男男男


 あたしは変だ。世間一般から見ても、生物学的に考えても。それを理解しているゆえにそれを隠して生きている。

よって、後ろ指を指されることはない。

ただ、どこか後ろめたくはあるけども。





雨上がりの朝。夜明け近くまでこの地域を覆っていた雨雲は綺麗さっぱり消えていて、今は澄み切った青空に朝から元気な太陽が見えている。放たれた日差しが、雨雲が若葉に残していった水滴をキラキラと輝かせている。カタツムリが水滴が蒸発してしまわぬうち享受しようと、小さな体を一生懸命動かしている。それはなんだか可愛らしい仕草だった。

今日は、なんだか良い日になりそうだ。

年子の妹と共に高校へと向かう。

教室内では、可もなく不可もなくといった立ち位置だ。妙なしがらみも、面倒ないざこざもない今のクラスは、みんな分け隔てなく仲が良い。ここではどんな立ち位置でもそれぞれ楽しんで日常を送っている。人見知りで控え目なあたしでさえも満足しているのだから間違いない。

「今日の放課後暇?」

 友人が連れ立って僕の机に集まる。話を聞くと、ゲームセンターに遊びにいくから一緒に行こうということだった。しかし、あたしには後輩であり、友人である宗太の誘いを用事があるからと、やんわり断った。

そう。今の生活に不満があるとするならば、学校の外にある。





三か月前、あたしはいつものように身支度をして出かけた。出かけた先は、町役場にある大きな広場。そこは休日、年端もいかない子供たちの嬉々として遊ぶ声が溢れ返る憩いの場となっている。到着すると、雲一つない晴天のおかげでいつも以上に子供たちが元気よく笑顔を振り撒きながら走り回っていた。時折、派手に転んだりして心配になったりする子供もいた。だが当人はというと、心配無用とでも言うように立ち上がり再び友人を追い掛け始める。

心配損だったあたしは、腰に手を当て、安心の吐息を吐き思う。元気なことはよいことだ。このまま病気一つしないで野でも山でも走りまわって過ごして欲しい。昔の自分みたいにインドア派と決め込んで、手足が平均よりも細くなってしまわないように。

あたしはベンチに腰掛け、ハードカバーの書籍を開いた。青春小説を読み進めていくと次第に主人公の女性に自分を重ねあわせてまるで自分が物語の登場人物であると錯覚していく。それから、それが現実であるように現実と空想の境界が薄ぼけていく。

隣に誰か腰掛けたことにより一時現実に引き戻されたが、すぐにまた物語へと意識は戻っていく。

「こんにちは」

まさか、この人物の挨拶が自分に向けられているものだとは一切思わず、そのまま続けていると肩を叩かれた。

意識を強制的に現実へと戻される。そして、ダメ押しと言わんばかりにもう一度口を開かれる。

「こんにちは」

驚きのあまりベンチから数センチ浮き上がる。恐る恐る顔を上げると、一見女性と見違えてしまいそうなえらい優男がそこにいた。テーラードジャケットに細身のジーンズ、胸元には控えめなネックレスという綺麗な身だしなみをしていた。

彼から受ける印象は、都会の洒落たお兄さんだった。対して自分は、せいぜい田舎ではダサくない程度の垢抜けないものだろう。

「こ、こんにちは」

あたしはなにかしてしまっただろうか。そうでもなければこのような人物に話しかけられることがない。一度そう考えてしまうと、坂から転がり落ちるドングリのように歯止めが効かなくなってしまう。身に覚えはないが、もしそうだとしたら謝らなければ。そのような気持ちがあたしのなかで大きくなり、駆り立てる。

あたしは、申し訳なさそうに続ける。

「すみません。あたしは何かしてしまいましたか?」

「いや、大した理由はないんだが――」

篠原と名乗る男性は、表情を緩める。それは、あたしでさえ胸が締め付けられそうなものだった。

「君は毎週ここで本呼んでいるね。それがなんだかとても気になってね」

「はあ、そうなんですか」

この時「あたしが何かしたわけではないんだ」とホッと胸を撫で下ろしていた。

「私は、篠原真琴という」

 突然自己紹介をされ、戸惑う。必死に体裁を整え応える。

「あ、えと、あたしはヒカリといいます」

あたしたちはこの後、篠原さんがあたしより一つ年上なことや広場にはだいぶ年の離れた弟と遊びに来る等の他愛もないお喋りをし、別れた。

まさか、これから毎週この場所で出会うことになるとは、この時は思いもしなかった。





篠原さんと出会ったその日、もう一つ大きな出会いをしていた。あたし自身はそれに気付くことはなかったが。

広場から真っ直ぐ家に帰ると、妹が友人数名を連れ立って自室へと向かっている場面に遭遇した。

「あ、お、お姉ちゃん。おかえりー」

不自然な笑顔を作った妹の背中には級友と思われる数人の男性と女性の顔が覗いて見えた。

彼らの脇を通り二階の自室に向かおうとする際、男性の一人と肩がぶつかった。

「すみません」

男性へと向き直し、軽く頭を下げる。

「いえ、気にしないでください。自分が邪魔なところにつっ立てるのが悪いんすから」

その男性は、短髪でガタイがよく、あたしの頭二つ分は大きかった。カラカラと爽やかに笑いかけるその姿は、まさにスポーツマンを擬人化したような風貌の持つ主だった。

その日、あたしたちの間に交わされた会話は他人行儀のこれだけだった。その日から何度も我が家へお邪魔してくるようになった。妹に名前を訊くと佐々木宗太というらしい。妹に気があるのだろうと思い野次馬心で妹を弄って楽しんでいると、よく妹にそれはそれは怪訝な顔をされてしまった。





