8 僕とイルマと壊れたラジオ


 「……ごめん」


 僕の謝罪にイルマは「いえいえ」と首を振る。

 イルマはいつも飄々ひょうひょうとしていて、怒るということがない。

 ただ飄然ひょうぜんとそこにいる。

 とてもよく出来た紙人形みたいに、彼はペラペラとしていた。

 なにせ宇宙人なうえに本人いわく世界征服を目論もくろんでもいるらしい。

 それだけの大志たいしがあれば愛用のラジオを壊されても、どうということもないのかもしれない。


 ラジオを壊したのは僕だ。

 “混線”のパニックで蹴倒けたおしてしまったのだ。


 「直せる?」


 「どうでしょうね」


 言いながらイルマはドライバーをひねる。

 最後のネジが外れると、まるで玉手箱たまてばこみたいにラジオは開いた。

 もちろん、もうもうと煙が立ちこめたりはしなかった。

 ただ整然と、拍子抜ひょうしぬけなくらいシンプルに、いくつかの部品が一枚の板に張り付いていた。

 僕にはそれがダンゴ虫たちの寝床ねどこに見えた。

 子供の頃、大きな石をひっくり返すと出てきた、虫たちの小さな世界。よくよく見れば道もあって部屋もある、あの小さなジオラマが子供心に楽しかった。

 イルマはダンゴ虫たちの背中をひとつひとつ順番になぞると、うん、と一人で頷いた。


 「ご飯粒があれば直せます」


 「食べるの?」


 僕はご飯を食べるダンゴ虫たちを想像した。


 「くっつけるんです」


 「だよね」


 つまり外れた箇所かしょのりかなにかで接着すればいいだけのことらしい。

 僕は引き出しから接着剤を引っ張り出して、イルマに放り投げる。


 「直せそうで良かった」


 「ええ。これがないと座標の確認が困難になりますからね」


 危うく遭難そうなんするところでしたよ、とイルマが笑う。

 ある日、イルマはゴミ置き場からトランジスタラジオを持ち帰った。

 アンティーク級の骨董品こっとうひんで、当然それは壊れていたけれど、イルマの修理でラジオは息を吹き返した。


 以来、イルマはそのラジオを座標スコープとして、とても大切にしている。何の座標を、どうスコープしているのか、もちろん僕には分からない。

 僕が知る限りそのトランジスタラジオは、AM放送とFM放送しか受信しないし雑音もひどい。古くてボロボロでなんの変哲へんてつもないただのラジオだった。


 「出来ました」


 イルマが、こつん、と音をたてて、ラジオをテーブルに置いた。

 ダンゴ虫たちの小さなジオラマは、再び暗がりの中に閉ざされたのだ。

 つまみを捻ると、ラジオは一際ひときわ大きくノイズを響かせてから、何処かの局のニュースを拾う。


 僕たちは我が家の数少ない家電の復活を祝って、じっとラジオに聴き入った。

 ニュースは国内事件とテロと紛争が続く中東情勢を伝えると、口早に株価を読み上げ天気予報へとうつる。予報は梅雨の終わりを告げていた。


 「暑くなりそうです」


 「真夏日だね」


 僕たちは二人そろって窓を見る。

 カーテンが風に膨らんで、夏の匂いがした。




 心底げんなりと、僕は百三十八段の階段を見上げた。

 美大に辿たどりつくにはこの苦行くぎょうのような階段を上るか、ぐるりと迂回うかいして正門側のだらだらとした坂を歩くかの二択にたくしかない。


 体力に自信のない僕にはどちらも重労働だった。

 僕は太陽がうなじをくジリジリという音を聞きながら階段を上る。

 僕の隣でキシもまた太陽に灼かれていた。


 電車通学のキシは本来なら正門側から大学に入る──はずだった。

 だけどキシは今朝の災難さいなんで遠回りを余儀よぎなくされた。

 トラックはキシをかなかった。

 そのかわりになのか盛大せいだいに泥水をはね上げていったのだ。


 命の代償だいしょうとしては安いものだけど、頭から泥まみれになったキシはシャワーと着替えのため僕のアパートに立ち寄り、おかげで僕と一緒に百三十八段の階段を上がるはめにもなった。


 正午前だというのにコンクリートの階段は、陽炎かげろうにゆらゆらと揺れていた。今朝まで続いた雨の痕跡こんせきは、もう何処にもなかった。

 遠くでアブラゼミが鳴いている。

 僕とキシは無言だった。

 僕たちは元々あまり喋らなかったし、その必要も感じなかった。


 僕とキシは似ている。


 正しくは、“混線”している僕は近しい人間に似てしまう。

 相手の感性に“同調どうちょう”して感化かんかされてしまうのだ。

 僕はキシを自分以上に自分のように認識していた。


 キシを通して見る世界は僕が知る世界よりも、空は白く影は濃くて深かった。

 そして色々なものが鋭利えいりで痛かった。

 何気ない一言も、何気ない視線も、何気ない溜息も、何気ない笑いも。

 ただ生きるというだけで痛く、存在するというだけで苦しい。

 社交になんのあるキシにとって日常とは痛みだった。


 だからなのだろうか。

 キシは唐突とうとつに死へと傾いてしまう。

 あまりに唐突すぎて、キシ自身にも自覚はない。

 地下鉄のホームでも、横断歩道でもそうだった。

 痛みにえ兼ねて身をひねったその先に、たまたま死がある。

 僕はキシが死に傾くたびに彼を引き戻してきたし、これからもそうするつもりでいる。だけど──


 いったいいつまで続けられるのだろうか?


 影がさすように不安がよぎる。

 思考はいつもここで終わってしまう。

 僕とキシはそろそろ階段を上り終えようとしていた。

 額の汗をぬぐうと僕はいま来たみちを振り返る。眼下がんかに続く百三十八段の階段は、陽炎の中でうずのようにゆらめいて見えた。


 僕はひやりとする。


 それは確かに何かを暗示していた。

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