7 僕は混線している
キシは時々、
それは夏の通り雨みたいに
まるでキシの心象を映し込んだように、現実の空にも終わったはずの梅雨が戻った。街全体が雨にうなだれたまま四日を過ごして、湿気に溶けた絵具の匂いで僕の部屋は
油絵に使うテレピン油の匂いは強い。シンナーのように鼻につく。
あまりの匂いにとうとう絵具のプールで溺れる夢まで見た五日目の朝、ようやく雨は上がった。
窒息しかけていた僕は窓を全開放して風を招き入れる。雨上がりの匂いと見上げた雲の思いがけない勇ましさに、夏の到来を知った。
水をたっぷりふくんだ重たげな雲底と、真珠のような光沢で朝日を弾いてそそり立つ積乱雲。その見事な対比と
たいていの絵描きがそうであるように、僕も空が好きだった。
もし仮に少しも空に
あの白い雲の峰々の先、まだ見えないあの向こうに、
突然──本当に突然、僕は絵を描き始めた。
キャンバスも絵具も筆さえ間に合わないから、僕はただ何も持たない指先を虚空に向かって滑らせる。
衝動は道具の準備など待ってはくれない。
だから僕は大急ぎで心の中にスケッチをとる。
身体に馴染んだ作業は、道具の有無などものともせず、何の苦もなくリアルに再現されていく。
背景を
オフホワイト、アイボリ、スカーレット、バーミリオン、コバルト…
架空のパレットに散らばった絵具を、存在しない筆でこねあわせ、目当ての色を探り当てる。
それはひどく宝探しに似ていた。そしてそれは獣の喜びだった。
探索し追跡して、獲得する。
獲物を追い求める獣の衝動的で原始的な、それ故にあらがい
瞬く間に、僕はその喜びの
だからなのだろう、信号が点滅をはじめて赤に変わったというのに、“ボク”はちっとも立ち止まる気がしない。
チャコールグレイとホワイトのしましま
発進しかけた軽自動車がつんのめるように停車して、うるさくクラクションを鳴らした。
それが警告だなんて、“ボク”は思いもしない。
白いところさえ歩いていれば他のことはどうでもよかった。
“ボク”はアスファルトの──特に
“ボク”はひときわ弾みをつけて灰色を避けると、次の白を踏んだ。
また三度クラクションが鳴って、四度目に鳴りっぱなしになった。
うるさいな、と少し思った。
思った──と思う。たぶん。
だけど“ボク”には自信がない。
思考よりも先に、視界の右端から白い壁が迫ってきて、ごんっ、と鈍い音がすると、突然、世界は終わってしまった。
白い壁はトラックのフロントで、ごんっという
生々しいのにずいぶん他人事めいた
そうか、これが死の音なんだ、と僕は思った。ぞっとした。
「違うっ! わたしじゃない」
我に返って僕は叫んだ。
僕は壊れた玩具のように、「違う、違う」と繰り返す。そうしていないと恐怖で自分が散り散りに砕けてしまいそうだった。
なんど体験しても僕はこの“混線”に慣れることが出来ない。
僕は誤って室内に飛び込んでしまった鳥みたいに、壁という壁、物という物に、滅茶苦茶にぶち当りながら部屋中を走りまわった。
「これですか?」
イルマにスマホを差し出されて、それでようやく自分がスマホを探していたのだと知る。
イルマからスマホを引ったくると、もどかしいくらい何度も失敗しながら、なんとかリダイヤルを押した。
案外あっさり、三コール目でスマホは繋がった。
「──もしもし」
「キシっ!?」
「うん」
「キシっ!」
「そうだけど、どうかした?」
情けないことに僕は何を言って良いのか分からない。
様子を眺めていたイルマが、「焼き肉ですよ」と
落ち着いて、とキシが言ったその後ろで、けたたましいクラクションの音がして、キシが「はっ」と息を呑む。
「キシっ!?」
返答が
僕にとって永遠のようにながく、実際にはたかだか数秒のあと、「危ないなァ」とキシがぼやく。
「
僕は
それらは全てキシの感性だった。
僕は時々、自分と他人の境界を見失ってしまう。
タマサカさん曰く、それは特に珍しいことではない──らしい。
「タンパク質二十七パーセント、脂質十四パーセント、水分五十七パーセントで構成された、たかだか二ミリの皮膚組織が
知り合って間もない頃、タマサカさんは僕にそう説明した。
そうだろう? と目で問われ、タマサカさんという人物に圧倒されてばかりだった当時の僕は、散々しどろもどろに
正直、そういう問題なのだろうかと思わなくもなかったけれど、おそらくタマサカさんが
それにタマサカさんがそうだと言うのなら、きっとそうなのだろうと僕は思った。たとえそれが
タマサカさんとは、そういう人物だった。
それに僕は僕自身の特性について、無自覚で無防備で無責任だった。
自覚と責任を持って備えるには、その特性はちっぽけ過ぎたし、僕が僕である以上、備えようの無いことでもあった。
僕の特性を一言で表すなら、“混線”なのだそうだ。
もっとも、僕はタマサカさんに指摘されるまで、自分が“混線”しているなんて思いもしなかった。
人が知覚しているように僕は知覚し、僕が知覚しているように人は知覚している。僕はそう信じていたし疑ったことさえなかった。
「自分に見える青と他人に見える青が、同じ『青』であるとういう保証はどこにもない」
そうタマサカさんに指摘されて、僕ははっとした。
確かに僕は僕の目を通して見た青しか知らないし、その逆もまた
知覚の個体差について、タマサカさんはその
僕はその説明の半分も理解できなかったけど「知覚は脳が
視覚ひとつとってみてもそうだ。
眼の
眼球という球体を通過するゆえに、本来は光の屈折によって上下が逆転しているはずの画像を、脳は僕たちがすっ転んでしまわないよう、ちゃんと上下を
見方によって姿が
「全ては脳の
その匙かげん──感覚質と呼ばれる『クオリア』について、科学はまだ何も答えを出せていない。
僕が見ているように人は世界を見ているのか。
人が見ているように僕は世界を見ているのか。
知覚の個体差について、僕たちは何も証明のしようがない。
タマサカさんの
もちろん、タマサカさんはもっとましで気の利いた説明をしてくれたけれど、要約という論理への
なにせ僕という存在は、
突貫工事な僕はあちこちで混線しては、自分と他人の境界を見失ってしまう。
それが僕の特性だった。
「それは特に珍しいことではない」とタマサカさんは繰り返した。
どのくらい珍しくないのかと言えば、オスの三毛猫に比べればはるかにありきたりな程度に珍しくない──らしい。
残念ながらタマサカさんの例えは僕にはぴんとこなかったし、何故そこで三毛猫が登場するのかもさっぱり分からなかった。
正直、そういう問題なのだろうかと思わなくもなかったけれど、おそらくタマサカさんが謂わんとする本意もまた、「そういう問題」ではないのだろう。
それにタマサカさんがそうだと言うのなら、きっとそうなのだろうと僕は思った。たとえそれが
だから僕はただ「はい」と肯いた。
僕は混線している。
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