(7)

 天井の柔らかな光が私を照らす。木製の椅子の背もたれに身を任せると、カウンター上のテディベアに目が合った。毛足の長いそれは、首に赤いリボンが結ばれていた。埃も被っていない。毛並みも揃えられている。

しかし、目を凝らせば大切にされているのはテディベアだけではないのが判った。私が今座っている椅子も、小さな汚れ一つない。まとっているのは年期だけのようだ。床も隅々まで乾いたワックスがかけられている。壁は、私が立った時の腰の高さまでは木目調でそこから上はクリーム色の漆喰が塗られている。黒ずみはない。きっとあの女の人が入念に手入れしているのだろう。

焼き菓子の匂いが漂っている。カウンターの向こう側、開け放した扉から彼女が出てくると、その甘い香りの中に仄かに爽やかなレモンの香りが溶け込んできた。彼女は私の前にくると一度しゃがみ、四角いクッキーがのった白いお皿を差し出す。

「すりおろしたレモンの皮を生地に練り込んでいます。どうぞ」

彼女はそれだけ言うと立ち上がり、部屋の奥の螺旋階段をあがって行ってしまった。

 手元のお皿を見ると、一見何の変哲もなさそうな四角いキツネ色のクッキー。だが、その匂いが私の鼻に語りかける。自分たちは、ほんの少し、特別なんだよ、と。鼻先をくすぐるようなレモンの香り。一枚、手に取って口に入れる。さく、と心地よい音を立てて広がる甘味。小さな粒として残ったレモンの皮が、ときたま弾けるように香って飲み込むたびに喉を突き抜ける。あくまでも、甘さと喧嘩することなく。

 私も、こんなにうまく作れていたなら、こんな目に合わなくて済んだのだろうか。彼の腕の痣は、再現ドラマで見る薬物中毒者役の俳優の腕よりも黒く、いくつもの点でできていた。私が、もっと器用に何でもこなせるような、そんな子なら、あんな人と付き合うこともなかったのだろうか。それとも騙されていたのか。初めてできた彼が薬に手をだしていただなんて。悲しいのか悔しいのか遣る瀬無いのか、いろいろが混ざった気持ちが涙となって瞳から零れた。するとそれが、頬を伝ってお皿に落ちた。

 そのとき、ぽさっ、と音がした。見ると、カウンターの上にあったテディベアが床に落ちていた。私は徐に立ち上がり、お皿を椅子の上において、テディベアをそっと拾う。床についたところを払って、さっきまでそれが座っていたところに戻してあげた。私がはたいたところだけ、毛並みが崩れてしまっている。まあ、仕方ないよね。

 しかしそのとき、何かが頭の中を掠めた。見渡せば、くすみや汚れのない空間。毛並みの揃えられたテディベア。そして、レモンクッキー。甘い香りも、爽やかさも、軽い歯応えも、レモン皮の粒感も、喧嘩することなく溶け合ったお菓子。すべてに丁寧が行き届いている。そしてその素朴な丁寧さは、もしかしたら、彼女の、あの笑顔のない彼女の、心が表れているのではないか。よほどこの店を大切にしているのではないか。だとしたら、私に足りなかったのは器用さなんかじゃない。ましてや彼に騙されていたのでもないだろう。

 私が、彼のことをちゃんと見てあげていなかった。向き合っていなかったのだ。

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