そして、事は一週間前に遡る。

今だから言える。あたしは、楽観的過ぎた。





その日、午前授業で天気も良かった。休日しか広場に行かないが、気分が向いたあたしはいつものように広場へ出かけるために身支度をしていた。篠原さんと出会ってから、あたしは広場に本を持っていくのを止めた。最初の二、三回は持っていっていたが毎回出会うものだから本を読む暇がなくなってしまった。だが、引っ込み思案やその他もろもろの諸事情があるあたしが変に気を使わないで接することができる人物との会話はとても面白いのでとくに嫌だとか、うんざりだとかは思わなかった。

けれども、今日は会うことはないだろう。あの時とは違う青春ものの文庫本を手に取り、広場へ向かった。

広場へ向かう途中で信号が青へと変わるのを待っていると、向かいに宗太くんが歩いているのが見えた。学校帰りなのだろう、真っ黒の学生服キツそうに着ていた。あちらもあたしに気がついたようで、大きく手を振ってきた。

信号が青に変わり、横断する。宗太くんはそこで待っていた。

「こんにちは、宗太くん」

あたしがそう挨拶すると宗太くんはどこぞの兵隊よろしくといった風に体を強張らせた。

「ヒカリ先輩おはようございます!」

厳しい運動部特有の先輩後輩関係が生んだ悪癖なのか、宗太くんの張り上げた声は周囲数十メーターには響き渡った。

「そんなに緊張しなくてもいいですよ」

「はい!」

宗太くんには、あたしの言葉が届いていているのかと疑いたくなった。

「宗太くんは、これからどこか出かけるの?」

 少しでも緊張を解いてあげようと世間話を始める。

「いえ、散歩していただけです。ヒカリ先輩は?」

「これから役所近くにある広場に向かおうと思ってます」

宗太くんは、しばし考え込む。

「それ、自分が行っても大丈夫ですか?」

もともと待ち合わせをしたりしているわけではないので、問題はない。ただ、あたしが本を読むためなので来ても楽しくないと思う。

「大丈夫だけど、特に動くわけじゃないし楽しくないと思うよ?

「……もしかして彼氏さんと待ち合わせしてらえいしますか?」

宗太くんの顔には「やってしまった」という感情が滲み出していた。実際、そんなことは決してありえないので、あたしは思わず「それはありえないよ」と笑い飛ばした。彼は、安堵したように肩をおろした。

それからあたし達は談笑しながら広場へと歩き始めた。

公園に到着すると、いつものベンチには篠原さんが座ってあたしを待っていた。篠原さんの隣には、幾度か顔を合わせた五つほどの男の子がいた。弟さんがあたしのことを見つけ声をあげると、続くように篠原さんも片手を挙げた。宗太くんを連れて篠原さんのもとへ歩み寄ると、篠原さんは首を捻った。

「彼はどちらさまかな?」

宗太くんをあたしの脇に移動させ、妹の友人であることを説明した。

説明を終えると篠原さんは、宗太くんに手を差し出した。

「どうもはじめまして。これからも会うことがあるかもしれないから一つよろしく」

宗太くんはそれに応える。

「いえ、こちらこそよろしくお願いします」

二人の間に握手が交わされる。それはやけに長い間交わされた。あたしが「おねえちゃーん」とじゃれてきた弟さんと遊んでいても、まだまだ終わりそうになかった。

「いつまでやってるの?」

あたしが弟さんをお人形さんのように手足を動かし、呆れたとでも言いたげな格好をさせて訴えた。

二人は、引っ込みがつかなくなっていた戦いにようやく幕を下ろし、手をほどいた。二人の手には、それぞれ互いの手形がくっきりとみみず腫れのように痛々しく残っていた。

「なにやってんだか」

そう漏らすと、二人は手を擦りながら声を合わせる。

「負けられない戦いがあるんだ」

これは仲が良いということなのだろうか。あたしは、よく分からず弟さんの両手を上げ下げして遊んだ。

しばらく弟さんと広場と遊んでから、ベンチに帰ってみると二人はなんだか険しい表情をしていた。

なんだかお世辞にもいい雰囲気とは言えなかった。あたしからしてみれば気の良い二人なので放置していても大丈夫だろうと楽観的に考えてしまったのがいけなかっただろうか。

「二人ともどうしたの?」

篠原さんが答える。

「いや、ちょっと気が合い過ぎたって感じかな」

それから弟さんに「そろそろお昼時だから帰りなさい」と言って、帰らせた。

弟さんが元気よく去って行ったのを見届けると宗太くんが話し始める。

「さっきまで色々と話してたんすよ。いくら頑張ってアピールしても鈍いので相手になってくれない女の子がいるって」

篠原さんが続ける。

「そうだな――直球、変化球。全て空振られた。本当にここまで人の好意というものに気付かない人がいるのかと思ったよ。でも惚れた弱み、そこが良いと思ってしまう自分がいる」

初対面の男同士が恋の話で盛り上げるというのは構図的に華はないかな。――しかし、その女性たちは凄いな。こんな競争率が高そうな人らに言い寄られているというのに、その好意に気付かないとは。その魔性ぶり、一度ご教授お願いしたいものだ。さぞかし男性の心理について深いところまで理解しているのだろう。

「それで、その女性とは一体どんな人なんですか?」

溢れ出る野次馬心からそう尋ねると、二人は同じように湧き出た溜息を漏らした。

どうしてそのような態度を取られるのか分からずきょとんとする。弟さんで落ち着こうと探すけれど、もうその場にはいなかった。

宗太くんが呆れたように口にする。

「それはヒカリ先輩のことです」

「え?」と思い、篠原さんに目を遣る。すると、篠原さんは唇を緩め、言う。

「私が好意を寄せているのは、貴女だ」

不意に脳内に衝撃が走った。でも、何が何だか分からない。必死に原因を捜すけど、頭がうまく働かない。いや、分かってはいる。ただ、必死に目を背けていた。

けれど現実は優しくはしてくれない。

どちらが言ったのか聞き取れなかったが、確かに言われる。

「一週間後、この公園で返事を聞かせてください」

そう述べ、二人はその場を去った。

その場に残されたあたしは、頭を抱える。

二人から告白されたことが頭の中をグルグルと駆けまわる。まるで乗り物酔いをしたかのように足もとがおぼつかない。それが収まってくると、もう一つの、胸にズキンとくるような痛みを感じた。それはどうしようもないことだった。どんなにあたしのことを好いてくれていようが、その好意を受け入れるわけにはいかない。それをしたら、裏切ることになる。いや、もう嘘はついているけど。

