第7話 あくと6

 マンションのオートロックを解除して、仁は自分の部屋に入った。ヒメがこっそりついてきていると思ったが、どうやらそんなことはなかったようだ。本当に只野と一緒に遊んでいるのだろうか。いや、そんなはずはない。彼女が一人でヤケになってトラブルを起こしてなければいいが、と仁はちょっと心配していた。

 仁は法子の様子を見るために、寝室へと音を立てないよう歩いていく。扉を少し開けて中を見ると、法子はすやすやと寝息を立てていた。

 それを確認して、台所へ行き、冷蔵庫に入っている米袋を取り出した。仁は米からおかゆを作るつもりだった。これは法子をほってヒメと一緒に遊びに行ったことに対するお詫びでもあった。米をボールに入れ、適量の水につけておく。

 米を水につけている間、仁は法子の側にいることにした。起こさないよう、静かに部屋に入る。カーテンは締め切った状態で、その隙間から僅かな昼の陽光が漏れているのが分かった。仁はそっと法子の眠るベッドの側に座った。

 いろいろなことが頭の中を回る。法子のことももちろんだが、ヒメのことも心配だった。昨日の夜からあれほどひっぱりまわされた彼女のことが心配なのはなぜだろう。きっと彼女は只野とは一緒にいないだろう。もしかしてもうマンションの近くに来ているかもしれない。ヒメのことだ。もしかしたら気配を感じさせずついてきているかもしれないのだ。だったらヒメは法子の近くに座っている仁をほうっておくわけはない。やはり近くまでヒメが来ていると思った。仁は、立ち上がり、マンションの入り口に歩いていった。扉を開けて、様子を確認する。ヒメは、やはりいなかった。なぜ彼女のことが気になってしまうのだろう。そうこうしているうちに三十分が経っていた。

 仁は台所に向かうと、水に浸けておいた米を、ボールからザルに上げて、一度水を切る。土鍋にその米を入れて、水をカップで量って、適量を注ぎいれた。全がゆなので、米と水の割合は米一に対して水は五だ。

 仁はおかゆを作りながら、一年前のことを思い出していた。こっちに来たばかりのころ、法子が風邪をひいたことがあった。その時も彼はネットで作り方を調べてから米からおかゆを作ったのだった。できたものはひどかったが、彼女は喜んで食べてくれたものだった。

 強火で沸騰させ、弱火にして、土鍋の蓋をずらす。あとは一時間炊き続けるだけだ。

 仁は法子の様子を見に、寝室に向かった。未だ彼女は目覚めていない。ヒメの言ったように夕方には目覚めるのだろうか? そして玄関にも向かう。ヒメは戻ってくるのだろうか? 仁は、法子のことも心配で、ヒメのことも心配だった。もしかしてヒメは自分がこういう気持ちになるのを分かっていてああいう行動をとったのだろうか、とも勘ぐってしまう。

 一時間、悩みっぱなしだった。考えすぎて頭の中がとろけそうだった。女性のことでこんなに悩むのは初めてだった。ヒメが来てからだ。

 ――あいつが僕をこんなに悩ませる。

 仁はため息をついて、再びガスレンジのところへ行き、ガスを止めて蓋をきっちり閉める。そして五分間蒸らせばおかゆの完成だ。米から作ると、こんなにも面倒で時間のかかるものなのだ。

