menu 1 パンペルデュ

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 バゲット、つまりフランスパンは、一定の基準を満たしていないと一流のレストランや本場フランスのパン屋さんでは売り物にされない。外見・味も確かにその基準の一つだが、重要なのはその外側の生地の硬さにある。外はパリッと中はふんわり。それがバゲットの基準だ。日本人は苦手なあのバゲットの表面の皮の様な硬い生地はバゲットの命なのだ。バゲットを何の施しもせずに口に入れたことのある人ならお分かりだろうが、バゲットは様々な楽しみを与えてくれる。

 輪切りにしたバゲットを口に入れる。噛んでみれば、バリバリバリバリッと音をたてる。まず噛みきれない。まるで顎の筋肉を鍛える為にあるかのように、とにかく一息に噛みきることは出来ない。しかし、音をたてる程の硬さの皮に包まれた、中の白い部分は、ふぅんわりしている。硬いバリバリと、柔らかいふんわりが口の中で広がる。すると今度は、パン独特の香りが、スッと鼻まで突き抜けてくる。その時、食べた人は「美味しい」と思うのだ。

 しかし、この外はパリッと中はふんわりの基準を満たしていないバゲットはどうなるのだろうか?例えば、作ってから時間が経ってしまったバゲット達は?売り物とならなくなった彼らの行く末は…




 あの店にあたしが入ったのは、先週の水曜日の深夜だった。家に居るのが嫌なあたしは、深夜だけど、何の気無しにふらっと外に出てみたのだった。街が寝静まっていた。灯りは門灯と街灯だけ。静寂が暗闇を包む世界にポツンと一つ、窓からオレンジの明かりが見える小さな家があった。近づいてみると、家のドアノブに "open" と木札があったっけ。あ、お店なのか。そのドアにこれも木製の看板で"Clivia"と書いてあったから、それがお店の名前だと思う。窓を覗くと、オレンジの光に包まれたお店のショーケースにお菓子がずらりと並んでいた。お、スイーツショップか。他に入るところも無いし、コンビニに行くより面白いかも。そんな具合で、あたしは店に入ってみることにしたのだった。ドアノブをゆっくりと押して、顔だけドアから覗かせた。

「こばんはぁ〜…」

申し訳程度に挨拶をしたが、中から声は聞こえなかった。さらにドアを開けて、一歩入ってみることにした。ドアを押すと大きく軋んで音をたてて開くものだから、何故かあたしの方がびっくりしてしまった。そろりそろりと足を伸ばしてまず一歩。すると店の奥の螺旋階段から人が降りてきた。女の人だった。いや、女の子だったのかも。あたしより年上なのか、年下なのか曖昧で見当がつかない人だった。

「いらっしゃいませ」

女の人が柔らかに放った言葉は、どうしてかあたしを店の中に完全に導き、いつしか

「どうも…」

なんて返事させていた。

 女の人は、セミロングのさらさらした髪をポニーテールにした人だった。女の人はショーケースの向こう側にまわり、布巾を取ってまた階段の上へ消えて行った。

その、ショーケースである。モンブラン、ショートケーキ、シュークリーム、フルーツタルトといったメジャーなお菓子から、あたしが見たことないようなお菓子まで20種類くらいが並べられていた。スイーツショップなんて久しぶりだったことを、そのショーケースを見て思い出した。入学して1年経とうとしているのに高校に慣れることもできず、さらに家にも居たくない。暗い中を手探りで進むしかない様な生活のお陰で、甘い物なんて頭の中から消えていたようだった。何か買おうかな。でもこんなにあったら目移りしちゃうな。

まじまじとショーケースに顔を近づけていると、

「当店の二階はカフェになっています。今は貴方より他にお客様もいらっしゃりませんし、ごゆっくりなさっては如何でしょう?」

なんて急に横から女の人に声をかけられて驚いた。声をかけられるまでそこに人がいる気配が感じられなかったのだから。

「あ、はい」

なんだか女の人の空気感に乗せられたようだった。

 女の人に連れられて階段を上がると、確かにそこはカフェになっていた。木目調の壁や床。床よりも明るい色の木製テーブルと椅子。見上げれば、オレンジの光を放つ蛍光灯。テーブルのメモスタンドにメニューが書かれていた。