 あたしは――いや、僕は男だから。





本日、期限の一週間目。

毎日毎日、頭を抱えて悩んだけれど一向に答えは出なかった。

もちろんどちらとも付き合うことはできない。そうだというのにどちらとも以前の関係性を保ちたいと考えている。正体を明かすなんてもっての外だ。

我ながら虫の良い話だ。こんな恰好で外を出歩かなければ、男だとバレないことに多少の優越感になど浸らなければこんなことにはならなかった。そうだというのにいまだに僕は、僕自身が可愛いらしい。正体を明かして頭を下げれば、いくら恨まれようとそれで済む話だというのに。

まるで僕は、いくら近づけど反発して距離の縮まらない磁石のようだ。本心では近づきたいといくら思っていても、体裁を気にしなければならないこととの二律背反が起こっている。決して近づくことができない二つのものは、無理を通せば道理が引っ込むようにどちらかが引かなければ永遠に終わらない。

悩み切り疲れ切った僕は、なんだかもうどうにでもなれと思っていた。そのせいか目に見えるもの全て、ありのままの姿に見えた。水滴は綺麗だし、かたつむりは可愛らしい。そんなものを朝から突きつけられたら、良い日になってしまえそうな気がしてしまう。そんなことは決してありえないと理解しているのに。

妹が僕の顔を覗き込む。目を細め、まるで睨んでいるようだ。いや、睨んでいる。力無く妹と目を合わせていると、なんだか居心地が悪くなってきた。目を逸らすと、妹は両手を僕の頬に押し当て無理矢理視線を合わせる。頬を思い切り摘まみ上げられた。

とても痛かった。だが声は上げなかった。声を上げたら、今まで苦労をかけさせてしまっていた妹に失礼な気がした。

摘まみ上げられたまま「ごめん」と、短く、とてもか細い声で口にした。

妹は摘まんでいる指に力をさらに加える。

「あやまんな」

妹がパッと指を離し、自慢の長髪を風になびかせながら踵を返す。

「断るんでしょ?」

やけに通る声が響く。妹の背中が頼もしく見えた。

「うん」

 妹がこちらを向き直す。胸に手を添えて。

「じゃあ、このあたしが手伝ってやるよ」

振り向いた妹の顔は、目を細め、いたずらっぽく笑っていた。

「もう女装しないって約束したらね」





妹が言う断り方はこうだ。

放課後の学校で妹から制服を借り、呼びだした宗太くんを断る。もしもの場合に備えて、ジャージを纏った妹が傍らに備えるらしい。本人との約束と違えるが、妹曰く「それらしい理由を適当に言えばなんとかなる」らしい。それからその格好のまま一度自宅へ帰り、いつもの格好へと着替え、広場へ向かい篠原さんとのお付き合いを断る。もしものときに備え、宗太くんの時と同じように傍らに妹が備える。

僕一人でも大丈夫だと最初は断ったのだが、妹曰く「人間、何かを我慢していると自然と心の中で何かが燻ぶりだす。そして自分を否定された時に一気に燃え上がる」らしい。人間関係において良くも悪くも経験豊富らしかった。経験に裏付けされた助言は、妙にストンと呑み込めた。それでも彼らが何かするとは思えはしなかった。むしろ何かしてしまいそうなのは僕だ。それも妹の計算に入っていそうな気がするが。

放課後の掃除が終わり、妹の教室へ向かう。

妹は、トイレでもう着替え終わっていたのかジャージ姿だった。僕を見かけるとすぐに駆け寄って来た。もう宗太くんを待たせているらしく、早く着替えなければならないらしい。

外にある深い茂みで、手渡された袋の中に入っていた妹の制服に着替え、簡単な化粧を施す。それからいつものようにカツラを被る。鏡台がないので妹に「どこか変なじゃないか?」と尋ねた。「それは自慢か」と睨まられた。

あとは断るだけだと思うと、胸にずしりと鉛が乗っかったように重くなった。気付けばそれは手足にも同じことが言えた。やらなければいけないということは重々理解しているし、それが関わった全ての人のためということも理解している。でも、やはり一歩踏み出せない。怖いんだ。

妹があたしの背中を強く平手で叩く。

前傾姿勢で背中を擦りながら、横の妹に目を遣る。

妹も平手打ちなんて慣れない真似をしたせいか、掌を必死に左右に振っていた。

「大丈夫?」

心配して声をかける。そうしたらもう一発、平手が飛んできた。

妹が怒気をみなぎらせる。

「今日一日は心配なんてしてる暇ないんだからしっかりする!」

あたしは妹みたいに、痛みに耐えているせいで声を出すことができなかったので何度も必死に頷いた。

妹が僕の手を引く。

「ほらいくよ」

引かれるまま黙ってついていく。妹の方が男らしい。なんだか神様はあたしと妹の性別を間違って逆にしてしまったのではないだろうか。もし、そうだったなら性別を変えろとは言わないが苦労をかけさせた妹には良い人生を歩んで欲しい。苦労をかけさせた本人が言うことではないことだろうけど。

宗太くんとの約束の場所に到着する。そこは校舎裏。放課後の時間帯は、後者で日が当らなくなり日が長い夏でも薄暗くなる。近くには今では使われなくなった焼却炉があり、その周りを手入れされなくなった雑草や枝が自由気ままに伸び伸びと育っている。そんな寂しい風景の中に、ポツンとそこだけ別の色紙が張られたように宗太くんが待っていた。

