄りのないクローン人間であるA氏の骨を受け取るためだ。A氏の骨壷を手渡された博士は、「すっかり小さくなってしまったね」と悲しそうに語りかけた。
「きみには悪いことをしてしまったな……。
我々は自分たちが産み出した、クローン作成と睡眠学習システムの有用性を証明しなければならなかった。
一人の人間を、まっとうな形であげる。その実験対象として選ばれたのが、きみのオリジナルだ。
血も涙もない殺人鬼であっても、元は無垢な子供だ。どのような人間のクローンであっても、しかるべき環境で育てあげれば、まっとうな人間に成長さえられる。我々はそのことを証明しようとした。
身寄りがなく、過酷な幼少期を過ごして凶悪犯罪者になったきみ……いや、きみのオリジナルは——格好の実験対象だったんだよ。
実験対象にすることに、ためらいを感じなかったわけじゃない。
しかし、きみのオリジナルが犯した罪を見た私は「こいつになら、何をやってもいいだろう」と心の底で考えてしまったようだ。
ははは、こんな私こそ正真正銘、血も涙もない男だな」
一人ごちる博士の足元に、風に煽られた新聞が飛ばされてきた。
ゴシップ記事を売りにするその新聞は、あの記者が属する会社が発行しているものだ。
「“クローン人間失敗!! 殺人鬼の凶暴性は生まれつき!?” ……ふんっ!」
一面に躍る扇情的な見出しと、わざとらしく腕にギプスをはめた記者の写真を目にして、博士は顔をしかめる。
「何が失敗なものかよ……。お前らが余計なことをしなければ、彼はあんなことにならずに済んだ。まさに環境の問題じゃないか……」
博士は、かつてのA氏のことを思い出す。
冷酷な殺人鬼ではなく、優しい青年としてこの世に生を受けた一人のクローン人間のことを。
心配そうな顔で猫を抱く姿を。
老人の死に涙した優しさを。
少女に好意を寄せられて、戸惑いながら喜ぶその笑顔を。
すっかり小さくなってしまったA氏を胸に抱え、博士は研究所への帰途に着く。
[了]
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