第32話 両者/相対/英雄問答
永正12年3月8日、
率いるは伊勢家譜代、伊豆衆、相模衆。あわせて五千。
万一を考えて小田原に残した嫡子氏綱と、諸方に対する最低限の備えは残しているものの、伊勢家の全戦力といっていい。
加えて、
総勢九千の大軍は、鎌倉征伐を謳い、進路を東にとる。
行く手をふさぐ
――対岸に、敵兵あり。その数四千。
風魔の報を、宗瑞はすでに受けている。
渡河点である
「――荒次郎め、素早いわい」
賞賛の言葉を送りながら、宗瑞も
敵の備えに遅滞があれば、夜半に渡河奇襲する手もあったが、相手に油断は無い。
「明朝、未明に渡河を行う。支度せい!」
命じてから、宗瑞は陣屋として手配された家に行き、腰を下ろした。
体を休めながら、老いた梟雄は、脳内に戦図を描いている。
ややあって、主無き声が、彼の耳を打った。風魔だ。
「境川河口、江の島付近の海岸に、多数の船あり」
伊勢宗瑞は眉をひそめた。
敵の狙いを読みかねてのことだ。
「船の数、それに兵はどれほど居る」
尋ねたが、明確な答えは返って来なかった。
境川の対岸では、どうやら相当厳重な警戒網が敷かれているらしい。
――頭がなければ、これほど変わるか。
風魔の、ことに諜報面での弱体化は著しい。
風魔の“花”“鳥”“風”“月”いずれの組頭も、先代小太郎に準ずる実力の持ち主だが、新たな小太郎の腕は、それより数段劣る。
「これでは当主たりえぬ」
と、各組頭に風魔の運営を預けて、風間谷で修業に明け暮れている。
風魔の四組頭は名目上同格だが、それゆえに、組頭間で不和は避けられぬものだった。
特に、先代の当主は、破壊を信条とした性質の持ち主だった。それゆえ、風魔全体に、破壊を上とし、諜報を下に見る向きが、拭いがたくある。
先代風魔小太郎は、それでも当主として、諜報の重要性を承知し、これを軽んずることは無かった。しかし、当主を失ったことで、問題が一気に顕在化したのだ。
伊勢宗瑞にとっては苦々しい限りだが、新党首の思いもわかる。
諸事先代と比べられる立場にあり、経験も腕も組頭に及ばぬ。そんな者が当主に立てば、やはり組織は機能不全を起こすだろう。
結局、宗瑞は“次代の伊勢”のためにも、“次代の風魔”を万全にすることを選び、若き小太郎の我がままを看過している。
「しかし、ふむ。江の島、か」
梟雄は考えを巡らせる。
河口での渡河を防ぐためか、あるいは玉縄城一夜盗りの再現でも狙っているのか。
しばらく考えて、宗瑞は
「ぬしらの目で見極めよ。偽兵の類であるなら、渡河も許す。そのまま鎌倉へ攻め込むもよし、迂回して敵本陣を衝くもよし。ぬしらの裁量で、よいようにせよ」
と、かなり自由度の高い命令を与えた。
大道寺盛昌は若年ながら堅実極まりない性質で、多目六郎は、天才の類だ。危ういところがあるものの、一度大失敗をしてからは、性根が座ってきた、と宗瑞は見ている。
それから、ふたりと入れ替わりに、今川氏親が訪ねてきた。
老いた梟雄は腰を浮かせてこれを迎え入れ、手に入った情報を明かした。
話を聞き終えた今川氏親が口を開こうとした、ちょうどその時、報せが飛び込んできた。
それを耳にして、今川氏親、伊勢宗瑞の両雄は、目を丸くした。
――三浦荒次郎
「叔父御、面白いぞ。叔父御が行かぬなら俺様一人でも行くぞ」
今川氏親が面白がった。
伊勢宗瑞は、苦笑しながら頭を振る。
「これは、わしが会わぬわけにはいきますまい」
◆
「――来たか」
荒次郎はつぶやくように言った。
対岸には、多くの護衛に囲まれ、現れた老武者がある。
「
――伊勢宗瑞。それに、今川氏親で間違いないだろう。