それまで手を引いていた妹があたしの手を離し、さっきとは違い優しくポンと背中を押した。

一人でも大丈夫だと思っていたが妹の予想通り、また僕の予想とは外れて、必死に脳内で断る練習を何度も反復していたというのにどうしていいのか分からなくなってしまった。妹に助けてと視線を送ったがが合わしてくれなかった。宗太くんの方に目を遣るとあたしのことを直立不動で穴でも空きそうなほどに見つめられていた。

「あ、えとお久しぶりですね。宗太くん」

宗太くんにできるだけ自然に笑いかける。多少は引きつったかもしれないが、できるだけ以前のような関係性を演出したかった。

「はい。お久しぶりです!」

深く速い運動部特有の礼をされる。

騙しているあたしからすれば、その行為はあたしの心を強く強く、とても強く締め付ける。胸苦しさが表に出てしまわないように笑顔をより作り込む。

「……お返事しに来ました」

 その一言を必死で搾り出した。

宗太くんは、俯き加減なあたしとは違い真っ直ぐあたしを見つめていた。

「はい」

そんなに真っ直ぐあたしを見つめないで。そんなに期待しないで。何一つとして望むものは与えることはできないから。

頭を下げる。

「ごめんなさい。宗太くんとは付き合えません」

頭を上げたくない。顔を見たくない。情けない。自分が引き起こしたことなのに何にもできない。

「顔上げてください。ヒカリ先輩」

上げられない。

「お願いです、上げてください。上げてくれないと俺が惨めになります。大丈夫です、分かってました。ヒカリ先輩が自分にそんな気がないことぐらい」

 あの真っ直ぐな視線は期待したものじゃなかったんだ。全て諦めた上であたしと向かいあったんだ。申し訳ない。本当に申し訳ない。

あたしが顔を上げると、宗太くんはどこか安心したように続ける。

「どうして俺じゃ駄目だったんですか? 理由だけ教えてください」

言えない。それだけは絶対に言えない。

「どんなに酷い理由でも受け止めます」

カラカラと笑う宗太くんは、どんな理由でも受け止めてくれそうな気がした。

「――それは」

「はいはい。そこまで」

言いかけたとみるや、妹があたしたちの間に割り込んだ。妹が宗太くんに両手を合わせて謝る。

「ごめん。これ以上は待てない」

 妹が自身の腕時計を指差し、あたしの手を引く。

「今度会えた時に好きなだけ聞いて」

そう宗太くんに伝え、連れ去られた。こうして広場へ向かうために一時帰路につく。

ちらりと後方へ目を遣ると、もう二度と会うことはない宗太くんが大きく手を振っていた。





帰宅中、あたしらは一言も話さなかった。間違って事を言ってしまいそうになったことが気掛かりで、とてもあたしから話しかけることができなかった。まるで親に必死でイタズラを隠す子供と同じだった。

家に到着するやいなや玄関で妹が尖らせる。

「言おうとしたでしょ?」

 黙って頷いた。

 妹があたしの胸ぐらに掴む掛かる。

「いい? これはお兄ちゃん一人の問題じゃないの。あたしの沽券にも関わってくるの。今までは誰にも招待がバレそうになかったから多めに見てたけど今回は別。だからこそ、もう女装はしないって言質取ってまで協力してあげてるんだから。そこんとこちゃんと分かってる?」

 あたしは目を逸らし、俯く。

「ごめん。もう大丈夫だから」

 妹が手を緩め、制服のシワを伸ばす。

「さっさと着替えてくる。制服姿じゃ篠原っていう人にどこの学校かバレるんだから」

 妹が促すと同時にあたしは、自室へ向かいいつものよそ行きの格好に急いで着替える。もちろん脱いだ妹の制服は、絶対に新しくシワができないようにハンガーに掛ける。

廊下に出ると、同じく私服へと着替えた妹がジーパンにシャツというラフな格好で僕を待っていた。

「よし。いくわよ」

 妹の一言であたしらは公園へと歩き始めた。





広場に近づくと、今日も子供たちの甲高い声が聞こえきた。その声の大変は学校帰りの小学生や幼稚園が終わり母親と立ち寄った園児たちが大半を占めるだろう。もうすぐ五時になるというのに、季節が移り変わっているせいかまだ陽は高いところにあった。カラスの体内時計が狂わされているせいか、帰路についている小学生や園児、保護者達とはあまりすれ違わなかった。

広場に到着し、一望すると予想と違わず年端も行かない子たちが駆け回っていた。園児の保護者達はそれぞれの場所に各自分かれて会話を弾ませていた。珍しく子を迎えに来ていたのかお父さんがとても肩身が狭そうに愛想笑いを浮かべていた。そのグループから少し離れた長椅子にに篠原さんが腰をかけていた。脇には弟さんがいて、缶ジュースを喉に通していた。

篠原さんは、あたしが到着したことに気付き、立ち上がり片手を振った。

あたしが篠原さんのもとへ歩く。今まで先行していた妹は、僕の後ろ三歩後ろを歩き始めた。

篠原さんの前まで辿り着くと、弟さんがロケットのようにあたしへ突撃してきた。

「おねえちゃんあそぼー」

 あたしは、それを受け止め、イイコイイコしてなだめる。それから篠原さんに向けて会釈をする。篠原さんは笑顔で応える。

篠原さんがこちらへ歩み寄る。片手を妹へと向ける。

「こちらはどちら様ですか?」

 妹が僕と篠原さんの間に割り込むように前へ出る。

「どうも初めまして。西野ヒカリの妹をしております、西野小夜子と申します。どうぞお見知りおきを」

 そして、一礼。

初めて見る妹のえらく杓子定規な態度だった。まるで一歩崖を挟んでいるようだった。

それでも篠原さんは、笑顔を絶やさなかった。

「そうなんですか。私は篠原真琴と申します。これからもよろしくお願いします」

 妹に手を差し伸べた。

それを見てあたしは思った。篠原さんが崖を飛んだと。

妹もその対応は突飛だったらしく、大人しく握手に応じた。

 妹が応じたと見るや、篠原さんはもう一度口を開く。

「よろしく」

 雰囲気に飲み込まれた妹は、大人しく「よろしく」と返した。

 妹を手玉に取るなんて、篠原さんは凄い。あたしがいくら注意しても歯牙にも掛けなかった妹が篠原さんの雰囲気に飲まれている。あの誰でも己を全面に出して折れることがなかったあの妹がだ。