「お決まりになったら、お呼び出し下さい」

女の人はそう言ってテーブルから離れていった。

 不思議な人だ。年齢が曖昧だし、すぐそこに居る気配がないし、足音もしない。わかるのは、女の人って事だけ。声は柔らかくて優しいのに、さっきから全く笑わない。

 頭を傾げつつも、すぐそばのテーブルに着いた。メニューを眺める。アイスコーヒー、紅茶、果汁100%ジュースが数種、レモネード。飲み物はそれだけだ。お菓子は…メモ用紙5枚ほどに渡って書かれたそれは、ショーケースに並んでいるより沢山の種類が書かれていた。

 ふと、一つのお菓子の名前が目に入った。… …パンペルデュ… …?パンって、お菓子になるの?ラスクみたいなものだろうか。辺りを見渡すと、女の人は隣のテーブルを拭いていたから、

「すみません、パンペルデュって、何ですか?」

すると、女の人はゆっくりとあたしの方を向いた。

「パンペルデュとは所謂フレンチトーストのことです。当店では軽食の一つとして出させていただいております」

ふーん。軽く納得して、取り敢えずそれを頼んでみた。

 フレンチトーストなんて、久しぶりだった。昔は、お母さんがよく作ってくれたけど、最近はめっきり作ってくれることがなくなっていた。… 昔は、良かったな…。

 しばらくすると、バターの焼ける香りがしてきた。香りに誘われて顔を上げると、ちょうど女の人がお皿を持って階段を上がってきているところだった。

「こちらがパンペルデュでございます」

目の前に置かれた皿の中には、アタシが知ってる食パンのフレンチトーストでは無かった。

 そこには、食パンではなく、輪切りにされたフランスパンで作られたフレンチトーストがあった。噂には聞いたことがあるが、これがあのフランスパンのフレンチトーストか…なんて、呆けた事を考えていた。お母さんが作ってくれたフレンチトーストも、食パンで作られていた。だから、巷で話題のフランスパンのフレンチトーストは食べたことがなかった。

「ごゆっくりどうぞ」

そう言って去って行く女の人を、アタシは呼び止めた。

「あの… …どうして、フランスパンでフレンチトーストが作られるんですか?フレンチトーストなのに、どうしてトーストじゃないの?」

女の人は、じっとアタシを見て、それからテーブルの上のフレンチトーストを見た。またあたしの方を見ると、

「冷めると勿体無いですから、お早めにお召し上がり下さい」

とだけ言って階段を降りて行ったのだった。

 仕方ないから、取り敢えず食べる事にした。目の前フランスパン版フレンチトーストをナイフできってから、口に入れる。

口の中で広がるバターとほのかなシナモンの香り…甘すぎず、卵も牛乳も主張し過ぎない、家庭のどこにでもある材料が最高に調和したときだけ現れる、素朴で優しい味…

「うそ…」

この味って…

一口、また一口と口に入れては噛みしめる味。涙が頬を伝っていた。


 小さい頃は、よく両親がフレンチトーストを作ってくれた。休日の朝、起きるとバターの香りがして、リビングに行くとこんがり焼けたフレンチトーストが、サラダの小鉢とセットでテーブルに置かれていた。牛乳と卵の分量はお父さんが調節して、お母さんがフライパンでパンを焼いていた。お父さんが、『これじゃないと美味しくないんだ』なんて言って決めた分量で作られた、お母さんが丹精込めて焼いたフレンチトースト。あのときが一番、幸せだった。もう、あのフレンチトーストは食べれない。5年前、お父さんはあたしたちの家を出て行ったから。

 考え方の違い。それが原因だとお母さんからもお父さんからも説明された。詳しいことは、二人とも隠したがった。あたしが子供だから?二人に何もしてあげられないから?だけどあたしも何も聞かなかった。聞けなかった。二人ともボロボロになるまで言い争って、二人とも別々に頭を抱えて座り込んでいた。同じ家の中にいるのに二人の間には大きな隔たりがあった。そうしてやっぱりあたしは、苦しそうで、辛そうで、今にも崩れそうな二人に結局何もしてあげられなかったのだ。

