始末屋の一生

 1980年代、上沼直樹は日本の有数の資産家の家に生まれた。温かい家庭で、充分すぎる親の愛情を受け、直樹はすくすくと成長した。何一つとして苦労をすることなく育った。。優しい両親、誠実な友人、時に厳しく叱り道を示す教師、それは添え木のようにまっすぐに育つことを強いられる環境だった。だが、直樹の性に合っていた。周囲の人間も直樹が将来一角の人物になると期待し、ますます教育に熱を入れていた。

そんな将来設計も、時代のゆらぎにより破綻することになる。

バブル崩壊が起こったのだ。直樹の家もゆらぎに飲み込まれ、父の事業は破綻した。

そして、直樹の生活は一変する。まずは家で働いていた使用人が来なくなった。次に食べるものが貧相になっていった。住む家も引き払い、転校も余儀なくされる。

 それでも直樹はまっすぐだった。彼がそれまでに受けていた教育によって、それが仕方のないことだと理解できていた。人によってはそれでも納得できないと駄々をこねるだろう。

もちろん直樹も一切の駄々をこねなかったわけではない。だが、それもどんなに贔屓目に見ても疑問の範疇を飛び出さないものだった。そこで得た答えで直樹は理解した。理解した上でまっすぐに育った。

そんな正道を歩む息子を持った両親が、我が子に対して持った印象は「気持ち悪い」という残酷なものだった。

タイミングが悪かった。このことはそれに尽きた。

彼らの両親はボンボンと言われても仕方のないぐらい、苦労を知らなかった。生まれと時代の流れに上手く乗り、いい生活をすることができていた。だが一夜で百を持っていた生活から、百に追われる生活に堕ちてしまったことで彼らの心は荒みきっていた。彼らが少しでも息子の強さを持っていたのなら、後々の美談となったはずだった。

 彼の両親は借金の末、ある組織に追われることになった。借金を返すために借金を繰り返し、黒い噂の金融から黒そのものまで辿り着くのにそうは掛からなかった。

 両親は組織の女に臓器売買を迫られた。二つずつある臓器を二人合わせても借金に届かなかった。それを見越していた組織の男に囁かれる。傾城の如く、艶かしくそそられる言葉を。

「あんたらの息子くれたら、借金チャラでええよ」

 両親は迷うことなく首を縦に振った。

上沼直樹はそこで始めて人生において絶望を味わった。否、聡明な彼はそう尋ねられた瞬間にそうなることを悟っていた。両親が自身のことを奇異の目で見ていることもわかっていた。彼が絶望したのは、正しく生きていれば人生は素晴らしくなるという教えがどれほど傲慢で怠惰なものかを理解してしまったからだ。

 こうして上沼直樹は売られた。

そして、この世界から「上沼直樹」という男児はいなくなった。

直樹は、買い叩いた女――雨城からエヌと呼ばれるようになった。ただ頭文字を取っただけの名前だ。だがそんな名前をエヌはいたく気に入っていた。過去の自分と決別できた気がしたからだ。

エヌはその気を事実として築き上げていった。

雨城はエヌを当初ある程度育ったら、奇特な趣味の貴婦人どもにでも売り払おうかと考えていた。だが、なんとなしに教えた護身術をただ一度聞いただけで完璧に理解し、運用できていたのを見て考えを改める。

翌日から雨城はエヌを始末屋として鍛え始めた。雨城の指導は大の大人でさえ血反吐を吐くような熾烈を極めるものであった。だがエヌは喰らいつき、売られてから五年も経つ頃、彼が十五になる頃には組織随一の始末屋になっていた。

また、雨城の二つ目の予想外としてエヌの頭の良さは抜きに出ていた。暗記力、応用力、発想力、どれも鍛えれば鍛えるだけ伸びていった。頭の良さは生まれによって上限が異なると雨城は考えている。だからこそ、鉄砲玉にしかなれない者と暗殺者になれる者の差は地頭の差と考えていた。ゆえに雨城はエヌを組織の始末屋に添えた。

始末屋とは内外問わず、組織の敵となる者を闇に葬る者。外向きだけではなく、内側の敵を殺すことから自然と組織の内情に詳しくなる。それゆえ組織に忠誠を誓った者もしくは組織を裏切れない者を添えることが多い。

雨城はエヌを前者として添えることを考えていた。

親代わりとして、師匠としてエヌに愛情を持ったことは雨城自身否めなかった。だがそれ以上にエヌを力で押さえつけた時、力で押し返される恐れがあった。無論、たがが一人いずれ殺せる。そのいずれのうちに、組織に壊滅的な打撃を与えることは容易だろう。