それにしても、と考える。どうして、篠原さんはあたしなんかに好意を持ったのだろう。彼ならば引く手数多だろうに。それは宗太くんにも言えることだが。聞いてみたい。あたしのどこが良かったか。

「それでだ」

 握手を終えた篠原さんが切り出す。

「隼人、いつものお姉ちゃんと大事なお話あるから、このお姉ちゃんと遊んでて貰いなさい」

 弟さんが妹の手を取り、あたしらでも滅多に行かない広場の奥にある小山の方へかけ出した。

妹も踏ん張ろうとしたのだろうが、思いのほか力の強い弟さんに引かれるまま小山へと連れていかれた。わざわざ小山まで行ったのは、篠原さんの入れ知恵だろうか。

「さて、返事を聞かせて貰おうかな。――いや、わざわざ尋ねるまでもないか」

 一呼吸置いて、篠原さんは続ける。

「駄目なんだろう?」

 あたしの沈黙を肯定としたのか、篠原さんは肩をすくめる。

「妹を連れてきたのも断るためなんだろう」

 黙って頷く。

篠原さんは、微笑を浮かべる。

「ま、私には高嶺の花だったわけだな。宗太くんと言ったかな。彼によろしく言っといてくれ」

「高嶺の花だなんて、そんなことありません。それに宗太くんとはなんでもなかったんですから」

 篠原さんが顎に手をやり、考えに耽る。

「ふむ。そうなのか。てっきり彼の申し出を受けたかと思ったのだが」

 あたしは、手を前に大きく振る。

「と、とんでもない! あたしなんかが誰かと付き合うなんてあってはならないですよ?」

 篠原さんがあたしとの間合いを詰める。

「それは、ヒカリさんが自分のことを卑下しているから僕らのことを振った。そういうことでいいのかな?」

「え、ええとそんなことよりどうして篠原さんはあたしなんかに告白したんですか? 篠原さんだったら誰とでも付きあおうと思えば付き合えたでしょう」

 酷い話題のすり替えだと思った。

それでも篠原さんは、その話題に乗っかってくれた。

「自慢じゃないが、昔から男女両方に好意を寄せられていたんだ。ただ多くの方々と仲良くしてただけで、醜い争いが回りには絶えなかった。まあ、そういうこともあり恋人とかいう関係に白けていたんだ」

 男女ともにオモテになるとはなんだか別次元の人間だ。さぞや歌舞伎町の性別が怪しい方々に歓迎されるだろう。もっとも、あたし自身もそちら側に分類されるのは今は目を瞑りたい。

「でもそれじゃなんであたしなんかに?」

 篠原さんは恥ずかしそうに頬を掻く。

「それはまあ、誰よりも人間ができてたからかな。――それと誰よりも理想的な女の子だったから」

「――あたしは女の子らしくなんかありません」

「何を言っているんだ。君は今まで私が出会った女性の中で誰よりも自然体で女性をしてたぞ」

 騙している。

「そんなに自分を卑下しなくてもいい。宗太くんだって君のそういうところに惚れたと口にしていた」

 違う。

「卑下してるんじゃないんですっ!」

 あたしは振り返り、かけ出した。

広場の誰もがあたしを見ていた。小学生や園児、保護者のお父さんまで。

広場の隅にある公衆トイレの裏に身を隠した。

そこは、開放的な広場と違い市役所が建つ前からあったものだ。そのせいか林にその姿を隠されており、ほとんどの人はその存在を知らない。多くの人はここでお手洗いをする場合、市役所の中にあるものを利用する。

大昔、ここは妹が迷い込んだときに偶然発見したものだ。まるで廃墟のようだとも感じたが、幼い頃のあたしはまるで誰かの秘密基地を見つけてしまったかのような妙な高揚感を覚えた。新しい市役所が建つと同時に改築されたのか、外観も内装もどこかのデパートと比べてもさして変わりはない。利用に比べて清掃の回数が多いのか、数年建った今も真新しい印象が残っている。

ここにくるまで篠原さんが追い掛けてきたが、なんとか振り撒くことができた。

落ち着くまでここにいよう。

それから帰ろう。

もう二人に『あたし』として会うことはないだろう。

ちゃんと、謝りたかったなあ。





もう何時間経っただろうか。

 辺りはすでに真っ暗闇だった。

下ろしていた腰を持ち上げる。

できるだけ人通りの少ない道で帰ろう。そう決めた。

林の中で今まで電源を切っていた携帯電話を開く。すると、待ち構えたように妹からのメールが何通も波のように押し寄せた。

慌ててもう一度電源を落とす。

いつの間にか連絡がつかなくなったのだ。連絡するのは当然だ。それも自分の兄が女装野郎と明るみになる恐れがあるのだから。

ゆっくり、あるいはとぼとぼと自宅の近くまで来ると、複数人自宅の前でタムロしていた。目を凝らすと、それは妹とあの二人だった。

あたしは慌てて踵を返し、その場を離れる。だいぶ距離ができたことを確認し、振り返る。

誰の人影も、足音も見えも聞こえもしなかった。

 安堵の息を漏らす。

夜だったため、あたしの姿が見えなかったのだろう。

しかし、どうしてあの二人があそこにいたのだろうか。

考えるまでもない。

あたしが逃げ出したからだ。

女装している兄を探すのだ。あの二人に頼るしかない。それも片方は、失踪直前まで一緒にいたのだ話を聞くぐらい当然のことだ。

どうしよう。

一番は妹に連絡して、人払いを行うことだろう。だが、今の今まで連絡を無視しといてどの面下げてお願いすればいいのだろうか。それに子供じみた理由だが、怒られたくない。今連絡をとったら、それはもう般若の形相だろう。篠原さんでさえ引いてしまいそうなほどの。

