あまりに優しすぎたひと

第5話

その日から、つまり俺が『life』見習い店員になってからアリアはずっとご機嫌だった。


まあ、ずっとひとりぼっちだったのが仲間が増えたのだ。妙にぽやんとした所はどう考えても話し相手がいなくて動く必要、考える必要がなかったからだろう。


人間、自分のことだけになるとのんびりするものなのだろうか、と哲学のようなことを考える。


そういう引きこもる奴等って詩とか小説とか曲とか、書きたがるよなあ。

それが評価されて世の中に再び舞い戻るのはなんとも皮肉な話だ。


アリアのずぼらなポイントを説教し直させたり、背の届かなく埃が積もる高所を掃除させられたり…、

現代社会で効率と利益を優先させめまぐるしく働く店とは大違いのゆるやかな店仕事をやりつつ、職業柄ことばに詳しいアリアの手を借り何日もかけ弟が助かるために必要なことばを計算する。


ことばは寿命とか人生だとかに例えられる。すこしでも取りこぼすと、それは弟の危機に繋がる。


友人を作り親と喧嘩する、自然とことばを消費する思春期の量を計算し終え、浮かんできた汗をぬぐったその時だった。


とんとん、とんとん、と柔らかいノックの後にひょっこり顔を出した男が、ぱちくり瞬きをして、不思議そうにこう言った。


「えぇっと…これ、なんのお店ですか…?というか、営業してますか…」


…どうやら結構躊躇なく気遣いなく言ってしまえるお客さんのようだ。



見た目は美人なアリアが持ってきた紅茶を初心なのか顔を赤らめて恐縮しながら受け取る男ーーというより男の子と言える歳の高校生。


染めたことのないだろう黒髪は店内の赤みかかるしゃれた照明を照り返し、ブレザーに鈍い赤色のネクタイ、チェックのズボンといういまどきな制服を少し着崩している。


普段から着ているから着崩れてしまった、という態なので根っからの真面目な高校生なのだろう、とアリアのお盆の扱いに目を丸く高校生をじっくり観察してみる。

……一ヶ月程度だが、『life』の飽き飽きするほど余る時間は群を抜いていると確信していた。なにせ客がこない。


だからかついつい賓客をじっくり観察するし、アリアは普段高くて飲まない高級なアールグレイをもてなしーーずぼらは時間をあまり気にしないのできっと渋みが出ているーーに使っていた。


案の定眉をしかめる高校生に忍び笑いをしながら、俺は興奮でソファ周りをくるくる回る(こういうところは可愛らしい)アリアを座らせる。


「とりあえずお前は、世界の真実をもう知っているよな?」


渋みが強かったのかお茶請けのクッキーに噛り付く少年はこくりと頷く。


「はい。もよく知っています。…僕は16歳なので。もうおとなに見られる歳ですから」


下手に消費したくない、ことばの意味を知ったばかりによくあるゆっくりとした喋り方だったが、物腰も言葉遣いも穏やかで好感が持てるものだ。


もっとも、彼と数歳しか変わらない俺が言うものではないが。


「そうか…それなら良かった。ここは『life』といって、ことばの売買を専門にする店だ」


ほらここにびん詰めにされているものがことばだよ、と壁の棚に所狭しと置いてある美しいことばの塊を手で指し示すと、彼から歓声が上がった。


「あなたはことばに関する願いがありますね?わたしに何かできると思いますが…どうでしょう」


もふもふとクッキーを咀嚼そしゃくするアリアが突然口を開いた。口の端にクッキーのかすがついていて何とも脱力する美人だ。


さりげなく指で払ってやってから、彼を見据える。同じことばで悩み、アリアに言われた者同士共感するのかはらはらしてしまう。


「なんでも叶えてくれますか」


「あなたが望むのであれば、わたしは全力を尽くしましょう。それが『life』ですから」


「……それが皆に理解されるものではなくても?」


そう言い置いて、彼は苦しそうにアリアにすがるように顔をあげた。


彼は息が出来なさそうに胸元に手を当てる。ノリがきいたワイシャツがぐしゃりと嫌な音をたてて皺をつくる。


不安を覚えてアリアを見やると、彼女は…微笑みを浮かべていた。


まるで聖母のような。


「僕、死にたいんです。あの、死なせてください。お願いします」


畳み掛けるような苦しげな早口で言った後、凍りつく俺を横目に穏やかそうな雰囲気で真面目な見た目の彼は神にすがりつくが如く、

神様でもなんでもないずぼらなアリアを見つめた。


「…死にたいんです、僕は…」


アリアの笑みは変わらなかった。


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