第9話 あくと8

 何があったのか仁にはさっぱり分からない。気がついたら、ヒメ、そして虹と名乗った少女が玄関に倒れている。自分はといえば、どうやら意識を失っていたようだった。青い蛇に咬まれかけて、それを法子の術に防いでもらって、それから。仁は虹のセリフを思い出した。自分はあいつに殺されかけていたのだ。もしあの蛇に咬まれていたら死んでいたのだろうか。そう思うと背筋がぞくりとした。

 虹がよろよろと立ち上がった。かなりのダメージを受けているようだ。仁が知らないうちにヒメと戦っていたのだろうか。あの摩訶不思議な蛇空間の中で。

「ふ、フフ。作戦変更……アル。清姫、ここは……一度退く……アルネ。これから……楽しくなる……アルナ」

 そう言って、虹は苦しそうに仁の部屋から出て行った。

 仁はなんとか気力を振り絞って立ち上がり、ヒメの方へと歩いていく。法子は複雑そうな表情でその様子を見ていた。

「じ、仁……すまぬ……う……ぐすっ……ぐす……」

 ヒメの瞳から涙が溢れ出していた。それはとめどなく溢れて、止まらない様子だった。

 蛇の妖怪ではなく、まるで弱弱しい少女のごとくに、ヒメは泣きじゃくっている。どうしていいのか、仁は分からなかった。玄関の片隅に、ヒメが持っていたカバンが投げ出されていて、そこからなにやら包装袋に包まれたものがはみ出ている。ヒメはボロボロの様子だが、何とか身体を起こし、そのカバンに手を伸ばす。

「仁……済まなかったの……妾は……仁が……その……小娘の……ぐすっ……こと……を……気に……かけた……のが……悔し……かった……の……じゃ……ぐすっ……じゃから、……じゃから」

 泣きじゃくりながらヒメはその袋を取り出し、開いた。二段式の黒のお弁当箱。それは仁がいつも使っているのと同じタイプのものだった。

「そうか、僕と仲直りしようと、お弁当を」

 仁は自分がいつもお弁当を手作りしていることを言わないことにした。ヒメに悪い気がしたからだ。

「う……む……明日……は……たの……し……みに……して……お……」

 そこまで言って、ヒメはぐたりと倒れこんだ。やはり虹との戦いでのダメージは大きかったらしい。

「……あたし帰るね」

 法子が、そう言って立ち上がり、玄関の扉へと歩いていこうとする。

「あ、法子、ごめんね。ありがとう。もしあの真言術がなかったら、僕は」

「いいの、仁を守るためにあたしはなんだってする」

 そう言って法子は微笑んで出て行く。その微笑に一抹の寂しさが含まれていたような感じがするのはなぜだろうか、と仁は思った。

 仁も今日一日いろんなトラブルに巻き込まれて疲れていた。だがヒメをこのままにしておくわけにはいかない。ヒメを抱きかかえ、そのままおんぶして寝室に運んでいく。ベッドに彼女を下ろすと、彼女はくたりと倒れこんだ。このままにしていいのだろうかとも思うが、仁もさすがに、それだけをするのが精一杯だった。

 カーテンの隙間から外を見やれば、すでに日は落ちて、暗くなっている。仁はソファーに座って、しばらくぼんやりと虚空を見つめていた。

 ――ヒメは本当に僕のことが好きなんだ。

 それはヤンデレ以前に、純粋に恋する乙女だった。その気持ちが行き過ぎてちょっと暴走してしまうだけなのだろう。千年前の安珍のときはちょっとの暴走では済まなかったのだが。

 仁は台所に向かうと、彼女のために何か作ってやることにした。ちょっと考えて、彼は『おじや』を作ることにした。確か冷凍したごはんが残っていたはずだ。ヒメの好きな卵を溶いて入れて玉子おじやにしてあげよう。彼女もきっと喜ぶはずだと仁は思った。

