5 現実逃避



 「結局ただの現実逃避なのかな」


 今日のキシは笑わなかった。

 呑みかけの缶ビールを両手に包み込んで、そこに答えでも書いてあるように、じっと見つめていた。


 「俺には分からないんだ」


 気つけになのか、キシはビールを一口あおった。


 「皆が言う普通の楽しみを、どうやって楽しめばいいのか、どうしても分からないんだ」


 「ワタリが何か言った?」


 僕は共通の友人の名前を口に出した。

 ワタリは同じ美大のデザイン科に通う学生で、学年こそ同じだけど年は僕たちよりも二つ上だった。年上ということもあって何かと僕たちを気に掛けてくれる反面、絵ばかり描いているキシを、「現実逃避だ」と叱ることも多い。


 「ワタリは関係ないよ」


 キシは自嘲ぎみに笑う。


 「声をかけてくれただけだよ。カラオケ行かないかって。風邪ぎみだから断ったけど。たぶん風邪ぎみじゃなくても断ってた。苦手だから。そういうの」


 キシはまた一口だけビールを呑んで、「分からないんだ」と繰り返す。


 「俺も皆と一緒に雑談して冗談を言って笑って歌って騒いで、そういう普通のコミュニケーションを楽しめたらいいのに、俺にはそういうものを、どうやって楽しむのか、どうしても分からないんだ」


 キシは自分の不甲斐なさを責めていた。

 キシは言葉を選びすぎる。

 そして、どれほど苦吟くぎんして選んでも、全てが失敗に終わる。


 人と人との親交が言葉を介する限り、彼の平穏へいおんは望めそうになかったし、それを楽しむなど不可能に思われた。

 彼にとって会話は苦行くぎょうでしかない。

 こうして僕と話している時でさえ、微量の毒を服用したみたいに、キシは苦しげだった。


 言葉は不器用すぎるのだ、とキシは言う。あまりにも不器用で少しも心象を正しく伝えてはくれないからもどかしいのだ、と。


 イメージの中で得た広がりと奥行き、豊かな色彩は、言葉という四角い箱に詰められた瞬間から急速に色褪いろあせて死んでしまう。

 キシにとって言葉は概念がいねん墓標ぼひょうに過ぎず、墓標をいくら連ねてもおりのように鬱々うつうつとした不満ばかりがつのる。

 たった一言の失言が、まるで呪いのようにいつまでもキシを苦しめた。


 キシは潔癖けっぺきな欲求と生来の生真面目さをもって、足りない語彙ごいを探し、文学書や哲学書をむさぼるようにあさった。

 数百年、時には数千年もの昔に、彼のもどかしさを昇華しょうかしてくれる、媚薬びやくのような一言を発見するのは嬉しい驚きだった。


 中学時代、彼はその成果を級友たちに披露ひろうした。

 結果、キシの努力は「キモイ」という女子の一言であえなくくだかれた。


 級友たちは無数の語彙で概念を突き詰めていく会話よりも、極力、語彙を削ったシンプルな単語と大げさな感嘆符かんたんふで話す手法をよしとした。

 誰もが言及げんきゅうを避け、より曖昧あいまいに、よりらえどころなく、全ての意味を含み、全ての意味を含まず、どちらも向いており、どちらも向いてはいない、無色の位置を好んだ。


 無色という保護色と動機の不在によって薄まった会話は、もはや情報交換や知識の共有ではなく、テンポを楽しむスポーツだった。

 キシにはそれがボールの無い球技に見えた。


 皆が皆、見えないボールを追って、走り、蹴り、投げ、楽しげに騒いでいる。けれども、ボールの見えないキシには、その楽しさがどうしても分からない。

 時には見えるふりもしたけれど、彼の熱演は往々おうおうにして場を白けさせた。


 自分は人を不快にする。


 いつしかそう悟った彼は、中学を卒業する頃には誰とも口を利かず、誰とも関わろうとはしなくなっていた。

 キシは自分の意思で、『一人』を選んだのだ。


 「楽しみも人それぞれだしね」


 我ながらおそろしく月並みなはげましに、僕は自分の無能っぷりをぶん殴ってやりかった。


 「喋ることでフラストレーションを発散する人間もいれば、描く行為がカタルシスになる人間もいる。お互いがお互いに一体なにが楽しいんだろうって不思議に思ってる。ただそれだけのことだよ」


 「三島由紀夫がいうところには──」


 キシは淡々と切り出した。


 「"勝利は常に凡庸の側にある"んだよ。そして俺は思うんだ。勝者の都合こそ正義なんだって。──俺は正義に反している」


 僕は目を瞬いた。

 キシはストイックなまでに切り詰めたロジックを持っているから、唐突にそれに出くわすと面食らってしまう。

 言葉に詰まってしまった僕を置いて、キシは達観たっかんしたように続けた。


 「社交の不文律ふぶんりつを乱すから、沈黙は怠慢たいまんという悪で、一人は放擲ほうてきという罪なんだよ──だから俺が感じる生きがたさは、ナマケモノへの罰なんだ」


 キシは諦念ていねんまじりに吐き捨てる。


 「だとしても無理に合わせた所で、お互いにとっての不幸にしかならないよ」


 僕が言うと、キシは「お互いに」というフレーズを、口の中で転がした。まるで何かを味わっているようにも見えたけれど、あまり美味しそうではなかった。


 「──そう、俺もそう思う。俺は『不適合者』だ。だから俺は俺が沈黙する意味も、一人だという結果も納得しているつもりなんだ。俺は誰かの邪魔はしたくないし、誰かに邪魔されたくもない。お互いがうまくやっていけるように、俺は俺なりに努力もしてきた」


 「だから」と言いさして、キシは残りのビールを一息に呑み干す。

 仰け反った顎とあらわになった喉仏のどぼとけが上下する様は、毒杯をあおるソクラテスを想起そうきさせた。


 「皆にも、もう少しくらい──」

 「──黙っていて欲しいんだね」


 声にならなかった最後の一言を、僕が引き継ぐ。

 キシは肯いた。

 握ったままだった空の缶が、ペコンと音をたてて少しだけへこんだ。


 沈黙は人を不安にして、静かさが人を退屈させる。

 雑談、談笑、爆笑、人々のお喋りは現実だけでは喋り足りないのか、SNSやボイスチャット、動画の中でまで際限なく続く。

 世界は会話と音に満ちていた。


 「……時々、叫びそうに……なるんだ」

 「うん?」


 キシの声は小さくて、ほとんど聴き取れない。

 僕は感覚を“共有”して、彼の“声”にじっと耳を傾ける。

 キシは心の中で叫んでいた。


 静かにしてくれ。

 放っておいてくれ、と。


 喉から飛び出しそうになるその言葉を、彼は歯を食いしばって呑み下すのだ。

 「分かるよ」と僕が肯くと、キシはうずくまるように頭を抱え込んで、もごもごとささやいた。


 「叫ぶわけにはいかないから……だから俺は──」


 ──帰りたくなるんだ。


 「うん」


 ──何処かへ。


 「うん」


 キシは貝のように口を閉ざしてしまったから、僕はただ黙って彼の“声”を聞いていた。






出典『禁色』新潮文庫 三島由紀夫

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