1 こんな日は


   ◆◆◆


 わっと人の波が押し寄せてきて、ボクは雑踏に呑み込まれていった。

 多過ぎる人の数は、いつもボクを打ちのめす。まるで波間のもくずにでもなったような気がするのだ。


 ボクはうつむきかげんに地下鉄の階段をおりた。

 すすけたウォームグレイのタイル。カドミウムイエローの点字ブロック。黒と灰色に沈む券売機やエスカレーター。無数のケータイの着信音と、無限のような靴音と話し声……

 無謀むぼうな密度で煮詰められた構内の空気が、ボクの神経をなぶるようにさいなんだ。


 風邪ぎみなのだろうか。

 ボクは今朝から具合が悪かった。

 こんな日は危ない。


 それは分かっていたけれど、午前の裸婦らふデッサンは課題の都合で外せなくて、デッサンを仕上げにボクは通学した。

 流れで午後からの美術史学の講義にも出席したものの、それが限界だった。三時からの解剖学には出られそうもなくて、ボクは荷物をまとめて家路についた。


 美大の最寄り駅。いつもの地下鉄。通い慣れてはいても地下鉄は危ない。


 それはボクも自覚していた。


 だからといって、どうにかなるものでもないのだ。

 諦めとも、開き直りともつかない感情が、ボクを自棄やけにする。

 何かの警鐘けいしょうのように、チリチリと胸が痛んだ。


 ──ああ。来るな。


 呟いた刹那、

 ぐっと天井が低くなって人の密度が増す。

 両端から壁が、上からは天井が、ジリジリと迫ってきているのだ。


 この場所は狭すぎる。


 早く逃げ出さなくては、と気持ちは焦るけれど、ボクの足は悪夢の中の逃げ足のように重い。

 もっと先を急ぎたいのに、前を歩く人の波がボクの行く手を阻んだ。


 壁が、全ての壁が迫ってくる。

 上も下も右も左も。

 逃げられない。逃げられない。逃げられない。


 ドクドクと心臓が鳴って、じっとりと冷たい汗が全身からふきだした。

 ボクは空気を求めて切れ切れにあえいだ。

 分かっている。

 分かっているのだ。

 世界は狭まってなどいない。

 だけどそうとしか言いようのない圧迫感が焦燥しょうそうになってボクの心臓を焼いた。

 ボクは呼吸を整えようと、喘鳴ぜんめいを上げながら不器用にあえぎ続ける。

 あえぐたびに呼吸は小さく細かく千切れていく。

 まるで空気に溺れる魚のようだ。

 心臓があがくように脈打って酸素の不足を訴えた。ふきだした汗と一緒に強張こわばった冷たさが、手足の先端からゾロゾロとい上がってくる。


 ボクはその感覚を『ソクラテスの毒杯どくはい』と呼んでいた。


 確かにそれはプラトンが書き残した師の最期に酷似こくじしている。恩赦おんしゃを拒み自ら毒杯をあおったソクラテスに執行人しっこうにんは教えた。


 その冷たさと硬さが心臓に達した時が死だ、と。


 もちろんボクはソクラテスのように毒杯を煽ったわけではないし、流行りの怪しげなドラックをたしなんだわけでもない。

 ボクはボク自身の体内物質と、その構造によって自壊しつつあった。

 

 ──気のせいだろ。


 記憶の中の声が言う。

 

 ──気にし過ぎだ。どこも悪くないじゃないか。


 分かってる。そうだ気のせいだ。ボクはどこも悪くない。


 ──頑張れ。


 はげましの声に背中を押され、なんとか改札口を抜ける。

 どれだけ心が散り散りになろうとも、ボクは頑なに平静を装い続けた。

 手負いの獣がそうであるように、自分が弱っているという事実を、周囲に知られたくはないのだろう。

 ボクは息も絶え絶えにホームに辿たどりついた。

 ふらりと立ち止まった先、わずか数歩むこうに、むき出しの線路が黒々と横たわっていた。


 トンネルを鳴動めいどうさせながら、向かいのホームに電車が入ってくる。

 爆音のようなとどろきと悲鳴じみたブレーキ音が、怒涛どとうのように襲ってきて、ボクの憔悴しょうすいしきった神経を根こそぎ引き千切って、すり潰してしまう。

 大きすぎる音はボクにとって激しい痛みをともなう暴力に等しい。


 視界がぐらぐらと揺れだした。

 人も柱も壁も電車も、みんなぼやけて遠のいていく。

 暴力めいた轟音ごうおんが、ボクの中でボクが保っていた何かを折ってしまったのだ。


 轟音を引きずりながら、ふたたび電車がホームに滑り込んでくる。


 ぐらり、とボクの身体がかたむいた。


 誰かが、あっ、と息を呑む。


 パーンと警笛けいてきがなって、ライトの光が視界いっぱいに広がった。

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