第13話 あくと12

「のう、仁。学校というところは面白そうじゃの」

 空き教室に向かっていく途中でヒメがそう仁に声をかけてきた。

「どうだろう。ヒメにとってはそうなんだろうね」

「うむ。妾はこれからの生活、楽しみじゃ」

 空き教室に着くと、仁は扉を開けた。なにやら埃臭い。使われていない教室というものは、独特の空気が流れているような感じがした。

「さ、早く、机と椅子を持っていこう」

 仁がそう言うと、ヒメは黙ったまま、じっとしている。

「どうしたの? ヒメ」

 彼女は顔を赤く染めて、こう言った。

「ここは、何かの折りに使えそうじゃのう」

 それは明らかにえっちぃことを想像して言った言葉だった。相変わらずヒメの思考はそういう方向に向いてしまうらしい。

 仁は反応に困ってしまう。どう答えていいか分からないので、黙って手ごろな机を持ち上げた。

「さ、ヒメは椅子を持って。椅子くらい持てるでしょ?」

「むう、話を逸らしおって。まあよい」

 ヒメはそう言って椅子を持ち上げた。そして、仁は重い机を持って、ヒメは椅子を持って空き教室から自分の教室へと、それを運んだ。

 教室に入ると、広野先生がこう指示をした。

「お疲れ様でした。それでは安藤くんの隣の列は安藤くんの隣のところから一つずつ下がってもらえます? そこの開いたところに安藤くんと清野さんが持ってきた机と椅子を置きましょう」

 広野先生の言うとおりに、仁の隣の列が彼の隣から一つ下がれば、そこに空白ができることになる。仁はうんしょこらしょと、机を運んで、そこに置いた。ヒメは椅子を持ってそこまでゆっくりと歩いていき、椅子を置き、そこに座った。

「お疲れさん。机、重いよな」

 机に座って一息ついた仁に只野が労いの言葉をかける。

「うん。本当に疲れたよ」

 仁はふうと息を吐いて、窓の外を見やった。彼の席は窓際で、だからこそヒメの話を止めようとするときにあのようなことを言ったのだった。

「さて、転入生の紹介も終わりましたし、ホームルームを始めますよ」

 休日明けということもあり、広野先生が多くの連絡事項を伝えた。そしてホームルームが終って、先生が教室から出て行く。仁は一息ついた。

 一時間目は古典の授業だ。広野先生と入れ替わりで、六十歳くらいの非常勤の先生が入ってきた。

 授業開始のあいさつ、いわゆる起立礼着席が終ると、仁はカバンから古典の教科書やノートなどを取り出す。どうやら、ヒメは教科書を持っていないようだ。

「あの、すみません」

 ヒメがそう言うと、古典の老教師はメガネの縁を手でくいっと持ち上げた。

「おお、すまんかった。転入生じゃったの。教科書はまだそろってないじゃろう。安藤、見せてやってくれんか」

 ヒメは机を仁の机にくっつけた。なにやら顔がにやけている。こういったこともヒメは嬉しいのだろう。

「さて、今日は源氏物語の桐壺じゃ」

 瓶底メガネの老教師は、教科書を開く。

「ふむ、安藤。最初のところから読んでくれ」

 いきなり当たってしまった。仁は立ち上がり、桐壺を読み始める。

「いずれのおおんときにか~」

 そこで、ヒメがこう言った。

「発音が違いますわ、仁くん」

 仁は少し戸惑いながら、読むのを途中で止める。ヒメは平安時代に生きていた人だ。だからそのころの発音やイントネーションを知っているはずだ。だが、そういった知識は古典の授業では必要ないものだった。

 ヒメは立ち上がり、仁の教科書を奪い取った。

「先生、わたくしが代わりに読んでもよろしいでしょうか?」

 老教師はきょとんとして、しばらく黙っていた。脳の指令が体に伝わりにくいのだろうか、数秒遅れて頷く。

「ふむ。ふむ。清野と言ったかの。読んでみなさい」

 ヒメは朗々とした声で、桐壺を読み始めた。

 それは京言葉のイントネーションのようでもあり、現代の人は普通使わないような発音の仕方だ。クラスメイトはあっけにとられた様子で彼女の朗読を聞いているようだった。

 ヒメが読み終わると、老教師は、ふむ、ふむ、と頷いた。

「なるほどのう。それは最新の研究で復元された当時の発音じゃないかの? 勉強熱心なのはよいが、これは大学の授業ではないぞ? まあいいじゃろ。座りなさい」

 そう言って老教師はメガネの奥を光らせた。

「いいえ、本当に当時はこう読んでいたのですわ」

「あ、ごめんなさい、先生。この娘は今まで閉鎖的なところで暮らしていたから、ちょっと変な知識がついちゃってるんです」

 仁のフォローに、老教師はまた、ふむ、ふむ、と頷く。

「よいよい。それでは安藤、そこのところを現代語訳してくれんかの?」

 なんでまた自分に当てるのか、と不満を感じつつも仁は立ち上がる。

「ヒメ、教科書返してよ」

 彼女は黙って教科書を手渡す。ノートには土曜日の午前中に予習した桐壺の現代語訳が書いてある。それを読みながら、仁は安珍と清姫の時代、平安時代のことを考えていた。

 ヒメは平安時代の人だ。そしてひょうたんに封印されて千年近く経っている。ひょうたんの中から世界の様子を眺めていたといっても、それはあくまで知識であって、実際に経験したことはないものだった。今、この世界に復活して、リアルの世界を一部といえども経験した。ヒメが作った、病弱で外の世界に出たことがない、名家のお嬢様という『設定』もあながち間違いではなかった。ひょうたんの中から世界の様子を見るのも、インターネットで世界のことを知るのもそう変わりはないのかもしれない。

 ヒメはにこやかな穏やかな表情で、仁が現代語訳を読んでいるのを聞いていた。

 授業はつつがなく進んでいった。ヒメは数学の授業も、英語のリーディングも、体育も無難にこなしていた。

 このまま何も起きなければいいけど、と仁は心配だったが、そこはもうヒメ次第だ。いざというとき止める自信は、彼にはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

すねいくがーる☆ぱにっく! ひぐるま れん @gogyoukasya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