第34話 敗戦/逆転/起死回生
片瀬浜での戦闘は、あっさりと終局を迎えた。
そうすれば、数の利は敵にある。
また、指揮に
浮足立った初音は、それでも懸命に指揮をした。
倍する敵相手に健闘できたのは、夜目が利き、また遠方を見通せる彼女の特性があったからに他ならない。
とはいえ、野戦だ。軍全体に神経を通わせるのは至難の業で、しかし敵方の多目六郎はその難事をこなしている。
戦闘開始より半刻、三浦軍は順当に劣勢となっていった。
敵陣の綻びを感じて、多目六郎が予備兵力を投入しようとした、矢先。
「もう駄目だーっ! 船を出して逃げろっ!」
狙いすましたように、初音が軍配をぶんぶんと振りまわした。
三浦衆は機敏に応じた。戦闘前の演説が、三浦衆から迷いを取り去っている。
一同、脱兎のごとく逃げ出した。皮肉なもので、もうすこし戦いが続いていれば、三浦衆は予備兵力に綻びを衝かれ、潰走していただろう。
いや、背を向ける敵に追撃を加えさえすれば、その過程は現実のものとなっていたに違いない。
しかし、多目六郎は三浦軍を追わなかった。
逆に追撃の停止を命じた少年当主に、大道寺盛昌が怪訝な顔を向けた。
「六郎。なんで追わないんだ?」
「指揮の声、女のものだったの、わかる? あれ、たぶん三浦の奥方だよ」
この少年は、以前、己を手玉に取った三浦方の将について、調べている。
同様に、彼女の存在は、大道寺盛昌の耳にも入っていた。
「一度六郎を掌の上で転がした女丈夫か」
「嫌なことを言わないでよ。まあ、事実だけど……」
ぶつぶつとつぶやいてから、少年は船に向かい、一目散に駆けてゆく三浦衆を見やる。
「まあ、だから、罠の可能性が高いと思って、兵を止めたんだ――けど」
「……あいつら、船出すつもりなのか? 月明かりがあるとはいえ、夜だぞ?」
つぎつぎに船を漕ぎ出してゆく三浦衆に、二人は怪訝な目を向ける。
もちろんふたりは、真里谷初音の特性を知らない。夜目が利く彼女にとって、満月の夜など昼間に等しいのだ。それでも、船団を率いるとなれば危険を伴うのだが。
「これからどうする? 六郎」
大道寺盛昌が問うと、少年はしばらく考えてから、口を開く。
「まず、ひとつ。北上して大殿の援護に向かう。ふたつ、海岸線沿いに西へ走り、鎌倉に攻め込む。みっつ、逃げた船の動きに備えて、動かず休止する」
「みっつ目を選びたいなあ。ひと戦終えたとこだ。みんな疲れてる」
「そうだね」
と、同意してから、少年は意外なことを口にした。
「――でも、全部やろう。鎌倉方主力を横合いから衝けて、鎌倉へも攻め込める。そして、船も見張れる場所――
王手、飛車角取り。
鎌倉方にしてみれば、絶妙な位置に駒を置かれたようなものだ。
語りあいながら、二人の視線は船が消えていった沖から離れない。
彼らにとって、“三浦の奥方”真里谷初音の不可思議な動きは、不気味であり、警戒に値した。
沖の船上では、真里谷初音が密かに頭を抱えている。
「ああ、どうしよう。予定なら明朝までは持たせるはずだったのに……」
作戦を周知させていなかったのが幸いした。
三浦衆はこの逃亡が作戦の一環だと思っている。
◆
一方、
――伊勢方、下流より奇襲。
深夜、その報に接した荒次郎は、即座に本陣の防備を固めさせた。
本陣に大きな動きがあれば、とっくに報せが届いている。であれば、少数での奇襲攻撃だ。冷静に対処すれば、現場で対処できる。
むしろ怖いのは、混乱に乗じて鎌倉公方、
「丸太衆。命に代えても公方は守れ」
言って自らも足利義明の陣屋を守った。
だが、この慎重さゆえ、鎮圧には時間を要した。
そして奇襲の混乱が、いまだ収まらぬうち、ひとつの知らせが飛び込んできた。
――
片瀬浜で、伊勢軍が行動の自由を得た。
鎌倉に攻め込むか、鎌倉軍を背後から襲うか。
土地勘のある者であれば、誰もがこの意味を容易く想像できる。
報せを聞いた鎌倉方諸将は思わず腰を浮かしかけたが、悪い報せは続く。
――伊勢方に渡河の動きあり。
伊勢軍分隊の勝利を知った伊勢宗瑞が、鎌倉方の動揺に乗じて、全軍の渡河に乗り出したのだ。
「片瀬浜では我が軍が勝ったぞ! いまに後ろから攻めてくるぞっ!」
鎌倉軍は浮足立った。
もとより、背後の危険がある以上、この位置での防戦は論外だ。
「
「わかった。三浦介、死ぬなよっ!」
丸太衆から五十を割いて足利義明につけ、荒次郎は殿軍を引き受ける。
義明は気遣ったが、それほど困難な作業ではない。なにしろ伊勢軍は九千の大軍だ。渡河には相応の時間がかかる。
公方と後方の武士団を充分に退げさせてから、荒次郎は夜襲の鎮圧にかかっていた部隊を助け、入れ替わりに退がらせる。