改めて思う。どうしよう。

いずれは帰らなければならないのだが、出来る限りほとぼりが冷めてからにしたい。もっとも時間が経てば経つほど熱は増すだろうが。

決断力がない自分が嫌になる。結局、今回のことも妹に全て任せきりだった。

少しは自分で考えなければ。

そう決意したのと同時に、お腹がぐうと鳴った。

まずはコンビニでちょっとお腹を膨らませようかな。

決意してから一発目の考えは、そういう情けないものだった。

あたしは、コンビニへと向かって歩き始める。道路を照らしていたのは不規則に点在している該当とお月様だった。今日は満月だったみたいで、いつもより多く闇夜を照らしていたような気がした。月に雲がかからなかったところをみると、空には雲ひとつないのだろう。ただ、星は目を凝らしてもハッキリと見えなかった。

まるであたしのようだと思った。

手で写真枠をつくる。

大きな月を右上に、自己主張はすれども影が薄い星を左下に配置する。追いやられてるようにも、必死で叫んでいるようにも見える。主観によって様々だろうがあたしは後者だった。

別にあたしは、女の子になりたいわけではなかった。

いうなれば変身願望だろうか。

今の人生に不満があるわけではない。仲の良い友人もいる。妹には昔から頭が上がらないが、兄妹仲は客観的に見ても良い方だ。少なくとも悪くはない。それでも全く別の人生を歩んでみたいという願望があった。おそらく、一般の人のそれとはその大きさは全く異なる。

そして、実際に変身を遂げてしまった。だが、決して満たされはしなかった。むしろ、変身したことにより心に穴が空いてしまった感がある。それは小さな小さな点だったが、篠原さんの話を聞いた後だとその穴は一回りも二回りも大きくなった。

今分かった。篠原さんのようになりたかったということ。どんなに嫌なことがあっても、自信が身から溢れ出る篠原さんのような堂々とした人物になりたかったんだ。

また、それと同時に理解した。こんなことでぐちぐち悩むからこそ篠原さんのような人物にはなれないということ。

自信があるからこそ、告白だってできる。

自信で得た行動によって経験を積んでいるからこそ、ふられても立ち直ることができる。次に繋げることができる。

彼らにとってはたった一度の失敗。けれどあたしにとっては、それが全てに繋がってしまう。

弱さも強さに変えてしまうことができるのが彼ら。少ない強さも、ポキンと折れてしまいそうなのがあたし。

篠原さんは、あたしのことを人間ができていると言っていたがただ争いたくない小心者なだけだ。笑顔を振りまいていれば、傷つくことは少なくて済む。

結局、姿形が変わっても何一つ変わっていないままだ。あたしは、僕のままだ。

コンビニの外灯が見えた。看板の青と白の光りが遠くからでも見て取れた。その前には、素行の悪そうな集団が我が物顔で駐車場に座り込んでいた。彼らうち数人は、店内に入るあたしのことを眺めていた。目を間違ってでも合わせてしまっては大変だと、視線を感じながらも必死に前だけ向いて歩いた。

菓子パンを一つだけ購入し、外に出る。

まだ彼らはそこにいた。

目を合わさず遠ざかろうとした。

彼ら全員立ち上がり、あたしの方へと近づいてきた。嫌な予感がし、歩みを速めるも取り囲まれてしまった。

 あたしは、恐ろしさのあまり声を上げることができる集団をただただ見上げていた。

「ねえねえ、これから暇? なら俺らと遊ばない?」

 よく耳にする安っぽい台詞だったが、それでもあたしは縮み上がった。

「い、いえ、門限があるので……失礼します!」

 彼らの間をすり抜けて走り去ろうとしたが、一人に腕を掴まれてしまう。

 その一人があたしに顔の真ん前まで顔を寄せる。いかにも軽薄そうな色素の抜けた頭髪をしていた。

「釣れないなあ。ねえ、いいじゃん。ちょーっとだけだから」

 横に顔を何度も何度も振る。

早く、早く逃げなければこの人達が女だと勘違いしている間に。もしも、あたしが男だとバレたらタダでは済まない。間違いなく警察沙汰になる。彼らの中には、それも辞さないような人相をした人もいる。

「ご、ごめんなさい」

「そんなこといわないでさあ」

 囲っていた集団が、圧迫するように一歩歩を進める。

 それだけのことなのに呼吸が荒れた。

軽薄そうな男があたしの肩を抱く。

「まあ、いいや。どこか飲みに行こう。そうすれば気が変わると思うから」

 恐怖で怯えた体では逃げ出すことができず促されるまま歩き始める。

怯え、俯いたまま肩を抱かれたまま歩く。隣の男が止まったと同時にあたしも止まる。

顔を上げると二人の男性が立ち塞がっていた。

それはあの好意を寄せられていた二人だった。

宗太くんが言い放つ。

「そこの方は、俺らの連れなんで返して貰してください」

「彼女は、俺らと遊ぶんだよ。なあ?」

 あたしの肩にかかっていた腕が取れた。いや、吹き飛んだ。あたしの顔を真横には、あの軽薄そうな男の顔はなく、強く握り締められた拳があった。振り向くとあの男は、アスファルトに大の字で倒れていた。その腕を辿り拳の持ち主に目を遣ると、篠原さんの怒りに震えた形相がそこにあった。