ある日、雨城はエヌを呼び出した。

親子の盃を交わすことにしたのだ。雨城の組織は極道ではない。形式的な道徳性もない、ひどく私的なものだ。

「お前は私の子だと思っている」

 雨城が言う。

「お前はどう思っている」

 エヌは答える。

「本当の親よりも親らしく接してくれたと思っていますよ」

 エヌの言葉に嘘偽りはない。雨城には感謝していた。生き抜く力を根気よく身につけさせてくれたという恩がある。だが、口にしなかったこともある。それは自分の人生が未だ雨城の手の中にあるということだ。

親を超えるという言葉があるが、エヌの心境はそれに近い。

雨城をどうこうするというつもりはないが、いずれ雨城自らその立場を譲らせるつもりだった。

後日、エヌは始末屋となる。まだ順調に行けば高校生となっていた年齢は、始末屋として働くにあたり有利にも不利にも働いた。平日昼間や深夜帯などはそれこそ嫌でも目立ってしまうため大通りを移動することすら難しかった。だが、学生が多い場所での行動はそれこそ容易だった。その地域の偏差値が高い高校の制服さえ着ていれば誰も変な目を投げかけることはない。対象に間近まで接近しても学生という皮を被っていれば怪しいと思われることも少なかった。

また、その若さから始末屋としては珍しい系統の仕事を任されることがあった。それは護衛と平行して行うものだった。それは対象に害を成そうとするものを見極め、討つというものだ。大体は協力関係にある外部組織の幹部や政治家を護衛することが多い。

ある時、雨城に護衛の任務を言い渡されたエヌは数年ぶりに間抜けな顔をして「もう一度言ってもらえませんか」と聞き返した。雨城は珍しく困惑を表にしたエヌのことを可愛いと思いつつ、案件の説明を始める。

 その事件はある人気アイドルの護衛だった。そのアイドルはある大手事務所に所属している。アイドル自身に後ろ暗い過去はなかった。だが事務所にはその過去が山のように積み重なっていた。その山のひとすくいをした者に脅されているとのことだ。それが何故、護衛に繋がるかというとその男が、そのアイドルにご執着だからだそうだ。事務所としても枕営業で済むのならそれに越したことはない。売れないアイドルや、枕するために雇っているような者ならいくらでも差し出しただろう。だが乗りに乗っているアイドルに汚点を残すわけにはいかなかった。しかし、男はそのアイドル以外では首を縦に振らなかったという。

そこで始末して欲しいという依頼が組織の元に届いた。

 数日後、ある芸能事務所でエヌは牧野莉緒と初めて出会った。中島真介という偽名で紹介され、最近ストーカーがいるから護衛としてつくと説明した。莉緒は物分かりがよく、快諾してくれた。

護衛についてから数日、莉緒はエヌにことあるごとに話しかけてきた。莉緒にとっては久しぶりの年の近い知り合いというのもあるが、なにより自身のことを話したがらないエヌのことを気になって仕方がなかったというのが大きかった。エヌは必要最低限の会話に努めていたが、それが莉緒の心に火を点けた。休み時間ともなればほぼ話しかけっぱなしの莉緒にエヌも辟易して、応じ始めた。そんな雪解けが始まった最中に事件は起こった。

 莉緒のファンの中で護衛が親しくなりすぎているのではという噂が立ち始めたのだ。事務所の力で表沙汰として語られることはなかったが、インターネット上の掲示板では語られない暇はないほどの盛り上がりを見せていた。その一部、過激派と呼ばれるようなファンが自宅を突き詰める。自宅に隠れ、襲いかかるという暴挙に出た。

 その日、エヌは幸運にも莉緒に無理矢理部屋の中までついて来ていた。いつも栄養食品ばかり食べているというエヌに手作りのものを食べさせるということで連れ込まれたのだ。

 莉緒しかいないと考えていた暴漢はエヌと鉢合わせる。パニックに陥った暴漢はエヌに襲いかかるが、難なく取り押さえることができた。

だがこれがエヌの運命を大きく変えてしまうこととなる。

トップアイドルを助けた男として一躍有名になってしまった。元々莉緒の恋人なのではないかという噂が立ち込めていたエヌゆえ、様々なニュース、週刊誌が飛びついた。一度表沙汰になってしまえば、事務所の検討虚しく「他所がやっているのだからうちもやる」と止めようがなくなった。

