11 そしてイルマはノートを閉じた


 アトリエのあるB棟の玄関ホールを抜けると、僕は階段を駆け上がった。

 駆けながらキシの無事を祈る。

 あれは“混線”ではなく、ただの夢であってほしい。

 僕の“混線”の精度は、まだまだ低い。

 スポンサーのタマサカさんには申し訳ないけれど、“タンデムパートナー”の補助が無ければ、ただの夢か思い込みレベルでしかないのだ。


 地下鉄のホームからの転落も、トラックとの衝突も、僕は何度かキシを救出してきたつもりでいる。そして、つもりでしかない。あれらは僕自身が無意識に構築した可能性のひとつ、疑似体験ぎじたいけんに過ぎなかった。

 可能性は無数に存在する。少なくとも僕たちはそう思っている。

 そして僕はその可能性にも、“混線”しているのだそうだ。


 たとえばこの瞬間、階段を一段ずつ駆け上がる僕を、もうひとつの可能性である僕が、階段を一段とばしで追い越していく姿が、僕には見えた。

 一段とばしの僕は慌て過ぎていた。

 危ないな、と思った瞬間、案の定、もう一人の僕は足を踏み外して、踊り場まで転がり落ちてしまう。したたかに腰を打った錯覚の痛打つうだに、僕は顔をしかめて踊り場を振り返る。


 もちろん、そこには誰もいない。


 僕は今、可能性のひとつに“混線”した。

 混線と連想と想像と予測の違いと、その証明方法を僕は知らない。

 僕に分かるのは、今の“混線”はおそらく“タンデムパートナー”の補助によるものだろうということと、彼からの注意喚起ちゅういかんきらしい、ということだけだ。


 彼の精度は僕とは比べものにならないくらい、高い。

 実際、彼の場合は体験の“混線”ではなく“共有”と表現したほうが正しかった。僕は彼の“共有”に対して、絶大な信頼を寄せている。

 彼──と表現していいのかどうかは別として。




 僕がアトリエを覗くと、室内は夕焼けに染まっていた。

 開け放たれた窓、茜色あかねいろの空、金色の入道雲、背伸びするように伸びた影。

 まさに赤い光の洪水だった。

 夕暮れの赤と黒のコントラストの中、長く落ちた影の先に、黄昏たそがれにじっと魅入るキシの背中があった。


 彼の指先が撫でるように虚空こくうを滑っていく。

 スケッチをとっているのだ。記憶の中に。

 一心不乱いっしんふらんなキシの様子に、僕はすっかり声を掛けそびれてしまう。

 それとなく確認すると、キシの絵は無事だった。

 多少、タッチが荒れているけれど、無茶苦茶に塗りつぶされてはいないし、イーゼルごと倒されてもいない。


 そう、僕じゃあるまいし、キシはあの程度で自棄やけにならないし、悔しがったりもしないだろう。おそらく途中から僕の感情がまぎれこんで、“混線”の精度を落としてしまったのだ。

 相変わらずな精度の低さに、僕は苦笑いを禁じ得なかった。

 だけど、それは嬉しい苦笑いでもあった。

 無事で良かったと僕は胸をなでおろす。


 キシは音楽でもかなでるように、架空かくうの筆を動かし続けている。

 たのしそうだった。

 つられて僕まで絵が描きたくなるくらいに。

 キシなら大丈夫だと僕は確信する。

 こんな夕焼けの日に、死がつけ込む隙などあるはずがない。

 そんな暇があるならキシはきっと絵を描き続けるだろう。

 僕は無言のまま、そっとアトリエを出た。




 帰りにスーパーへ立ち寄った。

 精肉コーナーでさんざん考えあぐねた末、断腸だんちょうの思いで牛肉のパックをカゴに放り込む。おつとめ品で半額タイムセール六百八十円の焼き肉セットだったけれど、今の僕にできる最大限の謝礼しゃれいでもあるのだ。

 スーパーの袋をぶらさげて僕がアパートへ帰ると、室内は薄暗かった。


 「目が悪くなるよ」


 僕は電気をつけた。

 窓際のテーブルで書き物をしていたらしいイルマは顔を上げて眩しそうに目を細めると、「おかえりなさい」と言った。


 「ちょっと待って下さいね。すぐ終わりますから」


 言いながらジョークにしか見えないハイスピードで、ノートに文字をつづっていく。相変わらずその文字は英語でもなければスワヒリ語でもなく、僕が知るいかなる言語でもなかった。


 「また母星と交換日記?」

 「そうです。トレースして回収するために僕はここにいますから」

 僕は、へぇ、と返事をする。

 なにを?

 とは訊かなかった。


 この手の話でイルマの説明が僕に理解できた試しはないし、ひとたび話し出すとイルマは恐ろしく長口舌ちょうこうぜつなのだ。

 難解な説法せっぽうほど避けて通りたいものはない。

 僕はそそくさとキッチンへ退避たいひすると、戸棚からカセットコンロを引っ張りだして、イルマに呼びかける。


 「今日は焼き肉だよ」

 「珍しいですね」

 「まぁ、なんていうか……お礼かな。階段で助けてもらったし」

 どういたしまして、と軽い返事があった。


 「僕も鉄分不足でしたから──」


 イルマは鉛筆を置いて顔を上げる。


 「おつとめ品で半額タイムセール六百八十円の焼き肉セットでも嬉しいです」


 そう言って微笑むと、イルマはノートを閉じた。




   GIFT 1  (了)

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