第33話 江の島/戦線/異常アリ
三浦荒次郎と伊勢宗瑞。
関東に名だたる英雄二人の問答が、その場にいた人々の胸に感動としていまだ燻ぶっている時、乱世の梟雄はすでに深夜の奇襲を決めていた。
「まずは小手調べよ。下流より寡勢にて渡河奇襲を行う。敵に混乱あらば、それに乗じて一気に本隊を渡河させ、鎌倉方を討つ」
諸将を集め、伊勢宗瑞は語った。
諸将はあっけに取られた様子で、ただうなずくしかなかった。
この反応は、そのまま鎌倉方の反応だ。
まさかあの舌戦の最中、敵大将が約した決戦の日時を違えるとは、夢にも思わないだろう。
ただし、予想せずとも十全に備えを怠らない武将が敵に居ることを、伊勢宗瑞は忘れてはいない。
だからこそ、小手調べなのだ。
「みな、備えよ」
伊勢宗瑞の言葉に従い、伊勢軍本隊が夜襲の準備を始めた、ちょうどそのころ。
日はすでに落ちた。
しかし天に浮かぶ月が描くは、真円。
煌煌たる満月の光が、砂浜に押し寄せる波を、蒼くきらめかせている。
「干潮になるのは、深夜か」
と、大道寺盛昌が言ったのには、理由がある。
境川の河口付近は干潮時、水位が下がると、徒歩で向こう岸に渡れるのだ。
鎌倉末期、
いま、対岸には物見らしき複数の人影がある。
月光に照らされ、蒼い世界で、舟らしき影も確認できた。
「六郎。敵の数、どう読んだ?」
「いや、月明かりがあるったって、さすがに見えないよ」
大道寺盛昌の問いに、多目家の少年当主は目を凝らしながら答える。
「――ただ、風魔の見立てだと船の数は五十近い。たぶん動員できる三浦水軍をみんな連れて来てる。それだけの船団に乗れる数だ。千より少なくは見積もるべきじゃない」
「こっちは二千か……こんだけの数をすぱっと割ったのは、大殿、御英断だったなー」
大道寺盛昌は、しみじみとつぶやいた。
実際、千以上の別働隊というのは、ちょっと無視できる数ではない。
そのうえ、敵は船を持ちこんでいる。遣わされた兵数がもっと少なければ、対応に苦慮していたところだ。
だが、多目六郎。
このあまりにも若い天才は同意しない。
「でも、実際のところ、敵の実数は分からない。船団は味方を多く見せるための偽装で、実際はごく少数しかいない。そんな可能性もあるんだ」
「なるほどねぇ」
盛昌はうなずき、論理に穴は無いか、思考を巡らせる。
この男、若いわりに手堅く、自分の足元がよく見えている。
だからこそ、伊勢宗瑞は天才児であり、時に危うさを見せる多目六郎と組ませたのか。
「……六郎。あれが偽兵だとしたら、敵の狙いは?」
「ボクたちの足止め、だろうね」
ややあって、盛昌が発した問いに、少年は即答した。
「――たとえば、百やそこらの兵で、ボクたち二千の兵を拘束できるなら、それだけ本陣での戦が有利になる」
「ふーん。なら、あれが偽兵じゃないとしたら、敵の狙いは?」
盛昌は問いを重ねる。
多目六郎も、この疑問に答えるには、しばし時を要した。
「……まず、江の島道を通っての鎌倉攻めを防ぐこと。それから、船を使い、迂回して伊勢軍の後背を衝くこと。あと、これは考えたくないんだけど……」
一度、言葉を濁し。一呼吸置いてから、少年は言葉を押し出した。
「――玉縄城一夜取り。あれの再現を、狙っているか」
大道寺盛昌の顔色が、即座に変わる。
玉縄城一夜取り。あの出来事は、伊勢家にとって、それだけ衝撃的だった。
「まさか……いや」
頭を振りながらも、大道寺盛昌は、可能性を否定しきれなかった。
◆
「もちろん、狙ってますよー」
片瀬浜対岸。三浦水軍船上。
満月が照らす浜辺で戸惑う伊勢軍を見やりながら、エルフの少女は口の端をつり上げた。
「狙いは大庭城かな? 高麗山かな? それとも小田原城? 全部狙えるねー」
意地悪くつぶやきながらも、長い耳は上機嫌に上下している。
「奥方さまも意地の悪い。そう思わせること、そのものが狙いでしょうに」
「なんの。こっちは身を切るようにして兵を分けたんだから、あっちも悩んでもらわなきゃ。たぁっぷりとね」
エルフの少女は意地悪く笑った。
笑いながら、武田の割菱の入った紙漆の軍配を手の内でもてあそぶ。
本当は鉄の軍配を作りたかったのだが、自分の腕力を鑑みて、断念したのだ。
「妙な人だ」と、出口茂忠がため息をついた。
彼に、いや、三浦衆にとって、彼女ほど不可解な存在も居ないだろう。
およそ夫人がすべき、あらゆることを苦手としながら、政治、軍事において、その見識の高さは三浦家の英雄、荒次郎に等しく、財政分野においては魔術的な手腕すら持つ。
