エルフさんのだいたいあってる関東戦国講座最終回

 おや、どうしたの荒次郎。こんな夜中に。

 ああ、聞きたいことがあるのか。ふんふん。関東大戦の、ああ、八屋形について。

 了解了解。この大軍師初音さんが、関東大戦時の八屋形の動きについて、教えてあげようじゃないか。


 まず、関東八屋形については、知ってるよね?

 それじゃあ、まずはおさらいしてみようか。


 関東八屋形ってのは、平安鎌倉以来の、関東土着の名家だ。

 それぞれ在地の守護を出す家柄で、守護不介入の特権をもってる。関東公方も簡単に介入できない厄介な連中なんだ。


 下野に那須なす宇都宮うつのみや小山おやま

 下総に千葉ちば結城ゆうき

 常陸に小田おだ佐竹さたけ大掾だいじょう


 この八家が関東大戦で古河公方、鎌倉公方、それに、前古河公方の旗をあげて争ったり内紛したりしてたんだ。





◆古河公方派について



 関東八屋形の中で、古河公方派の領袖と言えるのが、下野の宇都宮家当主、宇都宮成綱うつのみやしげつなだ。

 成綱は、古河公方こがくぼう足利高基あしかがたかもとの舅で、彼の強力な支援者だった。宇都宮錯乱、永正の内訌により、宇都宮家を戦国大名化させ、北関東最大勢力に仕立てた宇都宮家中興の祖だ。


 そして、宇都宮成綱には優秀な婿がついていた。

 結城政朝ゆうきまさとも。同じく、結城家を戦国大名化させた、結城家中興の祖と謳われる若き英主だ。


 古河公方。宇都宮成綱。結城政朝。

 この三者が古河公方勢力の中核を為し、下総の千葉氏、常陸の小田政治おだまさはる大掾慶幹だいじょうよしもと。そして山内上杉憲房やまのうちうえすぎのりふさ伊勢宗瑞いせそうずいと連携して、関東大戦を戦っていたんだ。





◆前古河公方派について



 対するは、前古河公方、足利政氏あしかがまさうじを支持する勢力。

 ここで出てくるのが鎌倉公方じゃないのは、政氏が下野国にいて、八屋形の連中との連帯を作りやすかったためだ。

 実際、上野、武蔵の山内上杉、古河公方、小田、大掾が邪魔をして、鎌倉公方がこれより北に支援を送るのは、事実上不可能になっていたしね。


 中心勢力は、前古河公方を自分の城に囲っており、永正の乱から関東大戦に至るまで、これを支援し続けてきた小山成長おやましげながだ。

 彼は、常陸の佐竹義舜、下野の那須資房。それに、陸奥の岩城由隆らと連携して、古河公方の中心勢力である宇都宮成綱と戦っていくんだ。


 さっき、ちょっと変な名前を聞いたと思わない?

 そう、陸奥。東北のね。もちろん関八州にも、関東の定義にも入らない。いや、広義には入ったかな? どのみち勢力圏外だったんだけど。


 だけど、思いを馳せてみるといい。

 関東北部。下野や常陸から見れば、陸奥はすぐ北に隣接する場所だ。

 心理的に見れば、関東の西南に位置する伊豆や相模などより、よっぽど近いじゃないか。


 というわけで、北関東の合戦では、陸奥の勢力が絡んでくることが非常に多いんだ。

 たとえば、宇都宮が陸奥の蘆名あしなと争ったり、那須が《白河》結城や岩城いわきと争ったり。


 さて、話を戻そうか。

 前古河公方を支持した屋形衆。そのうち、佐竹義舜さたけよしきよは、佐竹氏中興の祖と呼ばれる人物だ。


 中興の祖が多いって? そりゃあそうだよ。

 この時代。“戦国”という新たな時代の到来を、先覚者だけでなく、多くの者たちが認識し始めたこの時期、英主に恵まれなかった領主たちは、つぎつぎと没落していった。

 将来大名として残った家は、この時期、ことごとく英主に恵まれたといっていい。まあ、多少の例外はあったにしても。


 那須資房なすすけふさは、下那須しもなす家の当主。

 下那須、という家があるんだから、当然上那須かみなすってのもある。

 もともとひとつだった那須家は、上杉禅秀うえすぎぜんしゅうの乱のころに上下両家に分裂。このころ、上那須家が断絶して、その後継者をだれにするかで他国を巻き込みまくった抗争状態に入ってた。





◆竹林の戦い



 この、古河公方勢と前古河公方勢。それぞれ勢力内にゴタゴタを抱えてたせいで、あんまりまとまった軍事行動ができてなかった。

 そんな両勢力が、まともにぶつかった戦いが、竹林たけばやしの戦いだ。

 永正11年7月のことだから、三浦家は伊勢宗瑞と鎌倉で攻防戦を繰り広げてた時分かな?