当初はエヌを賞賛する声が多数だったが、ある週刊誌がエヌが経歴がまったく掴めないということを報道した。存在しない男とは一体誰なのだという声が高まる。過熱する報道に組織も仕事を依頼した事務所でさえさじを投げた。ようはエヌを組織から切った。

もっとも存在しない男ということで有名になってしまったエヌを始末するわけにはいかず、繋がりを示す証拠の始末と口止めを様々な方面にすることしかできなかった。

だがそれまでの騒ぎで公安に目をつけられていたエヌはほどなく捕まる。それはセンセーショナルに世間にも伝えられた。エヌのそれまでの経歴も全て世間に知られた。――こうしてエヌは、上沼直樹の名を取り戻すこととなった。

莉緒が暴漢を取り押さえたあと、警察ではなく事務所に連絡していればこうはならなかった。アイドルであろうと表側の人間である莉緒にそこまで望むのは酷というものだろう。

未成年でそうすることでしか生きられなかった直樹はやってきたことと比べれば、比較的軽い刑罰で済んだ。

五年の刑期。

刑務所の中で直樹は距離を置かれる存在となっていた。目的も今までの努力も全て無為に返ってしまい、投げやりになっていた直樹は抜身の刀のようだった。刑が執行されて三日も経たぬうちに、直樹に絡んだ囚人の病院送りにした。およそ十人の数を一人で返り討ちにしたことから刑務官だけではなく、囚人すらも危険人物として扱うようになった。中には直樹に取り入ろうとした輩もいたが、相手すらされずに諦める者があとを絶たなかった。

莉緒は暇さえあれば直樹と面会していた。話すことはほとんど他愛もないことだったが、いつも最後は「私のせいでこんなことになってごめんね」と頭を下げて去っていった。

 莉緒と刑務官以外に誰とも話すことのない生活に安心感を覚え始めた頃のことだった。直樹は夕食を一人でとっているとやけに軽薄そうなヘラヘラした男に話しかけられた。

刑務所という場所に似つかわしくない雰囲気の男に興味を持った直樹はこの男に興味を持った。

「なにをやらかした」

 興味に従うことにした。娯楽の酷く少ない環境で興味を引くものには素直に従うことに直樹はしていた。

「ちょいと女性関係でやらかしてね」

 これが生涯の友人となる真島淳との初めて交わした会話だった。

刑務所に似つかわしくない二人はどこか惹かれる合うのか、莉緒と同様に一方的に懐いたのか一緒にいる姿がよく見られるようになった。また、淳という男も面会が多い男だった。くしくも直樹同様、面会に現れるのは女性だけだった。一点異なるのは、直樹に面会しにくるのが莉緒だけなのに対し、淳には不特定多数の女性が面会に訪れていた。

また、残り刑期も近かった二人は刑期を終えたら何をするかという会話をよく交わしていた。もっとも直樹はこの先の展望に期待を持てず、ほとんど話すことはなかった。頭の片隅で自殺すらも考えていた。

対照的に淳は刑期を終えたら結婚すると意気込み、幸せな将来展望を語っていた。誰と結婚するんだと直樹に問われたら「みんなと」と真正面から法律に喧嘩を売るようなこと言ってのけた。

直樹は五年の刑期を終え、ついに出所の日を迎える。淳は一足早く、出所していた。特に感慨もなく慣れ親しんだ刑務所を出ると、二人の男女が門の前で直樹のことを待っていた。一人は莉緒、もう一人は淳。顔見知りですらない二人はぎこちない距離感を保って直樹のことを今か今と待っていた。互いに、自分のでも隣の人のでもいいから早く待ち人が来ないかと、気まずい気持ちからそう考えていた。

 そこに直樹が現れたものだから、気まずさがしきい値を超えた二人は思わず笑ってしまう。直樹は二人が待っていたことに驚きはしなかったが、さすがに笑われるのは予想の範疇を超えていたらしく怪訝な顔を露わにした。

三人は出所祝いということでそのまま回らないお寿司を食べに行った。久しぶりの寿司に舌鼓を打ち、莉緒がアイドルだということを伝えてひと通り驚かれ、一段落がついた頃に二人にこれからどうするかを尋ねられた。

なにも考えていないと答えると二人は声を合わせて「それはいけない」と言われてしまう。淳は続けて「俺と一緒に会社作らないか」と直樹を誘った。直樹が文句のいう暇もないくらい早く莉緒が「いいね。私も手伝うよ」と口を挟んだ。

