(8)

 その夜、私は洋菓子屋さんを出て後、家の近くの交番に寄った。警察なんて、一生関わることはないと思っていた。交番のガラス戸はいかにも冷たそうで、私が一人で押し開くには重そうで、どうにもいかずに突っ立っていた。

 すると、中にいた小太りの巡査が私に気付いて、内からガラス戸を開いてくれた。

「どうか、なさいましたか」

私よりも少し背が高いだけのその巡査は、何も答えられない私を見て、ガラス戸を大きく開いた。

「まあ、入りなさいな」

巡査はパイプ椅子私に向け、自身は机を挟んだ向かいの椅子についた。

そういうと彼は、紙コップにポットからお湯を注ぎ、私に差し出した。私は徐にその白湯を受け取る。手の平から、温かさが沁みてくる。そっと、唇に近づける。一口飲み込むと、温度が体に入っていく。

 それと同時に、口の中に残っていたクッキーの香りが、すぅ…と、よみがえった。その一瞬が、私の背中を押した。

「あの、私の」

膝の上で両手を握りしめる。握った拳の方を見つめて、言葉を絞り出す。

「私の付き合っている人が覚醒剤を使っているんです」

こんなにすらすらと言えてなかったもしれない。もっとたどたどしくて、声を出すのに精一杯だったかもしれない。それでもこのとき、ようやく体中の力が抜けたのを覚えている。ずっと張りつめていた何かが解きほぐされた。

私は、ちゃんと彼のことを見つめてあげていなかった。だけど、今なら。

 顔を上げると、巡査は一度深く頷いた。

 彼のことをちゃんと受け止めるということは、彼のした行動すべてを肯定することとは違うだろう。ならば私が本当に彼のためにできることは、彼に、まっとうな人生を送ってもらうことだけだ。きっとこれが、私にできるすべてだ。

 巡査はこの後、親身に、丁寧に私の話を聞いてくれた。ずいぶん脇道にそれた話もした気がするが、それでも耳を傾けてくれた。話し終わった私に巡査は、

「よく頑張ったね」

とだけ声をかけた。巡査に家まで送ってもらったころには、もうこんな時間である。

 カーテンを開くと、そこにはもう朝日が見える。白い光が、部屋に差し込んでくる。地平線はうっすらと黄色い帯を纏っている。クッキーに出会った夜がそのまま、朝を連れてきている。だから、と言うべきか。頬を伝ったものを、今はまだ、涙とは呼ばない。

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