荒次郎はそう決めつけて、数歩、前に出る。
随行してきた丸太衆の若武者たちが、抱え丸太の体勢のまま、荒次郎に従った。
「これは壮観なり」
戦場枯れの老いた声が、川辺に響いた。
周囲を支配するような、圧倒的存在感だ。
「――
「丸太衆だ。丸太を持たせぬわけにはいくまい。俺も持っている」
言うと、荒次郎は自慢の丸太を高く掲げた。
重さ二十貫近いと思われる丸太をひょいと持ち上げる姿に、敵味方から歓声が上がる。
「お主も力自慢をしに来たわけではあるまい。明日には干戈を交える間柄だ」
「うむ。では、伊勢宗瑞。貴方に問う」
荒次郎は相手がうなずくのを待って、川越しに問うた。
「ひとつ。貴方はこの関東をどう思う」
「乱世」
荒次郎の問いに、梟雄は即座に答える。
その答えにうなずきながら、荒次郎は問いを重ねる。
「ひとつ。貴方は
「衰えたる秩序の残滓」
「ひとつ。貴方は関東の武士たちをどう思う」
「庇護すべき存在」
「ひとつ。貴方は関東の民をどう思う」
「これもまた、庇護すべき存在である」
「ひとつ。貴方は相模をどうするつもりだ」
「決まっておる。鎌倉公方を自称するものを討滅し、我が庇護を与えるつもりよ」
五つの問いに、老雄は滔々と答えた。
続いて、今度は伊勢宗瑞が、問いを切り返しす。
「――わしも問う。ひとつ。お主はこの関東をどう思う」
「混沌」
同様に、荒次郎は即答する。
即答できるほどには、猪牙ノ助と、
それから、荒次郎を模したように、伊勢宗瑞が矢継ぎ早に質問する。
「ひとつ。お主は古河公方を、関東管領をどう思う」
「役目を忘れた、かつて秩序を司ったもののなごりだ」
「ひとつ。お主は関東の武士たちをどう思う」
「ともに新たな秩序を築いてゆく仲間だ」
「ひとつ。これも問おう。お主は関東の民をどう思う」
「国、そのものだ」
「……ひとつ。お主は相模をどうするつもりだ」
「鎌倉公方を慕う者すべてを受け入れ、新秩序を築きあげる」
すべて、荒次郎が発した問いと同じ。
それらすべてを即答した後、老いた梟雄は荒次郎の言葉を咀嚼するように視線を彼方に向け――そしてまた、口を開いた。
「お主の罪は五つある。聞くか?」
言いながら、伊勢宗瑞が荒次郎に向かって開いた手をかざした。
老雄の言いように興味を惹かれて、荒次郎はうなずく。
「聞こう」
「では、ひとつ。関東を混沌と称しながら、鎌倉公方を立て、あえて乱世に混沌の色を深めたこと」
言葉とともに、伊勢宗瑞の指が一本折りたたまれた。
「ふたつ。古河公方と関東管領に従うべき身でありながら、これに反旗を翻したこと」
二本目の指が折りたたまれる。吐かれる言葉は正しくも、厳しい。
「みっつ。お主は陪臣の身にありながら、鎌倉公方、扇谷上杉の権力を笠に、武士たちに強権をふるっておる」
三本目。梟雄は得物を逃さぬとばかり、荒次郎の矛盾を突いてゆく。
「よっつ。お主は民を国そのものと言いながら、国を乱し、民を苦しめておる」
四本目。荒次郎の言葉が、すべて否定されていく。
「最後に、いつつ。お主は新たな秩序と言った。言いながら、いまだ何も成していない。空言で人を惑わし、ただいたずらに相模を戦火に晒しておる!!」
五本の指がすべて折り曲げられた。
それは、握りこぶしの形。老いた梟雄は、それを荒次郎に向け、容赦なく叩きつけた。
伊勢側の陣より、歓声が上がった。
当然だ。荒次郎の罪を鳴らし、悪と断じることで、伊勢宗瑞はこの戦の正義を勝ち取ったのだから。
――ならば、こちらも返すしかない。
そう判断した荒次郎は、敵陣の歓声がおさまるのを待たず、声をあげる。
「では、俺も言おう。伊勢宗瑞、貴方には五つの罪がある!」
