3 僕とキシ


 僕とキシが知り合ったのは去年の春、入学直後のことだった。


 僕が通う美大では構内の何処かしらに学生用のアトリエがあてがわれる。もちろん一人で専有なんて贅沢が許されるわけもなく、複数人での共有スペースだ。

 一見、思い思いの場所で作業しているように見える学生たちも、運び込んだ画材の移動が面倒だったり、制作物やグループの都合があったりで、作業場にも縄張りがある。そうして出来た自分の縄張りを、『巣』と呼んだり、『牙城がじょう』と称して学生たちは面白がった。


 僕が自分の『巣』に選んだのは──結果的にいつの間にか『巣』になっていたのだけれど──中央棟の左、B棟二階にある小さな工房こうぼうだった。

 人の出入りが多い中央棟からもっとも遠く、静かでこぢんまりとしたところが、僕には居心地よかったのだ。


 おそらくは似たような理由なのだろう。しだいに同じ部屋に『巣』を構える顔ぶれが定まっていった。

 同じ画塾がじゅく出身だというスズキとサイトウという男子学生と、その二人に「委員長」とひそかに称される、いまどき珍しいおさげ頭に眼鏡のトキワさん。──そして、キシ。

 この四人が、いつの間にか馴染みの顔になっていた。

 初対面同士が親しくなるまでの、お互いが距離を探りあう微妙な期間は、もちろんあったけれど、僕たちはわりとすぐに打ち解けたほうだと思う。


 キシを除いては。


 キシはともかく寡黙かもくだった。

 雑談で盛り上がる僕たちを余所に、キシは黙々と制作に取り組んでいた。

 どれだけの爆笑が起きようとも微動だにしないキシの姿は、人生を透徹とうてつした高僧のように揺るぎなく、あまりの静かさに即身仏そくしんぶつに見まごうほどだった。


 挨拶しか交わさない日が何日か続いて、ゴールデンウィークを控えた週末、僕は課題の制作が立て込んで、閉館ギリギリまでアトリエにこもった。

 デザイン系の学科から、「世捨て人」とさえ呼ばれる油絵、日本画、彫刻のファインアート系の学科は、何を創るのかについて、あまり縛りがない。

 結果、基礎的な課題を除いて、制作物のハードルの高さを定めるのは、当人の判断によるところが大きい。

 連休明け提出の自主課題に、講評会用こうひょうかいようとは別に百号の油彩を選んだ僕は、どちらかと言えばハードルの設定がストイックな部類に入るのだろう。

 遅くまでアトリエを使っていたのは、僕とキシの二人だけだった。


 キシは相変わらず無口だった。

 僕がしゃっくりと見間違えたのでなければ、最初に小さく会釈したきり、彼は一言も喋らなかったし、僕も喋り掛けなかった。お互い背中合わせにイーゼルを置いて、僕は赤い金魚を、キシはクリムトの模写を黙々と描いた。

 もちろん、ずっと無言だった。

 だけど僕は沈黙に気詰まりを感じて、うんざりなどはしなかった。

 実のところ僕は嬉しかった。僕はキシの沈黙に、共謀者きょうぼうしゃの結束とも言える、密かな親しみを感じていたのだ。

 僕にも彼にも談笑は不要だった。

 僕は心おきなく沈黙した。

 静かだった。

 筆を持ち替える音。

 パレットが軋む音。

 ナイフでキャンバスをこする音。

 微かな衣擦きぬずれと息遣い。

 普段なら聞こえないような些末さまつな音が、冴え冴えと室内に満ちていく。

 互いが互いの熱中に呼応こおうしあうように、僕たちは作業にのめり込んでいった。

 世界は僕とキャンバスの中の赤い金魚だけになる。

 窓明かりが薄暮はくぼに沈んで、しぶしぶ電灯を付けたあたりまでは記憶にあるけれど、次に我に帰った時には、時計は二十三時三十分の閉館時刻をさしていた。

 その間の僕とキシの会話は絵具の貸し借りの一度きり。


 「ホルベインのイエローない?」とキシが訊いて、

 「あるよ」と僕が応えた。

 それだけだ。

 キシから話しかけられたのは、それが初めてだった。


 名残惜しさを感じながら、僕は道具を片付けて戸口に立った。

 後に続いたキシが、別れを惜しむように絵を振り返って、自然、同じことをしていた僕と肩を並べる。深い集中の後の高揚感こうようかんと、心地良い疲労感に浸りなが、僕たちはお互いの成果を確かめあった。