「それでなんの会社をつくるの?」

「まだなんにも決まってないんだ。それで直樹が何かやりたいことないか聞こうかと思ってな」

「ほうほう。それで直樹くんは何かやりたいあるの?」

 長い刑務所生活で直樹に対して気安くなった莉緒がキラキラとした目で直樹に尋ねた。一方的に気安さを持たれたことに辟易しながら、直樹は問い返す。

「手伝うって言ってもアイドルはどうするのですか。まだやっているのでしょう」

 すると和気藹々とした雰囲気がたちまち氷点下になってしまったかのように二人は押し黙った。俯いてしまった莉緒の代わりに淳が直樹に説明を始める。

直樹が捕まった直後、莉緒は不運な被害者として扱われていた。同情的に扱われていた莉緒はその時はまだアイドル業を続けることができていた。だが暇さえあれば面談に来ていたことが、刑務官がネットに書き込んだことにより世間に広まってしまう。

莉緒にとっては命の恩人でも、世間からすれば血も涙もない殺し屋。それゆえ莉緒は殺し屋を擁護する人物として一部から過激なバッシングを受けてしまう。それで心のバランスを崩した莉緒は芸能界から消えた。アダルトビデオにという声もあったが、莉緒は突っぱね、一般人へと戻る道を選んだのだ。

「……わかりました。手伝えばいいのでしょう」

 彼は責任を感じていた。だが一切の同情をしていなかったわけでもない。

自分のケツは自分で拭かなければならない。自分が汚してしまったものも自分が拭かねばならない。それが彼の価値観の一つだ。また、順風満帆の人生から脱線してしまった自分と重なって見えた。もっとも直樹はそちらが性に合ってしまっていたため謳歌できてしまっていたが。

「社長、ではなにからはじめましょうか」

 淳が調子のいいことを言い始める。だが淀んでしまった空気が入れ替わった。

「直樹くんが社長なら、私は秘書やる! 敏腕秘書って憧れるよね!」

 それに乗っかった莉緒のせいで、少々熱を帯び始めた。まるでコンサートが始まる前の熱気のようだった。

 直樹はその空気を無視して何をやるかを考えた。

そして、ひとつの案が思いついた。

「金貸しやろう」

「金貸し?」

 莉緒は首を傾げる。

「元手は?」

 淳が尋ねる。

「私が持ってる海外資産でなんとかする」

「……ちなみにいくらぐらいあるんだ」

 五本指ともう片手で三本の指を立てた。

「パねえ」と淳。

「あたしが稼いでた時より持ってる」と莉緒。

「どうやって稼いたんだよ」

「文字通り悪いことして稼いだ」

 莉緒と淳は顔を見合わせ、そりゃそうだと納得する。

そして、三人は湯のみで未来へ向けて乾杯した。



十数年後、彼は全国的な金貸し屋となった。行く宛のない人にはほぼ無利子で貸し付けるその業務内容には、同業者――特にヤミ金業者からの妨害が多々あった。持ち前の才覚と裏社会で培った経験、そして金融業を営むうちに再会することになった雨城の助けもあり、危なっかしいながらも乗り越えてこれた。

淳は有限実行、五人の女性と家庭を持った。女性もそれで納得し、それぞれが子を成し、ひとつの家庭の下でつつがなく幸せな日々を送っている。

直樹と莉緒は未だ結ばれていなかった。互いに気はあるが、仕事一筋で遊んでこなかった二人にはもう一歩が踏み出せなかった。ただ莉緒はもう少しで三十歳になるということでその一歩を踏みだそうと気合を入れていた。

社内で仲の良い既婚の女子社員や淳の嫁、はたまた雨城に相談し、旅館で泊まりがけの旅行に誘い出すことまでは成功した。ちなみに雨城はあまりに女っ気のなかった息子に嫁ができるのか心配していた節もあり喜んで協力していた。

そして、その日二人は結ばれた。

プロポーズは直樹からだった。その言葉は「一緒になろう」という十人並みのものだった。だが気負いしていた莉緒にとって、それは思いもかけないもので、唯一の言葉だった。



 直樹と莉緒は二人の女児を授かった。莉緒の可愛らしい容姿、直樹の才覚を受け継いだ。

彼女らが成人する頃、一つの問題が浮かび上がった。

もっとも誰もがそのことを知っており、誰もがそのことから目を背けていただけの問題もしくは視界に入っていなかっただけの問題。

 始末屋としての過去とアイドルとしての過去、その娘たち。そんなスキャンダラスなことを政治の分からない記者に知られてしまった。まともなメディアだったら記事になる前にいくらでも握りつぶせただろう。だが、それが独自の発信手段があるニュースサイトの記者だったら。

