10 発作


 「おまえら仲いいよな」


 “ボク”は自分の絵を壊す作業に熱中するあまり、話しかけられたことにしばらく気付かなかった。


 「……え?」


 “ボク”が振り返ると、スズキが笑っていた。

 何処か酷薄こくはくさのある笑みだった。


 「おまえとセマさんだよ。いつも一緒じゃん」

 「……気が合うから。なんとなく」

 「おまえら付き合ってんの?」


 スズキの質問にサイトウが派手な音をたてて噴き出した。


 「それはないっしょ。それは」

 「いや、でも今朝も一緒に来てたよな。方向的にセマさんちからじゃね?」

 「ちが……ちがう。今日はたまたまシャワー借りたんだ」


 言った瞬間、「しまった」と思った。

 彼らは“ボク”の言葉を額面通がくめんどおりには受け取らないだろう。特にこうした下世話げせわ憶測おくそくに関しては、中学生のように騒々しくなるのだ。

 予期した通り、二人は顔を見合わせると同時に叫んだ。


 「マジかーーーっ!!」


 “ボク”は慌てて首を振る。


 「ちっ、ちがっ、違っ、違っ。俺は何も。何もっ。セマ、同居人いるし。何も俺は、何も。そういうのじゃないんだ」


 “ボク”はいったい何を言っているのだろうか。

 こんがらがった糸のように、喋れば喋るほど支離滅裂しりめつれつな言葉が飛び出していって、余計に自分をあせらせた。

 顔に血が昇って痛いくらいに熱くなる。

 悲惨なまでの狼狽ろうばいぶりに、スズキとサイトウが失笑する。


 「ワリー。冗談。冗談」

 「スマン。もう分かったから落ち着けって」


 それでも“ボク”は、しばらく懸命に何かを主張した。

 “ボク”はともかくセマ──彼女の名誉のためにもゆずれなかったのだ。

 とはいえ“ボク”自身でさえ何を言っているのかよく分からなかったのだから、スズキとサイトウにしてみれば、なおのこと意味不明だったに違いない。

 二人は「分かったから、分かったから」と“ボク”の肩を軽く叩くと、苦笑しながらアトリエを出ていった。


 「あいつ見たか」

 「壊れ過ぎっしょ」

 「耳まで赤くなる奴、ヒサビサ見たわ」

 「ちがちがちがちがって」


 二人の声が廊下を遠ざかっていって、爆笑は長く尾を引いた。

 “ボク”に聞こえようが聞こえまいが、どうでもいいというき出しの無関心が、はからずして“ボク”を深く傷つける。

 そこには悪意さえない。

 彼らにとって“ボク”は空気なのだ。


 空気にてっしているのは“ボク”自身だけど、それでもその事実を人から知らされるのは、やはり辛かった。

 “ボク”はうつろな気分でキャンバスを眺める。

 それはもう絵ではなく、残骸だった。

 “ボク”の絵は“ボク”自身の手によって、手のほどこしようもないくらい、破壊されつくしていた。

 自分で壊しておきながら、今更になってそれが惜しくなる。

 沸々ふつふつと悔しさが沸き上がる。

“ボク”は自分の絵をイーゼルごと力任せに突き倒した。

 けたたましい音が響く。

 歯を喰いしばってじっと残骸を眺めた。

 ……悔しかった。

 悔しさのあまり呼吸さえ忘れていたのだろうか。

 急な息苦しさに、“ボク”は大きく息をついてあえいだ。


 ──発作だ。


 思った時には遅かった。

 喘いでも喘いでも、少しも空気を吐き出せない。まるで空気が凝固ぎょうこしてしまったかのように“ボク”の肺は停止した。

 窒息の苦しさに血が沸騰する。全身からどっと汗が噴き出して膝が戦慄わなないた。

 少しでも新鮮な空気をと、よろけながら窓辺に歩み寄る。


“ボク”は力いっぱい窓を開いた。


   ◆◆◆


 赤い光の洪水に目が眩んで、それで僕は目を覚ました。

 やはり僕は眠ってしまって、そして案の定、“混線”したのだ。

 ある程度、想定そうていしていたから、パニックにはならなかった。

 いつの間にか講義は終わっていて、既に教壇きょうだんに講師の姿はない。学生たちがちらほらと講堂からけて行くところを見ると、まだ終わって間もないのだろう。

 僕は教材を抱えて立ち上がると、足早に講堂を出た。


 アトリエは別棟の二階にある。

 たとえ落ちてもそれほど高さに危険はないと思う。思うけれど、本人に助かる意思がなければ、その限りでもない。

 ふらりと死に傾くキシの性質を思うと、怖かった。

 僕は足を速めて先を急いだ。

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