言い争っていた二人は、そのうち口を利くのも稀になって、フレンチトーストも作らなくなって、お父さんが仕事を言い訳に家に帰らなくなって、最後にはお父さんが家を出て行った。それ以来、食べたくても食べられなかった。

「どうして…どうして?あの黄金分量とおんなじ味…」

涙が頬を伝う。

「パンペルデュの味の大部分がパンを漬け込む卵液で決まります。お客様に合うかと思って作らせていただきました」

牛乳と卵の味、バターの香り。パンはフランスパンなのに、同じあのフレンチトーストの味。お母さんとお父さんの味。あたしの、大好きな味。みんな一緒で食べた、世界一の味。

一口食べては涙をこぼし、一口食べては嗚咽をもらし、なんとか食べるあたしのそばに、女の人はずっと、唯、ずっと立っていた。お父さんとお母さんのフレンチトーストにそっくりで、でも食感だけが少しだけ新しい。フランスパンの内側の白い部分は食パンよりも柔らかく、外側の皮は薄くて少し硬い。これまでと同じなのに、ちょっと違う。手探りの暗い世界には、一筋の光が差し込んできた。

やっとの思いで食べ終わったアタシは代金を払うとすぐに店を出て家に向かった。最初は早足だったけど、家に着く頃には走り過ぎて息があがっていた。勢いよくドアを開けて足音をたてながらリビングまで行った。まだ、お母さんは起きているはず。リビングのソファに座るその姿を見つけると、あがったままの息を整えることを忘れてお母さんに叫んだ。

「フレンチトースト!フレンチトーストまた作ってよ!お父さんとつくってよ!やっぱり三人一緒じゃなきゃ…」

「ちょっと黙って」

お母さんはアタシの言葉を遮った。さっきお店で散々泣いたのにまた目の前が滲んで鼻の頭が熱くなる。

「ねぇ、お母さん!」

もう何もできないなんて嫌なの。

「お父さんと何があったかなんて知らないし、知っても分かんないかもしれないけど、だけど、お母さん、あたしにとっては二人とも家族なんだよお父さんも、お母さんも、どっちも大切な家族なんだよ」

二人のために何かしてあげるなんてできなかったけど、これからもできないのかもしれないけれど…少なくともあたしの気持ちを伝えることはできるから。それならできるってわかったから。

「うるさいって言ってるでしょうが」

お母さんは強く言い放った。少しため息をつき、机に広げた家計簿を見ている。右手は机の上に置いたまま左手をこめかみに当てて、大きくため息をついた。

「ああもう、今忙しいのよ。またあの人と暮らすことになったんだから…あの人急がば回れって言葉知らないのかしら…あんたもあの人の引越し準備、手伝いなさいよ?あの人とあたしのフレンチトースト食べたいならね。あ、今度作る時は盛り付け任せるから。三人で、フレンチトースト作りましょ…!」

ちょっと顔を赤く染めるお母さんを見て、あたしは思わず抱きついた。涙と鼻水でくしゃくしゃになったあたしを、お母さんはずっと抱きしめてくれていた。

 こうやって一日に何度も何度も泣くなんて久しぶりだったと、今思い返している。また、幸せな日々が来る。湧き立つ思いとともに、お父さんとお母さんのフレンチトーストを盛り付けている。フレンチトースト?ううん、パンペルデュ。だって今日はあたしの提案でフランスパンで作ることになったから。

「出来たよぉ〜!」

ほんのちょっと、声を張って言った。




 作られて日が経ってしまったバゲットの行く末は、フレンチトースト、いや、パンペルデュだということは、発祥地フランスでは常識である。パンペルデュの他に、ラスクや、パン粉など、いろんなものに化けてしまう。因みに、フランスで出来たパンペルデュがアメリカに渡り、フレンチトーストと名付けられたようだ。なにせ、アメリカではパンペルデュは食パンで作るのだから。

 さらに、パンペルデュとはフランス語で『ダメになったパン』という意味らしい。いやはや、たとえ"ダメになったパン"でも、こんなに美味しくなるのだから畏ろしい。あの、パリッとふんわりの出来たてバゲットもいいが、パンペルデュも中々捨てがたい。どんなに"ダメ"になっても、バゲットはバゲット。美味しく生まれ変われるのだ。

 さあ、パンペルデュ、食べたくなってきたでしょ?

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