(2)

 今となっては、どうやってあの洋菓子屋さんに辿りついたのかは判らない。あの日、暗い暗い道を行く当てもなく方向すら判らないままに、私はただ走っていた。住宅街に入り、街灯も少なくなった辺りでは私を見つめるのは白い三日月くらいだった。

 見渡しても、どこもかしこも堅く戸を閉ざして、明かりをつけてすらいなかった。まるで私を街の全ては拒絶しているかのようだった。いや、そんな時間だったんだから当たり前なのかもしれない。でも、あの時の私からすればそれほど非情なものはなかった。深い深い海底に沈んでいくような感覚だった。

 走っているのか歩いているのか曖昧な足取りで、ひたすら前へと進んでいると、目の前、ずっと向こうの方に窓から漏れるオレンジの光が見えた。暗い夜の中で、その灯かりは柔らかに輝いていた。それはまるで星なんか全然見えないこの都会で唯一の一等星のスピカのようであった。私はあの光に吸い寄せられるようにしてその源となる建物へ向かった。

 その建物は誰かの住居に思えた。近づいてみると、扉に“Clivia”と書かれた木造の看板が掲げられており、ドアノブに“open”の文字が入った横長の木札が掛かっていた。ノブに手を一瞬かけ、押し開く。重たく軋む音と共に扉は開いた。自分の体が通れるかどうかのギリギリの狭さまで開くと、そこから頭だけを出して中の様子を伺った。

 そこは洋菓子屋さんだった。

 ドアのある壁際から、ほぼ部屋の端までショーケースは続いており、その中に大きさも色も形も様々なお菓子たちがいくつかずつ収められていた。暖かい光と甘い香りがお店の中を満たしている。私は、自分が立てる音の全てに敏感に気を払いながら、その空気の中に身体を入れた。もう、何に怖がっているのか判然としなかった。ドアを慎重に閉めると、私はそのドアに寄り掛かったまま床の上に崩れ込んでしまった。息が切れていた。ふくらはぎが悲鳴を上げていた。そんなにも走っていたのだ。私は、そんなにも逃げていたのだ。

「大丈夫ですか?」

 見上げると、カウンターの向こう側で少し驚いたような顔をした女のひとがいた。黒のズボン、真っ白のワイシャツに身を包み、ストレートの髪をポニーテールに束ねた人だった。私は「大丈夫です」と答えようとしたが、口が少しぱくぱくと動いただけで声は出ていなかった。それを見た彼女は、自身の後ろにある開けっ放しのドアの向こうに一度戻り、グラスを持って出てきた。さらに、そのグラスをカウンターに置いてから、彼女はショーケースを周り込んで小走りでこちらに向かって来ると、ドアの横に置いていた背もたれ付きの木の椅子を私のそばに持って来て、椅子の上にあったテディベアを脇に抱え、私に「立てますか?」と手をさしのべた。その手は、オレンジの光をいっぱいにうけていた。

 私は小さく頷き、彼女の手に自分の手を預けて立ち上がった。そのままよろめきつつ椅子に腰をおろすと、彼女は抱えていたテディベアをカウンターに座らせ、代わりに置いたままだったグラスを手に取って私に差し出した。グラスには、少量の氷で冷やされたお水が入っていた。グラスを受け取り、一口飲んだ。爽やかな冷たさが喉を通る。

「ありがとうございます」

小さく言うと、彼女は何も言わずに会釈した。

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