「ふむ。言うてみよ」
場が静まる。
荒次郎は考える。
このような時、三浦猪牙ノ助。
あの弁舌達者な政治家ならどう言うか。
一同固唾をのむ中で、荒次郎は口を開いた。
「ひとつ。関東を乱世と称しながら、その混乱に乗じて他国より侵略してきたこと」
荒次郎もまた、掌を突き出し、指を折っていく。
「ふたつ。古河公方、関東管領を、衰えた秩序の残滓と知り、もはや往時の秩序は取り戻せないことを承知でありながら、いまさらながらにこれを助け、関東の戦乱を深めさせたこと」
「みっつ。関東の武士たちを庇護すべき存在と見定めながら、その一部を追い、滅ぼし、得たものを私していること」
「よっつ。関東の民を庇護すべき存在としながら、他国より攻め入り、いたずらに関東をかき乱し、民を苦しめたこと」
立て続けに指摘した後、一息ついて。
それから、荒次郎はひときわ大きく、声を張り上げる。
「そして、いつつ。我ら相模の衆が秩序の寄る辺として戴く鎌倉公方を差し置いて、他国者が勝手に庇護をする。その傲慢さだっ!!」
今度は、鎌倉方より歓声が上がった。
伊勢宗瑞の正義もまた、否定され、悪と断じられたのだ。
しかし、荒次郎は心中、ため息をついた。
たがいに、たがいの正義を否定し、たがいを悪だと鳴らす。その不毛に。
そしてなにより、荒次郎は伊勢宗瑞が悪ではないと知っている。すくなくとも、戦国という時代が愛しているのは、旧来の権力ではなく、彼なのだ。
だが、荒次郎とて、時代の変化に対応すべく、あがいている。
時計の針を逆戻りさせる気は、荒次郎もまた、ないのだ。
だからこれは、
と、兵士たちの歓声を、より大きな笑い声が破った。
「がははははっ! 面白いことをしているな、三浦介っ!」
丸太衆を割って颯爽と現れたのは、鎌倉公方、
それを察してか、伊勢宗瑞のそばにいた今川氏親が、不敵に笑いながら前に出た。
「叔父御よ。辛気臭ぇ問答は終いだ。合戦だろう? もっと景気よくやろうぜ!」
足利義明と今川氏親。
ふたりの王者が、川を挟んで相対する。
再び訪れた沈黙。それを破ったのは、やはり鎌倉公方だった。
「がははははっ! ワシが鎌倉公方、
「俺様が駿河、遠江守護。今川家当主、今川
「貴様、他国の守護が断りもなく我が関東に兵を入れるとは無礼千万!!」
「許可なら取ったぜ? テメエと違って本物の関東公方にな!」
「とは言え、ワシは慈悲深い。我が両国を明け渡して
「こっちこそ! 関東公方の自称を捨てて関東から逃げるんなら、古河公方に突き出すのは勘弁してやるぜ!?」
今川氏親、四十三歳。三十手前の足利義明とは、ひと周りの年齢差がある。
だが、覇気と壮気は五分。丁々発止の応酬は、小気味良い熱を、両軍の兵士に沸き起こしていく。
「がははははっ! たがいに譲る気なしだなっ!!」
「違いない――なら、戦だな。明日にはそっちに渡って、手前に命乞いさせてやるよ!」
「がははははっ!
伊勢方が、吼えるように声をあげる。
鎌倉方が、負けじと雄叫びをぶつける。
熱狂は頂点となり、両者が河原から姿を消しても、しばらく止まなかった。
◆
陣屋に戻ってから、伊勢宗瑞は口の端をつり上げ、言った。
「さて……初手は夜襲といこうかね。よいですな、御屋形様」
明日の開戦を約束した今川氏親は、苦笑いを浮かべるしかなかった。
◆用語説明
丸太衆……丸太衆(真)。戦えるのかは不明。
重さ二十貫……75kgくらい。1.5青龍偃月刀。
覇気と壮気は五分……才気は8分2分くらい。
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