2 駅までの距離


   ◆◆◆


 カタンと筆が転がった。

 筆先のカーマインの赤が、点々と床を染めていく。

 まるで凶兆きょうちょうのような、と形容できなくもなかったけれど、すでに床板は吉凶きっきょうを問わず色とりどりの絵具に染まっていたから、凶兆というよりは──


「爆発ですか? 芸術の」


 僕の印象を引き継いでイルマが言った。

 イルマはラジオから流れるシェスタコービッチをBGMに、右に黒猫、左にバナナを抱え、ラオコーンのようなポーズで窓辺に座っていた。


 いろんな意味で、ど迫力だった。


 貧乏美大生の僕にとって、無償でモデルを務めてくれるルームメイトの存在は有り難かったけれど、この同居人のポーズがまともだったためしは一度もない。

 ありとあらゆる奇妙なポーズの数々を前に、彼なりの誠意なのだろうと、善意に解釈することで、僕は彼の奇抜きばつさを受け流してきたし、これからもそうするつもりでいる。


 だからなのだろう。ラジオが三時の時報を鳴らすと同時に、彼がおもむろにモチーフのバナナを食べ始めても、おやつの時間なのだと思うくらいで、別段、驚きはしなかった。


 僕はそそくさと筆を拾い上げ、パレットごとテーブルに放り投げる。そのままバネのように身体をひるがえし、バナナを頬張ほおばる彼を残して自室から飛び出した。

 その間、十数秒。

 イルマは何も訊かず、僕も何も告げなかった。

 僕たちにはその必要がなかったし、そもそもそんな余裕もない。

 飛び出した先は竪穴だった。

 そうとしか表現しようのない急勾配な階段。

 僕はそこを半ば踊るようにして駆けおりる。

 凶悪な傾斜もさることながら、殺人的なボロボロさも相当なもので、歪んだりたわんだりとなにかと忙しい。

 まるで登山難所のようなここが、自宅アパートの階段だというのだから、「いっそ梯子はしごにしてくれ」とののしりたくもなる。

 僕は漫画みたいに×印に板を打ち付けた段をとばし、心なしか斜めに傾いた最後の段を踏みしめる。

 そうして七月の陽光の下へ転がり出ると、僕は“ボク”──キシがいると思われる最寄りの駅に向かってひた走った。




 「大丈夫?」


 キシの救護に向かったのは僕だけれど、地下鉄の改札前で捕まえたキシに、開口一番で心身の安否を問われたのは僕のほうだった。

 人目もはばからず、鬼の形相ぎょうそうで突進してきた学友が、目前でつまずいてヘッドスライディングしながら転ってくるという不測の事態に遭遇そうぐうしたとき、その学友にかけるべき言葉としては至極しごくまっとうなものだと思う。

 むしろよく他人のふりをしなかったものだと感心した。


 「何かあった?」


 当惑ぎみなキシの問いかけに、僕は口を開きかけ慌てて閉じる。

 呑み込みきれなかった言葉が、「だぼ・・・ぶっ」という意味不明な音になって喉からもれた。


 「大丈夫?」


 ふたたびキシは心配と憐れみの表情で首を傾けた。

 肩が小刻みに震えている。僕のあんまりな様子に、噴き出しそうになるのを必死でこらえているのが分かった。


 なにせ僕は、一つの柵と二つのフェンスと三つの生け垣を乗り越え、百三十八段の階段を駆け上がり、大学構内を突っ切って、知り合いに呼び止められる度に、謝意しゃいとスペシウム光線ポーズの融合した謎のジェスチャーを残して、駅までの最短コースを駆け抜けてきたばかりなのだ。


 髪は台風の後みたいにボサボサだったし、服と靴は秘境の密林から戻った探検家なみに泥と草にまみれている。どう控え目に見ても、ボロボロな、としか言いようのない有様だ。

 しかも走るのに手一杯で、キシを呼び止める口実を用意していなかった。

 僕は疾走しっそう直後の真っ白な思考に万力まんりきをかけて、なんとか口実をひねり出す。


 「な・・・なべしない?」


 「七月だよ?」


 とうとうキシは噴き出した。

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