「おい、誰に気安く触れてるんだ」

 見たこともない顔にあたしはその場にへたり込む。

もうそこからは大変な騒ぎだった。

十人以上が入り乱れ、殴るや蹴るのオンパレード。

腰を抜かしたあたしは、逃げ出すこともできずにただそこで眺めていた。

首に誰かの腕が巻き付く。そして、大声が耳に飛び込んできた。

「おい! これ以上何かしてみろ。どうなっても知らないぞ!」

 横目で顔を見ると、それは最初に篠原さんにのされた男だった。

「いいな、動くんじゃねえぞ」

 篠原さんと宗太さんの周りに残った二、三人が立つ。

捕まったせいで二人は、身動きが取れなくなってしまった。

 二人が何回も何回も黙って殴られ続ける。

「やめて!」

 そう叫んでも一向にその手を止めてはくれなかった。

二人が立っているのも辛そうになる。口は切れ、外灯の頼りない明かりでも分かるぐらい真っ赤に滲んでいた。

鈍い物音が背後から聞こえた。あたしの首を締め付けていた腕が緩み、解けた。

振り返ると、木製バットを肩で支えて持った妹がいた。さながらスケバンだ。

「なに? やる?」

 妹の迫力に押されて、残った仲間達は走り去っていった。

妹がボロボロの二人に言う。

「病院行っとく?」

 二人は口元に流れた血を拭いながら答える。

「いや、いい」

 妹が宗太くんにバットを手渡す。

篠原さんが気丈に「君は大丈夫だったかい?」と尋ねながら、近づいてくる。何度も殴打されたせいか足元はおぼつかなかった。

本来なら男であるあたしが支えなければならないのだろうが、未だに腰が抜けて力が入らなかった。

手を差し伸べられる。

手を取る。

立ち上がろうと手を引く。

一瞬浮いた。しかし、尻餅をつく。その次の瞬間には、アスファルトに仰向けのあたしに篠原さんが覆いかぶさっていた。

 痛みとともに篠原さんの丸くなった目が飛び込んできた。いや、宗太くんの目も丸くなっていた。なんだろうと思いながらも、どこうとしない篠原さんの胸板を押してどいてもらおうとした。

柔らかいものが篠原さんの胸にあった。

あたし達は驚愕の声を上げた。

ただ一人、その場で項垂れる妹以外は。





あたしらは、あたしの部屋に集まっていた。

妹の「ウチに来て」以外誰も一言も話さなかった。それもそのはずだ女性だと思って告白したのは、わざわざカツラまで購入してまで女装した男性だったんだ。そして、告白してきた男性の片方は実は女性だった。そして、実直な残りの男性は、性別は変わることがなく男性のままだった。

カツラを直しながら家に着くと、弟さんが我が家で妹が準備したのであろう夕食を摂っていた。弟さんにもう少し待っててとお願いして、あたしの部屋に集まった。あたしの部屋は、大きな本棚と学習机、あとはしいて挙げるならばパイプ製のロフトベッドぐらいだった。

絨毯に座った宗太くんは茫然自失、続けて座った篠原さんは先程から目を合わせてくれない、妹はずっと頭を抱えている。

重たい空気が部屋を充満している。

あたしはそれに押しつぶされるようにうつむいていた。

誰も会話を切り出さない。それが延々と続いた。

それを破り捨てたのは、部屋に飛び込んできた弟さんだった。

「ねえ! いつまで待てばいいのっ?」

 むくれた顔で弟さんは、篠原さんの手を取り引っ張る。

 篠原さんは、弟さんの両肩に優しく手を置く。

「もう少しだけ待ってくれ」

 妹が立ち上がり、弟さんを抱っこする。

「もう少しだけお姉ちゃんと遊ぼっか」

 そういって妹は、部屋から弟さんを連れ出した。「あとは御三方納得のいくまで話し合ってね。ちなみにお兄ちゃんは、騙そうとしてたわけじゃないから」と言い残していった。

再び沈黙が部屋に篭る。

 篠原さんが言う。

「私から話そう」

 篠原さんがポケットから財布を取り出し、証明写真のついたカードを床に置いた。

そこに映っていたのは肩よりも伸びていそうな黒髪を携えた凛々しい女性だった。けれど、それはたしかに篠原さんだった。

「これが本来の私だ。こんな格好しているのは、君が実に可愛らしかったからだ。ちなみに私はバイだ」

 次にあたしが告白する番だと思った。

「じゃあ、次はあたし……いえ、僕が話します」

 僕は、カツラを取った。肩よりも長かった毛の集まりは絨毯の上に置かれ、今はせいぜい顔の輪郭が隠れるかどうかくらいだった。化粧を落とせばより鮮明と男性らしさが出るだろう。

宗太くんが「どうして」と声を荒立てる。

「どうしてそんな格好してたんですか! 俺は本気で、本気で貴女に好意を寄せてたんですよ!」

 本当に済まないことをした。けれど「ごめんなさい」と謝る以外に言葉が見つからなかった。

「どうして」と「ごめんなさい」が反復するあたし達に篠原さんが割って入る。

「私がいうのも難だが、いつまでもこうしてちゃ話が進まない」

 篠原さんが目を宗太くんに向ける。

「私は今日フラれたが決して諦めるつもりはない。君はどうするつもりだ?」

「アンタはいいよな。互いに騙し合って、結局は正しい交際ができるんだからな。でも俺は一方的に騙されたせいで、今諦めなきゃ世間に後ろ指差されるんだよ」

「後ろ指差されるのが怖いのなら諦めることだな。私は彼女いや、彼か。彼にどんなこと言われようとも、何があっても諦めない。彼ほどの人格者とはもう出会えないような気がするからな。もっとも、彼に受け入れられるかは別の話だが。……もっとも迷惑がられようとも、アプローチは続けるつもりだよ」

