第8話 あくと7

 ヒメは、虹の姿を確認したとき、やはりやってきたか、と思った。ただ、まさか虹が仁にあのような――彼の頬を舐めるようなことをするとは思っていなかった。

「待っていたアルね。清姫。おばあさまの言葉を伝えるアルゾ? 蛇界じゃかいに戻ってくるアルネ。東洋閥はお前の力を必要としているアルネ」

「やはりそうじゃったか。道理で妾の復活に女媧娘娘、貴様の祖母が力を貸してくれておったわけじゃ」

 ヒメは、女媧娘娘が自分に復活のための力を貸していた理由を大体察していた。

 だからといって、はいそうですか、と虹の言うとおりにするわけにはいかなかった。千年待ってやっと愛しい人に会えたのだ。仁と一緒にいたかった。

「で、どうするアルか? その様子だと戻りたくないに決まっているアルナ? ジンと仲直りしたいアルか?」

 その虹の言い方はなにやら挑発しているように、ヒメには思えた。確かにあの時、法子を優先した仁に腹が立って、彼の意思を無視してしまった。あの後、只野の説得の言葉を聞いた後、自分がちょっと短気すぎたと思った。だが素直になれなかった。だから仲直りするためにお弁当箱を買ってきたのだ。仲直りのしるしに明日、仁にお弁当を作ってあげようと思っていたのだった。だからここで虹の言うことを聞くわけにはいかない。

「蛇界には戻らぬ。妾の想いがどれだけ強いか、分かっておろう」

 ヒメの言葉を聞いて、虹がクスリと笑った。

「そう、アルか。それならば」

 虹がそう言うと、一匹の蛇が彼女の傍らに現れる。スレンダーな体型の、相当長い蛇だ。そしてそれは大きく口を開ける。口の中は真っ黒だ。

「う、うわああああああ!」

 仁が怯えた顔を見せ、情けない声を上げた。彼は蛇嫌いなので当然だろう。

 ブラックマンバ。

 ヒメはその蛇を見てその種類を断定した。咬まれると治療を施しても死亡する可能性の高い恐るべき毒蛇だ。

 ブラックマンバはものすごいスピードで仁に跳びかかった。

「おん・あろりきゃ・そわか!」

 その刹那、法子が真言を唱える。白い閃光とともに、ブラックマンバは弾き飛ばされ、壁に叩きつけられていた。

「貴様! 仁に何をするのじゃ!」

 ヒメは怒りに身を震わせる。

「もちろん、殺すアル。執着の対象を消してあげるアル」

 虹のセリフを聞いて、もう我慢できなくなった。

 ――虹を、殺す。

「フム。それならこちらも考えがアルね」

 虹の体から暗黒の霧が吹き出した。先に蛇空間を作りだそうとしたのだ。ヒメも発動していたが、どうやらあちらの勝ちだということを実感した。ここは自分の蛇空間ではない。薄暗い果てのない空間の中で、ヒメは辺りを見回す。どうやら仁やあの小娘は巻き込まれていないらしい。

「まず、妾を先に戦闘不能にする気かえ?」

 ヒメの言葉を聞いて、虹が頷いた。

「気づいたアルか。動けなくなったアンタの前であの少年を殺してあげるアル!」

 そんなことをして、なんになる、とヒメは思った。もし仁を殺されたとしたら、再び封印されたほうがマシだ。蛇界になど行かない。

 ヒメは蛇術を発動させる。一条の炎が彼女の上に巻き上がる。それは法子と戦った時と同じものだった。炎の蛇。だが、ヒメは舌打ちした。本当ならこの倍の大きさの炎の蛇を複数作り出すつもりだったのだ。だが、ここは虹が作り出した蛇空間だ。ヒメは本来の力を発揮できなかった。

