4 帰りたい何処か



 「──セマ」


 不意にキシが切り出した。


 「うん?」


 僕は顔を上げてキシを見る。セマは僕の姓だ。


 「今日は、ありがとう。誘ってくれて」


 ぽつりぽつりとキシが言った。


 「過呼吸の発作がきそうで、危なかったんだけど……。セマが笑わせてくれて、助かった」


 キシは高校の頃から心因性しんいんせい過呼吸かこきゅうわずらっていた。頻度ひんどは高くないものの、ときどき具合が悪くなるのだ。


 「こっちも笑ってもらって助かったよ」


 「ああ。馬鹿にした訳じゃ……」


 慌てて言いよどむキシに、僕は「分かってる」と目で笑う。

 キシは自分の発言が失言の塊にしか思えないらしい。

 失言への恐怖が、たびたび彼の言葉を喉に絡めとってしまう。そうして言葉に詰まると、彼は災厄さいやくを呑み下すような悲壮ひそうさで、押し黙るのがつねだった。


 「……帰りたくなるんだ。どうしても」


 珍しくキシは続けた。キシの目と頬がほのかに赤い。キシはまだ半分も呑んでいないビールに酔はじめていた。


 「家にじゃなくて。もっと懐かしい……帰りたい何処かに」


 そうだね、と僕は肯く。

 しん、と会話が途切れた。

 僕は誰も箸をのばさなくなったカセットコンロのつまみを捻る。

 青白い炎が、ボッ、と一瞬だけ大きくなって、たち消えた。




 帰りたい何処か。


 それは、山と言えば川、開けと言えばゴマと唱える、他愛たあいも無い子供同士の合い言葉のように、僕たちにぴったりと馴染んだフレーズだった。


 親しくなり始めた頃、僕たちは創作の出自を探して徹夜した。

 僕にしてもキシにしても、物心がついた頃には、もう既に絵に、あるいは紙と鉛筆に取り憑かれていた。


 紙と鉛筆さえ与えておけば、何時間でも描き続けるものだから、手の掛からない子供ではあったけど、そのぶん心配もしたのだと周囲はこぼす。

 それだけ僕にとって描くことは身体の一部だった。


 だから、なぜ右手があるのかを問われても、答えようがないように、なぜ描くのかを訊かれても、僕は満足な答えを返せそうになかった。

 登山家ジョージ・マロリーみたいに、「そこにあるから」とでも言っておけばいいのかもしれない。たぶんそれが最もシンプルでしっくりする表現だ。

 それに正直、動機の言語化なんて僕にはどうでもよかった。


 それでもあえて創作の出自を、お互いに問うたのは、僕は僕自身の動機はどうでもよかったけれど、僕以外の誰かの動機には興味があったし、それはキシも同様だったからだ。


 僕たちはまるで答案を照らし合わせるように、お互いの動機を確かめあった。

 驚くべきことになのか、当然の結果と言うべきなのか、僕たちの創作の出所は、とてもよく似ていた。


 喪失そうしつ郷愁きょうしゅう


 端的たんてきに言えば、それが全てだった。


 何かが足りないという喪失感と、けっして満ち足りることのない欠落と、その欠落を補おうとする、死に物狂いの足掻あがき。

 ──そう、僕は足掻あがいている。

 キャンバスの中で、足りない何かを探して、見苦しいほど、じたばたと。


 絵具を塗り込め、拭き取り、また塗って、ナイフで削り、そしてまた塗る。そうやってもがき続けると、百にひとつか千にひとつの僥倖ぎょうこうに巡りあえる瞬間があって、奇跡のような色彩の一粒をキャンバスに刻み込む。

 その無限のような反復はんぷく結実けつじつするとき、僕の絵は完成する。


 情けない話だけど僕は未だかつて一度も自分の絵に納得したことがない。そういう意味で、僕はまだ一枚も絵を完成させたことがなかった。

 まだ足りない、まだ届かない、という半ば本能のような声にかき立てられて、僕は性懲しょうこりもなく真っ白なキャンバスの前に立つ。


 いったい何が足りなくて、何が届かないというのだろう。


 それは単なる審美眼的しんびがんてきな美しさや芸術性の問題だけではなく、もっと人間の本質に深く根ざした、それこそ僕とキシが郷愁と呼ぶ何かだった。 


 「現実は喪失いう痛みを抱えた不治ふじの病なんだよ」とキシが言った。


 ニーチェ全集を愛読書に持つキシは、時々、厭世的えんせいてきな詩人のようになる。

 「キモイ」と笑う人もいるらしいけれど、僕は嫌いじゃなかった。


 「何を無くして、何が足りないんだろう?」


 僕が尋ねると、キシは「分からない」と正直に答えた。


 「分からない。分からないけど、ときどき思うんだ」


 笑わないでくれ、と前置きしてキシは続けた。


 「俺たちには本来の故郷があったんじゃないかな。もちろん、生まれ育った土地のことじゃなくて、プラトンが言うところのイデア界みたいな、存在とか概念がいねんとか、ありとあらゆるもの全ての故郷。たましい──プシュケーが帰りつく何処か」


 不覚にも僕は笑ってしまった。馬鹿らしかったからではない。思わぬ贈り物を前にしてこみ上げる、あの笑いだ。

 笑われたキシは申し訳なさそうに眉を八の字に下げたけど、僕は「違うんだ」と首を振った。


 「同じこと思ってた」


 絵を描いていると現実が遠のいて意識が沈みこんでいく。

 すると僕は大海原おおうなばらとか大平原だいへいげんのような、おそろしく何も無くて、おそろしく見通しのいい、それでいて何処か懐かしい場所に立っていて、地平の彼方かなたをじっと眺めているような気分になる。


 僕はその辿りつくことのない彼方かなた──帰りたい何処かに向かって、絵を描き続けている。

 それはまるで祈りのような呪いだった。


 「職人も、画家も、小説家も、音楽家も、なにかをつくることに取り憑かれた人間はみんな、同じ郷愁に囚われた同士なんだろうね」


 僕の言葉にキシが肯く。


 「きっとそれが使命なんだよ」


 キシはどこか誇らしげに笑った。

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