9 午後と語学と微睡みと



 僕とキシは午前の裸婦らふデッサンを諦めた。小休憩を挟んだ開始時刻に間に合わなかったのだ。

 中途半端に空いた時間をいつものアトリエでやり過ごし、コンビニのおにぎりで昼食を済ませた。


 油絵の艶だしを一通り終わらせてしまうと、僕は三時からのフランス語を受講するため、キシを残してアトリエを出た。

 僕は第二言語でフランス語を選択しなかったキシを、心底、羨ましく思う。

 だからと言って別にフランス語が嫌いなわけではないし、フランスに恨みがあるわけでもない。


 問題なのは午後からの語学講義という部分だ。

 午後からの語学ほど睡魔すいま猛威もういをふるう場所はない。ともかく眠くなる。人前で眠ってしまう訳にはいかない僕にとって、このフランス語講義は鬼門きもんだった。


 人知れず気を引き締めて、講堂に入る。

 僕の心情を余所に、堂内には午後の気だるさが充満していた。既に突っ伏して寝ている者までいる。

 パラパラと埋まった中からめぼしい場所を見つけ、僕は席についた。

 窓側の中段やや後ろ。

 そこが僕なりに考えた無難ぶなんで目立たない位置だった。

 あとは祈るほかない。


 居眠りしないこと。

 そして、うっかり“混線”しないこと、を。


 夢現ゆめうつつとは言うけれど、覚醒かくせいと睡眠の危うい拮抗状態きっこうじょうたいほど、恐ろしいものはない。うかうか居眠りなんかしようものなら、僕は“大混線”におちいってしまう。


 ありていに言えば、ただの寝ボケのようなものだけれど、僕のそれはいくらなんでもダイナミック過ぎる。

 もし講義中に今朝のようなパニックを起こしたら──。

 考えただけで寒くなる。

 僕はポケットからフリスクを引っ張り出すと、大量に口へ放り込んでバリバリと噛み砕いた。


   ◆◆◆


 「あー。ツマンネー」

 「ちと待って。今、Townで訊いてる」


 “ボク”の隣でスズキとサイトウが、気だるそうに喋っていた。

 セマがフランス語の講義に向かったあと、スズキとサイトウがアトリエに顔を出した。アトリエとはいえ講師の出入りもあまりないこの部屋は、ていの良い溜り場のようなものだ。

 制作に手をつけるでもなく見知った顔ぶれでダラダラと時間を潰すことも珍しくはなかった。

 サイトウはスマホを小刻みにタップしていた。メッセージアプリを使っているらしい。機械オンチな“ボク”から見ると物凄いタップ速度だ。


 「ダメだ。つかまんねー。バイトだとよ」

 「ヒロは?」

 「ムリ。課題ヤバイらしい」

 「マジか。マジで誰もいなくね?」

 「だなー」

 「かー。ヒマすぎ。マジヒマ。シヌ」


 スズキは天井をあおいだ。

 中途半端に腰掛けた椅子をグラグラさせながら、スズキは「ヒマ」と「シヌ」の二文字を反復しては、「ツマンネー」と呻いた。

 “ボク”はその三つの単語のどれもが苦手だった。暗に自分の不甲斐ふがいなさをなじられているようで、落ち着かない気分になる。結局のところ、不満と不機嫌のほのめかしは、周囲への気遣いの強要でしかない。


 スズキにその自覚がなくても、少なくともサイトウがツレ探しに奔走ほんそうする動機づけになったのは確かだ。

 サイトウはしばらく粘った後、ツレ探しを諦めたのか、動画サイトを開いてスマホの音量をあげた。

 今週、配信されたばかりのJ-POPが大音量で流れ出す。たいして広くはないアトリエ内で、曲は窮屈きゅうくつそうにくぐもって聴こえた。


 「これよくね?」

 「あー。これコチカレのオープニングじゃね?」

 「そそ。ここサビ。ヤバいっしょ?」

 「あ。ヤッベ。マジヤッベ。なんかしみるわ」

 「神っしょ神。でもさー、オープニングは神なんだけど主演ショボくね?」

 「そうか? わりとオレ的にはアリだわ」


 二人はしばらくドラマのキャスティングを批評しあうと、話題は女の好みに流れていった。

 “ボク”は極力、耳から音を締めだそうと努める。

 絵に集中したかった。

 さっきからずっと筆は止まったままだ。

 なんとか集中の糸を手繰り寄せようともがいたけど、“ボク”が懸命になるほど雑音はさざ波のように、集中を運び去ってしまう。

 掴めそうで掴めない集中の糸が、いたずらに“ボク”を苛立たせる。

 “ボク”は半ば自棄になって乱雑に筆を動かし始めた。

 キャンバスの色は心象を反映するように、じわじわと濁っていく。

 スズキは女子の採点にも飽きたのか、また「ヒマ」と「シヌ」と「ツマンネー」のエンドレスを再開した。


 ──何故、絵を描かないのだろう。


 “ボク”はちらりとスズキのスペースを見る。

 POP調のキュビスムとも言える幾何学的きかがくてきで派手なスズキの油絵が、イーゼルの上に置かれていた。

 “ボク”が知る限りこの数週間、一度も描き足された形跡はない。

 放置されたパレットの上で絵の具が筆ごとカチカチに固まっていた。

 パレットも筆もちょっとした名品で両親からの入学祝いだと、言っていなかっただろうか。余計なお世話だと分かってはいても、息子にたくした両親の想いに胸が痛くなる。

 どれだけ暇を持て余していても、スズキは絵を描く気にはならないのだ。


 苛立ちと腹立たしさに、筆運びが荒んでいくのが自分でも分かった。

 “ボク”は自らの手によって自分の絵がどんどん壊れていく様を、他人事のように眺めていた。

 数週間の努力を台無しにしていく作業は、たのしかった。

 そこにはサディスティックな興奮と、マゾヒストの愉悦ゆえつがあった。

 “ボク”は夢中になる。

 完成にしろ破壊にしろ、“ボク”には中途半端が許せない。

 壊すならとことん壊してしまいたい。致命的なぐらいに。

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