「あれが三浦介ぞっ、討てい!」
勢いを得た奇襲隊の生き残りが嵩にかかって攻めてきたが、所詮、寡兵。
これを容易く蹴散らすと、荒次郎は三浦衆に号令をかけた。
「じりじり退がるぞ。丸太衆、柵をっ!!」
◆
ややあって。渡河を終えた伊勢方先鋒は、見た。
向かう先に、無数の丸太を並べた柵と、その奥に整然と並ぶ三浦衆の姿を。
川向こうからそれを見て、伊勢宗瑞が笑った。
「なるほど。部下にも丸太を持たせるとは酔狂な、とは思っておったが……丸太の使い道はこれか! わしとしたことが
荒次郎の丸太趣味は有名だ。
暇を見つけては丸太を求め、四六時中丸太を離さず、夜は枕にして寝ている。
だから、部下にも武器として丸太を持たせている。誰もがそう思っていた。
いや、工兵が、建材を抱えて荒次郎に侍っている、などという事実に気づいたものがいたとしたら、それは狂人に違いない。実際は、精鋭兼工兵なのだが。
「押しつぶせいっ!」
今川軍に先だって渡河を終えた伊勢軍三千は、いまだ抵抗を止めない三浦衆に襲いかかる。
柵を利してよく防ぎながら、三浦衆は退いてゆく。その三浦衆も、三々五々と退いてゆき、ついに少数が弓を射かけるのみとなった。
それを潰し、逃げる三浦衆を追うため、伊勢宗瑞が手を振り上げた、そのとき。
柵の陰に隠れていた巨漢がやおら立ち上がり――丸太のごとき矢の鋭い穂先を梟雄に向けた。
――轟。
すさまじい風音とともに、宗瑞の身に矢が迫る。
側にいた護衛がとっさに主の身を庇ったが、矢の勢いは凄まじい。
二人の護衛の体を貫通した矢は、なお勢いを減じず、伊勢宗瑞の鎧の大袖をごっそりと吹き飛ばして、さらに背後にいた兵の腹に突き立った。
他の護衛がすぐさま伊勢宗瑞を盾の後ろに隠したが、次の矢は来ない。巨漢はすでに、他の兵とともに逃げている。しかし、空気は凍っていた。
「叔父御、無事か」
渡河を終えた
伊勢宗瑞は、消え失せた大袖の部分に手をやる。
矢は、肩を浅く削っていたのだろう。ねっとりとした血が、宗瑞の手を赤く濡らした。
「なんの、浅手です。しかしまさか、最後尾でわしを待っていたとは……自軍の敗走をすら、餌にするとは」
梟雄は笑っている。
口の端を、凶悪なまでに釣り上げながら。
「肉を切らせて骨を断つ。御屋形様、これが三浦荒次郎です」
「面白ぇ」
宗瑞の言葉に、今川氏親もまた、同じ笑みを浮かべた。
◆
渡河を終えた伊勢軍は、ここで兵を休め、翌日、再び進軍を開始した。
周囲を警戒しながら街道を進んだものの、敵の姿は無い。
「孫九郎や六郎の手柄よ」
伊勢宗瑞は言った。
大道寺盛昌と、多目六郎。
このふたりが率いる分隊が、鎌倉の街へ攻め込める位置に居る。
それゆえ、荒次郎たちは街道途中での迎撃が不可能になり、後退を余儀なくされたのだ。
伊勢軍はそのまま西に進み、ついに鎌倉に到達した。
狭い坂道、大軍を展開する余地などない。
――この地に、三浦荒次郎が立つ。
その意味を察せぬ宗瑞ではない。
「叔父御、兵を分けるか」
今川氏親がうずうずしたように言ったが、伊勢宗瑞は首を縦に振らなかった。
伊勢宗瑞を狙い撃ちにした先の戦闘のことが、とっさに脳裏をよぎったのだ。
――もし、狙いがわしや御屋形様であったなら。
「それこそ、荒次郎の望むところでありましょう。御屋形様、ここが辛抱のしどころですぞ。勝利を焦らず、万の兵をもって、三浦荒次郎をすり潰すことにいたしましょう」
結果的に、これが伊勢宗瑞の失着となった。
いや、大将を狙い打ちされることを恐れて、前線から下がり、指揮を配下に任せたことこそ、真の失着。
――否。
すべては、伊勢宗瑞。乱世の梟雄が三浦荒次郎義意という男を恐れて行ったこと。
であれば、これはやはり、荒次郎の功績。
「来たか」
鎌倉、化粧坂。
荒次郎は、居並ぶ三浦衆の先頭に立ち、伊勢軍を
巨躯を大鎧で鎧い、十人張りの強弓、丸太矢を手に、仁王立ちするその姿は、神話や伝説上の武将を想起させる。
「ゆくぞ、三浦衆。これより伊勢軍を迎え撃つ」
荒次郎は号令とともに、坂を登り来る伊勢兵に向け、丸太弓を引き絞る。
「――ゆくぞ伊勢宗瑞! ここからが……反撃の開始だ!!」
怒号と絶叫が、戦闘開始の合図となった。
◆用語説明
もう駄目だーっ!……演技なのか素なのか。
荒次郎の丸太趣味は有名だ……関東規模で有名である。
精鋭兼工兵……エルフさんの微妙な表情を想像いただきたい。
大袖……鎧の肩当ての部分。
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