 「いい?」


 電気のスイッチに手をそえて、僕がたずねる。


 「いいよ」と気安い声で返事があって、僕はパチンと電気を消した。


 「ありがとう」


 キシが言った。

 視線はアトリエの暗闇を見たままだ。


 「うん?」

 「今日は──楽しかった」


 キシがはにかんだ笑顔で振り返って、つられて僕も笑う。


 「わたしも」


 僕とキシは友達になった。




 「七月ですよ?」


 キシと同じ台詞をイルマからも聞かされながら、僕たちは鍋をつついた。

 改札で捕まえたキシを拉致して、宣言通り鍋を敢行かんこうしたのだ。


 僕が住んでいるのは美大にほど近い二階建てアパートの三階で、それは本来、三階ではなく屋根裏と呼ばれるスペースだった。

 屋根裏と聞くとなんだか貧乏臭いけれど──実際に貧乏でもある──フロアのほとんどをぶち抜いたLDKの広さは相当なもので、しがない油絵科の美大生にとって、アリトエを兼ねた自室として、まさに理想だった。


 先輩からこの部屋を譲り受けた日、僕は有頂天になり過ぎて、うっかり床板を踏み抜いた。うっかりで床板を踏み抜けてしまうくらい歴史ある赤レンガ造りの洋館という外観もまた、おもむきがあって好ましい。


 そのわりに誰も住みたがらないのは、いくら正確に模写してもパースが狂っているとしか思えない建物の歪み具合に、命の危険を感じる人のほうが多いからなのだろう。

 この歪んだりたわんだりで、視覚を退屈させない味わい深さは、僕の望むところでもあったけれど、足りないものもいくつかあった。


 「せめて扇風機おきませんか?」


 はからずして足りないもののひとつをイルマが指摘した。

 そう――この部屋にはエアコンはおろか、扇風機さえないのだ。

 そして季節は七月。

 季節外れに強行された鍋は、カセットコンロの上で容赦なくぐつぐつと煮えたぎり、僕たちは全身でヒートアイランドを体感していた。

 当然、僕とキシは全身汗だくになって、砂漠を横断してきたキャラバンのラクダみたいに、水ばかり飲んだ。


 「置いて損はないと思いますよ」


 言うわりに、イルマは汗ひとつ浮かべていない。にもかかわらず、煮えたぎる鍋を誰よりも大量に食べたのも彼だった。


 「無理だよ。キャンバス特注したばかりだし……」


 にべもなく僕は答える。


 画材は高い。何が高いのかを問われても、答えに困るくらい、何かにつけて地味にも派手にも高く、気が付けば相当な額が画材代に消えている。

 細々と続けている画塾のバイト代だけではとても追いつかず、生活を切り詰めるしかない僕にとって、家電とはフィクションだった。少なくとも、そう思い込もうと努力はしている。


 取りつく島もない僕の様子に、イルマはあからさまな失望を見せた。

 彼はテレビもエアコンも洗濯機もない生活と、鍋の具材が白菜ばかりな貧しさを忌憚きたんなくなげきはじめる。

 「なら生活費いれなよ」という僕の主張を小川のせせらぎのように聞き流し、彼は窓辺にすがって夜空を見上げる。

 ネオンのこもった街の空には星ひとつなかったけれど、イルマは故郷の星に祈りをささげた。


 彼は宇宙人だった。


 「M78星雲エリドゥヌス座イプシロン星だっけ?」

 「トラジマ赤十字座じゃなかった?」


 僕の問いにキシが首を傾げる。

 宇宙人を自称するイルマの故郷はいつもデタラメで、聞く度に変わるから誰もまじめに覚えてなどいなかった。


 親切からの無関心なのか、不気味さへの敬遠けいえんなのか、ただ単に面倒くさいだけなのか、そんなぬるい温度の中で、イルマの自称宇宙人は受け入れられていた。


 僕たち美大生のような芸術家志望の中には、己の天才性の証明として、いかに奇人変人であるのかにアイデンティティを持つ者は少なくない。まれに『真正しんせい』らしき者もいる。

 そうした環境に慣れている僕たちにとって、自称宇宙人ていどなら可愛いものだったし、見た目も極普通の──多少、整い過ぎている感はあるものの──青年なのだから、誰も信じなくて当然だった。


 もっとも、イルマ自身は美大生ではないし、『狂言』でも『冗談』でもなく、『本物』なのだけれど……。

 『本物』であるイルマは祈りを終えると、今度はノートと鉛筆を持ち出して、冗談みたいな猛スピードで文字らしき記号をしたため始める。

 イルマいわく、母星との交信は、ノートを通して行われるのだそうだ。

 宇宙規模での交換日記ということになる。

 凄いのか凄くないのか僕にははかりかねたけれど、イルマはその後の一時間を故郷への通信についやし、僕はその間にドイツの民間療法みんかんりょうほうにかこつけて、風邪気味のキシにビールをすすめた。

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