すみません

 すみません。

 

 

 これは私が大きくなるにつれてよく口にするようになった言葉だ。

 口癖だ。

 道すがら肩がぶつかったとき、仕事でミスをしたとき、小銭をレジ前でばらまいて後ろの人に迷惑をかけたとき、相手が悪くても互いに矛を収めなければならないとき。

 いつもこの言葉を使っている。いいや、この言葉に逃げているのだ。

 すみません。

 こう言っておけば、どうにかなった。いいや、これも正しくはない。正確には『私』を殺してきたのだ。『私』という存在を切り売りすることで、社会的な私を守ってきたのだ。

 私はきっと『私』が大嫌いなのだ。

『私』は人に譲ることが唯一の正解だと信じている。

 思考停止している。

 それでも私は『私』のことを裏切れない。

 彼女は『私』の味方であるからだ。どんな時も裏切らない味方。必ず足を引っ張る味方。私のことを世界で一番大切にしたいと思っている味方。『私』という自己のことを唾棄すべき存在だと確信している味方だ。

 ならば私が『私』を大切にしなければならない。

 どんなに足を引っ張ろうとも私が『私』である以上、誰よりも信用できるが誰よりも信頼できない奴だろうとも、私が『私』を守らなければならないのだ。

 社会というやつと喧嘩してでも守らなければならないものだ。

 そういえば最近世の中に馴染みだした言葉があった。

 ワークライフバランスってやつだ。

 お仕事するためにも、プライベートを充実させるにしてもバランスが大事なのだ。

 だから、『私』を守るために、私が今回ババを引こう。

 今まで苦労をかけさせたのだから、たまには私に良いカッコさせてもらう。

 すみません、という言葉はこういう時に使うのだと教えてやるのだ。

 「すみません。今月いっぱいで辞めさせていただきます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る