 宗太くんは俯いたまま手を差し伸べる。

 篠原さんは黙って応じる。

とても長かったように感じた。なぜなら、握手を終えた彼らの手の甲に互いの手の平の跡がくっきりと赤く滲んでいたからだ。

 篠原さんが自身の手の甲を見て、小さく口端を上げる。

「これはどういうつもりかな? 私では意味が分からないから、説明をしてくれるとありがたいんだが」

 宗太くんが口を尖らせる。

「あんた、性格悪いよな」

「そこはいい性格してるって言って欲しかったな」

 からかう篠原さんを無視し、宗太くんがあたしに手を差し伸べる。

「友達からでいいんで、これからも付き合いを続けてください」

 僕は、その手を取る資格があるのだろうか。理由はどうあれ騙していたことには変わりない。

「僕はその手を取る資格なんてないんです」

 宗太くんが両手で僕の手を包んだ。

「俺は好きでやってるんです。そのことはもう気にしてません。ヒカリさんが女装が好きならいくらでもやって構いませんから」

 篠原さんが語りかける。

「すぐに手を取ってくれなくてもいい。自分がその資格を得た時でいい。ただ、こちらからは一方的に手を握らせてもらう。いつか握り返してくれるときまで」

 俯いたまま延々と「ありがとう」と二人に感謝し続けた。









 純白の花嫁衣装に身を包んだ人に目を遣る。誰が評しても見目麗しいという感想を口にするだろう。ウエディングヴェールから透けて見える緑の黒髪は、肩よりも長く伸び、腰辺りまで伸びていた。まるで精巧なお人形のように思える。大昔に今は貞淑としているあの人も加わってシッチャカメッチャカの大騒ぎをしていたのが嘘みたいだ。誰に話しても嘘だと言われる。けれど嘘みたいな本当の話だ。

 神父様を前にしたその隣には、背筋を伸ばし旦那様の役をこなしている人がいる。

「ねえねえ弟くん、あの二人がくっつくって予想してた?」

 妹さんに小声で話しかけられた。先日のシアンのタートルネックとチノパンツというカジュアルな格好ではなく、淡いベージュのドレスに黒のボレロ、首元には真珠のネックレスを掛けていた。膝元には艶やかなサテン生地で作られた小振りな鞄が乗せられていた。何にでも合わせやすいように購入したのか、それは白色だった。

僕は小さく肩をすくめて答える。

「さあ、正直なところどっちとくっついてもおかしくないとは思ってました。ただ、幼い頃から見てきた僕にとっては、こういう形になるとは思いませんでしたけど。ところで子供に馴れ初め聞かれたらなんて答えるんでしょうね」

「いつもみたいに片思いと三角関係から始めった恋とでも言うんじゃない?」

 妹さんが二人を眺めた。僕も視線を二人へ向け直す。

二人が神様への誓いを交わす場面だった。

 誓いを終えた二人へ惜しみない拍手が送られる。その中には、涙を流しながらの人もいた。それは両家の両親。そして、二人の大切の友人である佐々木宗太さん。

佐々木さんの泣き方はそれは尋常ではなかった。訳を知らない人は、親友らが結婚して感極まって流してしまった男泣きと捉えられるだろう。もちろんそれもあるのだろうが、宗太さんにとってはそれだけでは収まりきれない気持ちが渦巻いているだろう。

心中は察するが、高校入学を果たしたばかりの僕では慰めの言葉が見つからなかった。けれども、時間が解決してくれるだろう。あの三人の結びつきはヤワなものではないことをこの十年一番近いところで見させてもらってきた。

 隣の妹さんへ目を遣ると、その瞳を潤ませてきた。

「いやあ、この年になると涙腺が緩くなって駄目だね」

「ある意味、彼らの関係が露見しないように大立ち回りして凛さんが一番大変だったんですから当然ですよ」

 妹さんは、ふふ、と笑いハンカチを艶やかな鞄から取り出し涙を拭う。

「ありがと。苦労を労ってくれるのは君だけだよ」

 それから僕らは、ブーケトスをするために外に出た。

そこで妹さんが宗太さんの背中をバンと一叩きした。

「さっさと泣き止む! せっかくのおめでたい席なんだから笑顔で見送んなさい」

 宗太さんは涙を拭い、「そうする」と答えた。

二人が教会から出てくると、招待者たちは一斉に彼らの方を向いて湧いた。本日のお姫様の手には、ブーケが握り締められていた。

女性客たちのほとんどは、自分の方に投げてと冗談交じりにアピールしていた。妹さんは興味がないのか、それとも単に面倒だったのかその輪には加わらず僕と一緒にブーケの辿る軌跡を眺めることに決めていた。

二人は後ろを向き、頷きながら一緒にブーケを構える。

そして、放り投げた。

ブーケは大きな弧を描いた。手にしようと近くに集まった集団の頭上を大きく飛び越えた。それは、だんだんと地上に近づいてきた。だんだんと僕の方へと近づいてきた。そして、僕の手にスッポリと収まった。

周りから「おお」とか「運いい」とか聞こえてくる。

僕は今日の主役二人に目を遣る。

 いつも僕の遊び相手のなってくれた旦那さんは、小さく誤っていた。その隣のお嫁さん、もといお兄さんということにしておけと命じた僕のお姉ちゃんは、悪びれず小さく指差して僕と隣の妹さんを交互に移動させる。

 今度は僕の番か。あのお義兄ちゃんだって、あの妙にハキハキしたお姉ちゃんに自分からプロポーズしたんだ僕だってできる。まあ、今みたいにお姉ちゃんがそう仕向けさせたということも考えられてしまうが。

ブーケを腕を組んでいた妹さんへ差し出す。

「凛さん、僕と結婚前提にお付き合いしてください」

 周りが一斉に沸き立つ。おそらく今日一番の盛り上がりだろう。

 凛さんは、大きな目をぱちくりさせる。

「ええと、冗談言う子じゃないから本気なんだろうけど、ほぼ一回りも上なんだよ。あと五年もすれば三十路なんだよ。相手がおばさんでもいいの?」

「凛さんだからいいんです」

「気持ちは嬉しいけど今は無理」

 辺りがシンとした。

 凛さんが教会に綺麗に響き渡る声で皆に聴かせる。

「君が大学卒業してもまだその気があって、ご両親を納得させたならいつでも結婚してあげる」

 今日一番教会に歓声が響き渡った。

宗太くんを始め、色んな人に揉みくちゃにされる。

人と人の隙間に、元がつくお兄ちゃんとお姉ちゃんが見えた。

誰も見ていないことをいいことに、そのお兄ちゃんがそのお姉ちゃんの顔を抑えて、見てる方が恥ずかしくなるような口付けを交わしていた。

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