その記事は一夜で全国区となった。

 直樹は社長から身を引いた。

淳が後を継ぐこととなった。

淳は直樹らの二人の娘を会社に迎えた。いずれ会社を継いでもらうために。そのための社内派閥、車外の悪評全てと対峙して育て上げることにした。



直樹と莉緒が定年より数年早く、老後の生活を楽しむことにした。

社長と秘書として長年公私を分けずに過ごしてきた彼らにとってそれは何をしていいかわからない日々の始まりでもあった。

二月ほど暇を持て余しているとある一報が届く。

雨城が死んだ。

部下の裏切り。それも組織の始末屋が裏切ったということだった。

その部下はすぐに粛清された。

裏切り先が恩を着せるためにそそのかし、殺したのだ。



葬儀は慎ましやかなものだった。悪事の大半をやってきた女のものとは思えないほど、そこでは誰もが涙を流し、死を悔やんでいた。

そこで初めて直樹は自分の人生を振り返った。

 全ては自分のために費やした人生だった。自分のために頑張ったおこぼれで社員がいい目を見た。他人に取られるのが癪だったから莉緒を嫁にした。

葬儀が終わって自宅についてから直樹は莉緒に問いかける。

「私が雨城さんのようになるにはどうしたらいいと思う?」

 莉緒はおかしそうに笑う。

「なにがおかしい?」

「いえ、雨城さんと似たようなことを聞くんだなぁって」

「似たようなこと?」

「生前、雨城さんも訊いてきたんですよ。アイツに超えられないためにはどうしたらいいって」

「なんて答えたんだ?」

 莉緒は横に座る直樹の手に自らの手を重ねる。

「もう自慢の旦那はあなたを超えていますよって」

 このとき直樹は人生で初めて負けを認めたという。



二人の娘は結婚し、すぐに子宝に恵まれることとなった。

 直樹は周囲が驚くぐらいに孫馬鹿になった。

 その中でも長女の息子を特に可愛がった。その息子が高校の入学式を迎える。直樹が八十のことである。孫の立派な姿にあったかもしれない過去を重ねた。そうして満足した。自分ではあの当たり前な日常に溶け込めないと思ったからだ。

 それからすぐのゴールデンウィーク中、直樹は倒れた。孫と将棋を指していたときのことだった。病院に運ばれてから直樹は意識を取り戻す。傍らには莉緒が直樹の手を包み込んだまま眠っていた。

 医者は直樹は老衰であると伝えた。もって数ヶ月だということも。若くから働きっぱなしで体を酷使してきたツケがまとめて回ってきたのだと、医者は告げた。

 多くの人が見舞いに訪れた。涙を流す者もいた、笑顔で話しかけてくる者もいた。だが皆、直樹との別れを惜しんでいた。

「よう、よく今までくたばらなかったな」

 そんな言葉を告げたのは淳だけだった。

「一緒にくたばらせてやろうか」

 そう直樹が返すと、二人は笑った。どうしようもない雑談をして、二人は別れた。

別れ際、直樹が尋ねる。

「今度はなにやろうか」と。

 淳は答える。

「あの世で天女様でも口説き落とそうか」

 それが二人の今生の別れだった。



二ヶ月後、直樹は多くの人に見守られてなくなった。

壮絶な人生を送った豪の者とは思えない穏やかな顔だったという。



独り身になった莉緒は気丈だった。

「旦那様が向こう側で心配することがなくなったら逝くからね」

 そんなことを周囲に冗談交じりに話していた。

 三回忌を終えたその夜、莉緒は亡くなった。

前兆のない心臓麻痺だった。





「お久しぶりです。莉緒さん」

「久しぶり。旦那様」

「まさか本当に三回忌に亡くなるとは思いませんでしたよ」

「重い女だと思った?」

「色んな人生を色んな形で背負ってきたんですよ。今更女の一人か二人なんてことはありません」

「ほう、それじゃ天女様でも口説き落とす?」

 直樹は莉緒を抱き寄せる。とても強く。

「私には貴女一人で十分ですよ」

 抱きしめ合う二人を遠くで一人の女性が見守っていた。

 立派になった息子の姿に感涙していたという。

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