夫婦仲はきわめて良い。
閨のことは熱心ではないようだが、当主荒次郎とは常に一緒に居る。
三浦家にも全面的に好意を示してくれており、ときには実家の都合よりも三浦家の利を優先させている。
これで、男子を産んでくれれば言うことないのだが、と、娘を荒次郎の側室に入れている出口茂忠すら思っている。
ほぼ手放しの評価だが、実際、初音の実績を鑑みれば、妥当と言えなくもない。
“残念”という、極めてまっとうかつ重要な評価要素が、すっぽりと抜けているだけで。
◆
再び対岸。伊勢方大道寺・多目分隊。
対岸の三浦兵の動きに頭を悩ませていた彼らのもとに、本陣からの伝令が駆け込んできた。
――夜半、鎌倉方本陣に渡河奇襲を行う。
短い言伝に、大道寺盛昌は思わず問い返した。
「え、こんだけ? 大殿からほかに指示は……」
「あるわけないでしょ。ボクたちは分隊の動きを完全に任されてるんだから。夜襲に連動するもよし、待つもよし……どうする?」
大道寺盛昌はしばらく、考えてから。
「攻めたい」
そう、はっきりと言った。
「――数が多かろうと少なかろうと、敵の手に五十艘の船があるのは事実なんだ。こっちに船がない以上、後手に回るのはマズい」
「ボクも同感……それに、あの船団、どこかへ行くなら、無視してもいいんだ」
多目六郎は思わぬことを言う。
「――大殿たちの渡河後に、境川を遡って挟み撃ち。これだけはマズいから、それさえ防げればいい。後方には、数は負けてるけど伊豆水軍がいる。それが破られて、中入りされても許容範囲だ。その間にこっちは鎌倉軍を挟み撃ちにすればいい。そうすりゃ絶対勝てる。余勢を駆って鎌倉入りすることも無理じゃない。城のひとつやふたつ取られても“鎌倉を落とす”ことの意義に比べれば、誤差として無視していい敗北だよ」
「なるほどねえ」
多目六郎の口調には、得意も自慢もない。
――あの六郎が、変わるもんだ。
彼を窮地から救った大道寺八郎兵衛は、大道寺一門として、この舞台に随行している。
八郎兵衛に視線で礼を送りながら、盛昌は伊勢家のために、この天才少年の成長を喜んだ。
それから、相談の末、二人は渡河を決めた。
時刻は深夜。奇しくも本陣の作戦開始と同時刻。
伊勢軍分隊は干潮を待って、徒歩での渡河を開始した。
「さあ、相手が誰だか知らないけど、いまのボクに、隙なんかないんだからね!」
不敵に笑う多目六郎は、敵大将が真里谷初音――一度彼を負かした相手だということを、知らない。
◆
「――来たっ」
渡河の準備を始める伊勢軍を視て、エルフの少女は待ちかねたように言った。
「応じますか?」
「ちょっと待って」
副将の出口茂忠に言うと、少女は船上で立ち上がった。
絹糸のような細く、長い金髪を浜風に揺らしながら、軍配を手にする、小袖打掛姿の少女。
船に潜む一千の三浦兵が、蒼ざめた光の中、なお青い光で視線を向けてくる少女の美しさに、思わず息をのんだ。
「みんな、聞いてほしい」
神々しいほどの美貌を持つ少女は、口の端を釣り上げながら、三浦衆に向けて軍配を一振りする。
「――私は、三浦家当主、荒次郎義意の妻であり、
初音は一息に言うと、敵陣に向き直った。
その背に、三浦衆の畏敬と尊崇の視線が集まっていることに、彼女は気づかない。
ただ、無心に、一心に。彼女が見つめるのは、目の前の戦だけ。荒次郎から任された、真里谷初音の戦場だけだ。
少女は不敵に笑い――つぶやく。
「さあ、私の戦の……始まりだ」
恐怖はある。
だが、それ以上に、小気味良い興奮が、彼女の体を駆け廻っている。
大軍師、真里谷初音。その名を偉大なものとするための栄光への
負ける気は、微塵もしなかった。
一刻後。
伊勢宗瑞の夜襲に浮き足出つ鎌倉方本陣に、「御味方敗北」の報が飛び込んできた。
◆用語説明
新田義貞……足利尊氏のライバル。鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府を滅ぼしたひと。
出口茂忠……三崎城城代。三浦水軍を預かる三浦家一門。荒次郎側室、出口冴の父。
武田の割菱の入った紙漆の軍配……紙に漆を塗り、仕立て上げた軍配。エルフさんの実家の真里谷家は甲斐源氏の分かれなので、家紋は武田の割菱。
栄光への階……エルフさんの見た幻想。
負ける気は、微塵もしなかった……なのでヘタレない。
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