 手際よく、仁はおじやを作っていく。そして完成したおじやの入ったアルミ鍋を鍋敷きに載せて、それをさらにお盆に載せた。そしてお茶碗と匙もお盆に載せる。

できたおじやを寝室に持っていこうとして、仁はふと、シンクの水切り棚に置いてある自分のお弁当箱を確認した。それを、手に取ると、シンクの下に隠しておいた。ヒメの料理の腕がどんなものか仁は知らない。だけれども、仲直りのためにヒメはお弁当箱を買ってきて、自分にお弁当を作ってくれようとしている。その気持ちは踏みにじってはいけない気がした。

 ――なぜなんだろう、あんなに振り回されたヒメにこんな気持ちになるなんて。

なぜだか彼女が気になる。もしかして彼女に恋愛感情を抱いてしまった? 命を救われて。泣かれて。

いや、そんなことはないはずと仁はぶんぶんと首を横に振った。

 あまり深く考えないようにすることにして、仁はお盆をヒメの寝ている寝室に運んでいく。

 寝室の扉を開けると、ヒメがちょこんとベッドの端に座っていた。

「もう、大丈夫なの?」

 仁はそう言って、お盆をテーブルの上に置く。

「妾を舐めてはいかんぞ。回復力を人間と比べるのがおかしいわえ。……ん、いい匂いじゃな」

 ヒメはテーブルの上に置かれたおじやを見ると、ニッコリと微笑んだ。

「卵おじやだよ。その、さ。僕を救うために戦ってくれたんだしさ。悪いと思って。だから、食べなよ」

 顔を真っ赤にしてしばらく黙っているヒメ。

「どうしたの? 早く食べなよ」

 仁は、匙でおじやをお茶碗に入れてやった。

「のう、仁は妾のことを嫌いではなかったのかえ?」

「どうしてそう思ったの?」

「今までの態度から察することができるわえ。あの小娘のことを優先したしの」

 それは確かにそうだった。仁はヒメより法子を優先して、ヒメを置いて先に家に帰ってしまったのだ。それでヒメはとても悲しく思ったのだろう。あれだけ泣きじゃくって、それはヒメの純粋な気持ちの表れだった。

「嫌ってないよ。それに泣かせちゃってごめん。あ、あのさ、お弁当箱。ありがとう」

 ヒメの隣にそのお弁当箱は置かれてあった。

「謝らんでもよい、あれは今考えると恥ずかしいぞえ。それはともかく明日から一緒の学校に行くわけじゃしな。愛妻弁当を作ってあげようと思っての」

「ありがとう」

 仁は素直にヒメに礼を言った。彼女は匙でおじやを啜った。

「あつっ」

「慌てて食べるからだよ」

「ふーふーしてたもれ」

「……僕はそこまでデレたわけじゃない」

 仁がそういうと、ヒメはちょっと頬を膨らませた。

「分かっておる。しかし仁が妾のことを嫌っていないことを知って少し安心したわえ。今後期待が持てるというものじゃ」

「ねえ、あの虹っていう蛇の妖怪さ、また僕の命を狙ってくるのかな?」

「蛇精と呼べ。その可能性は大いにあるのう。じゃが、妾はけしてそなたを手放さぬ。きっと守ってみせようぞ」

 まるで仁がヒメの所有物のような言い方だ。仁は心の中で苦笑した。

「うん、僕も死ぬのは嫌だからね。そこのところは頼りにしてるかもね、ヒメ」

 仁がそう言うとヒメはニッコリ笑った。

「そなた、やはり安珍とは違うの。前の安珍ならこんなことはしてくれてないはずじゃ」

「僕は、安藤仁という、現代に生きる高校二年生だよ」

 そう言って仁も微笑んだ。

「うむ、安珍より転生体のそなたのほうがいい男じゃ! 妾は必ずそなたの心をつかんでみせるぞえ!」

 果たして自分はどうなるのだろうか、と仁は思う。もしかしてヒメのことを好きになってしまう展開もあるのだろうか? 明日は月曜日、学校だ。ヒメも転入生としてやってくるらしい。

 ――きっと嵐みたいな一日になるんだろうな。今日と同じように。

 仁は美味しそうにおじやを啜るヒメを見ながらそう思った。

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