 小山、佐竹、那須、岩城を中心とした前古河公方勢2万は、古河公方勢の中核、宇都宮を攻めた。

 宇都宮、結城を中核とした連合軍はまず那須口なすぐちでこれを迎え撃つが、あえなく敗退。ついで自領の宇都宮竹林で勝負を挑む。

 結果は宇都宮勢の勝利。宇都宮成綱は、かろうじて敵を退けることに成功する。


 これは北関東情勢のひとつの転機で、これ以降、古河公方勢力は大きく伸長する。

 とはいえ、このすぐ後、9月には、我ら三浦家が、長尾景春ながおかげはるの死を利用して山内上杉の勢力に揺さぶりをかけている。また、直後には扇谷上杉が大規模な軍事行動を起こしてるね。


 実はこれ、地味に大事で、本来古河公方につくはずだった勢力が踏みとどまったり、鎌倉公方に脈を通じてきたり、鎌倉公方が関東東北部の勢力に喰い込むきっかけになった。

 そして、これに危機感を覚えた前古河公方、足利政氏は、翌年1月、鎌倉公方を容認し、両公方の連携体制が確立されるんだ。


 そうそう。

 知識は私が、細部の詰めは猪牙ノ助のじいさんだけど、粗々と絵を描いたのは荒次郎だったね。さすが荒次郎――と、べ、別に褒めてるわけじゃないんだからねっ!





◆関東中東部の八屋形について



 ……こほん。

 まあ、北が大きく動いてる中で、今度は南。

 下総の千葉家は、兄君――真里谷信保まりやつのぶやすの担ぎあげた傀儡との争いに忙殺されていた。

 この時、千葉家当主、千葉昌胤ちばまさたねは古河公方派。

 当主の座を争う武州系の千葉氏、千葉守胤ちばもりたねは、当然鎌倉公方派だ。

 両千葉氏が勢力争いの綱引きをしている間に、房総管領軍は千葉守胤を支援しながら、江戸湾沿いの街道を押さえ、また江戸川沿いの国府台こうのだい城、関宿せきやど城を支配している。


 さらには利根川を越えて小田、大掾にちょっかいを出すのも忘れていない。

 完全に河川、水上利権狙いだね。我が兄ながら、火事場泥棒にしてもひどいと言わざるを得ないよなあ。


 と、まあ、こんな感じで争っていた八屋形の面々は、鎌倉合戦と川越かわごえ合戦。ふたつの決戦で古河公方、山内上杉憲房、伊勢宗瑞といった有力者の死と、それに続く伊勢家の鎌倉公方への臣従で大混乱を起こす。


 なにしろ、これで鎌倉公方包囲網は完全に御破算。

 西方に備える必要のなくなった鎌倉公方の動員兵力は、八万を数える。

 鎌倉公方への屈服やむなし。といった空気が彼らの間に流れて、さて、ひと段落か、というところで、まあ、あの男がやらかすんだけど。


 おっと、まあ、今日のところはこんなものにしておこうか。

 この話はまた、つぎの機会にでもしようか。


 どうした?

 怖くなったかい?


 大丈夫だよ、荒次郎。私が保証する。

 お前は、いまの世に武神と謳われるお爺さまの名と、血を、しっかりと受け継いでる。

 だから胸を張って父君の後を継ぎ、関八州に君臨しなさい。ねえ、三浦荒次郎――義幸よしゆき


 また、話してあげよう。まだ新しい神話を。

 三浦荒次郎義意の、三浦猪牙ノ助道露の、活躍ぶりを。

 もちろん、この立心尼りっしんに――大軍師初音さまの大活躍の話も、ね。





 影武者/エルフ/マルティスト――完

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