 薄暗く冷たい空気の流れる蛇空間の中を、熱く明るく炎の蛇が首をもたげている。

 ――絶対に虹に勝つ。そして仁に謝る。

 ヒメは強い視線で虹を見据えた。虹は相変わらず冷たい笑みを浮かべている。先手必勝だ。炎の蛇は虹を食らい、灰燼にせんと殺到していく。

「水の蛇よ、ワタシを守るアル!」

 虹がそう言うと、彼女の前に数条の水しぶきがたった。それは虹の背丈の十倍ほどに吹き上がると、ヒメの炎の蛇術と同じように蛇の形をとった。これが虹の得意の蛇術。ヒメの炎の蛇術にとっては相性が悪いものだった。

 だが、それにかまわずヒメは炎の蛇を虹の作り出した水の蛇に殺到させた。力攻めでいくつもりだ。水が激しく蒸発する音が聞こえる。そして湯気が巻き上がった。このままいけば、虹を焼き尽くせるはずだ。

 だが、炎の蛇はなかなか水の蛇を抑えることができなかった。そしてだんだんと炎の蛇は小さくなっていく。このままでは、虹を倒すことはできない。

「ふん、その程度アルか。今度はこっちから行くアルね~」

 虹がそう言うと、虹の周りの水の蛇が、さらに大きくなる。そしてとうとうヒメの作り出した炎の蛇は消え去った。

 今度は自分の身を守らなければならない。再び蛇術を発動させ、炎の蛇を複数作り出したヒメ。しかしそれはヒメの背丈くらいしかない。

 水の蛇が、ヒメに迫る。

 ――もし自分が負ければ仁は殺される。

 もし法子と戦っていなければ、優位に戦いを進められていたかもしれない。一日に使える蛇力には限りがあるのだ。ここが虹の作り出した蛇空間の中であるということなど、ヒメにとって不利な条件が重なりすぎていた。

 水の蛇が、ヒメを守る炎の蛇を呑みこんだ。ヒメは、水の奔流の中で翻弄される。苦しかった。だけれども、仁を失う辛さに較べればこんな辛さは耐えられる。

 弱りきったヒメは、薄暗い冷たい空間で倒れこんでいた。ボクシングでいえば、ダウンして、カウントを取られている状態と言ったところだ。

「ワタシの勝ちアルね。さあ、諦めるアル!」

 勝ち誇ったような虹の声が蛇空間の中に響く。このまま仁は虹に殺されるのだろうか。いや、まだ終わっていない。ヒメの瞳が赤く輝いた。

「……だじゃ」

「まだ、悪あがきをするアルか。動けなくなるまで何度でも水の蛇を食らわせてやるアル!」

 弱弱しいヒメの声を聞いて、サディスティックに虹は微笑んだ。そして再び蛇術で水の蛇を作り出す。まるでヒドラのように複数の頭を持った水の蛇はヒメの身体を弄ばんと、襲い掛かった。

「まだじゃ!」

 ヒメのその力強い声に、虹は動揺の色を見せた。ヒメの体から幾条もの炎が吹き上がった。

 信じられないといった様子で、虹はそれを見ていた。だが、すぐに元の冷静な表情に戻って、水の蛇をヒメに殺到させる。

 だが、ヒメの蛇術によって作り出された炎の蛇は、その水の蛇を全て蒸発させんと、熱く燃え上がった。いくつもの炎の蛇が十メートル以上に伸びて、鎌首をもたげた。虹の蛇術は破られたのだ。

 仁を殺させはしない。ここで自分はやられるわけにはいかない。その思いだけでヒメは蛇力を保っていた。

 そしてその炎の蛇は一気に虹を襲う。ヒメは、炎の蛇に巻き込まれ倒れている、虹の姿を確認した。

 だが、自分も彼女に止めを刺す力が残っていなかった。さっきで蛇力を使い果たしたのだ。

「ウフフフフッ。そこまで……あの男が……大事あるか……」

 虹の声が聞こえてくる。ヒメは、答えた。

「……あたり……まえ……じゃ。仁に手出し……する……やつ……は……ゆる……さぬ」

「フム、面白い……アル」

 そう虹が言うと同時に、彼女が作り出した蛇空間が消えた。マンションの仁の部屋の玄関にいることにヒメは気づく。

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