 そこで仁はダイニングの近くに立っている少女の姿を確認した。

「法子!」

 ぼおっとした様子の法子。まだ疲れた様子だ。

「仁……」

「気がついたんだね。よかった。もうちょっとベッドで休んでなよ。今からおかゆ持って行くから」

「あいつは?」

 どうやら、ヒメがいないことに法子も気がついたらしい。

「ん、なんか喧嘩しちゃって。僕だけ先に帰ってきたんだ」

「そう。でもそれでよかったのよ。ありがとう。仁」

 嬉しそうな表情で法子は答える。そして部屋に戻っていった。仁は、鍋敷きに載せた土鍋と、お茶碗、梅干、匙をお盆に載せる。そして法子のところへとそれを運んでいった。

 法子は、ベッドの端に腰掛けていた。仁はテーブルの上にお盆を置くとこう言った。

「さ、こっちに座って」

 彼女は仁の言うとおりにテーブルの前に座ると、仁は法子の座っていたベッドの端に腰掛けた。

「あの時と同じね」

「覚えていたんだ」

「忘れるわけないでしょ」

「あれ、不味かっただろ? だけど今度のは上手くできてると思うよ」

 法子は首を横に振って否定した。

「あの時も美味しかった。だって、仁が一生懸命作ってくれたから。不味いわけない」

 そう言われて仁はなにやら気恥ずかしかった。心なしか法子の顔が紅潮しているように思える。

「顔、赤いよ? 熱とかないよね?」

 ぶんぶんと首を横に激しく振る法子。

「大丈夫。ちょっと疲れてるけどね」

「僕がお茶碗におかゆをよそおうか?」

「自分でよそえるからいい」

 そう言って、匙で土鍋からおかゆをお茶碗によそった。そして梅干を一齧りして、おかゆをすすった。

「美味しい!」

 ニッコリと法子は微笑んだ。しかしその直後、彼女は真剣な表情をして、こう言った。

「清姫のことだけどね。喧嘩したって言ってたでしょ? でもきっと戻ってくるとあたしは思う。あたしには分かるもの。彼女がどれだけ仁のことが好きかって」

 確かにそうだ。ヒメの想いは昨日と今日で嫌というほど思い知らされていた。

「僕、どうしたらいいんだろう」

 仁がそう言うと法子は、暫くの沈黙の後、こう答えた。

「あたしが必ず倒す。だから仁は安心してて」

 仁は驚いた。あれほどの力の差を見せつけられてなお、法子はヒメを倒そうと思っているのだ。

「いや、もういいよ。ヒメを今度怒らせたら、キミは」

「分かってる。だからヒメを完全に封印する方法を探すまで適当に仲良くしとくの。これはあたしと仁の秘密ね」

 仁は頷いた。もしそうなればありがたいことだった。

 だけども。

 もしヒメがいなくなったらちょっと寂しくなるかもしれない。なぜそう思ってしまうのか自分でもよく分からなかった。

 そこへドアフォンの音が響き渡った。

「どうやら、帰ってきたみたいだね」

 噂をすれば影というやつだ。仁は立ち上ってヒメを迎えにいこうとする。だが、法子が引き止めた。

「これは、違う。清姫と違うの!」

 仁は法子の言葉がさっぱり理解できなかった。今帰ってくるとすればヒメに決まっている。それなのに『清姫と違う』とはどういうことだろうか?

 玄関に出て行き、モニターを確認する。すると法子の言っている意味が仁にははっきり理解できた。

 そこには、ヒメとは違う一人の少女の顔が映っていた。ヒメと同じようにちょっと釣り目で、すっと筋の通った鼻、愛らしい唇の女の子。可愛いというよりは美人と言える容貌だ。

「ニーハオ! ちょっと開けてほしいアル!」

 少女はおかしなイントネーションと変わった口調で、インターフォン越しに話しかけてくる。インチキ中国人のような話し方だ。

 もちろん仁はこんな怪しげな人間を家にあげるわけにはいかない。だが、彼女がヒメの関係者だとしたら、セキュリティコールをするのも無駄だと言えた。

 ドアが勝手に開く。

 ロングでふわふわカールという髪型の女の子。そしてなんとチャイナドレスを着ていた。蛇の刺繍のしてあるチャイナドレスだ。彼女は涼やかな視線を仁に投げかけてきた。

「どいて、仁」

 法子が仁の後ろから言った。

「フム。どうやら法力使いのようアルナ。弱っているのに無理しなくていいアルネ? やっぱり清姫にやられたアルか?」

「ほっといて!」

 謎の少女の言葉に怒り心頭の様子の法子は、仁をかばうように進み出た。

「ああ、相手にならないからよしといたほうがいいアルよ? お前が万全な状態でもワタシの相手ではナイネ。とりあえず自己紹介でもしとくアル。ワタシ、謝シエ虹ホン。清姫と同じ蛇精アルね。清姫に用があって来たアルが、どうしていないアルかな?」

 ヒメは本当に帰ってこないのだろうか? 仁はちょっと心配になった。あれほど自分にベタ惚れなら、必ず戻ってくるはずだと思っているのだが。

「…………」

 黙ったままの仁。虹は涼しげな顔をしながら、こう言った。

「まさか喧嘩でもしたアルカ?」

「そんなことはどうでもいいでしょ!」

 法子の言葉を聞いていないかのように虹は続けて言う。

「図星アルカ。まあ清姫はすぐそこまで来ていると思うアルが」

 そう言って仁に近づいていく虹。

「通さない!」

「邪魔アル!」

 法子が阻止しようとするがあっさりと弾き飛ばされる。

「法子!」

 なんとか逃げようと考える仁。だが体が動かない。これはヒメが使ったのと同じ蛇術なのだろうか? そして虹は自らの唇を仁の顔に寄せた。

 ぺろり。

 生暖かさを頬に感じ、仁は動揺する。法子を見やると彼女も動けない様子だった。

「いい匂いアルなあ。清姫が気に入るのも分かるアル。仁と言ったアルか。おまえ、蛇好みの匂いがするアルぞ?」

「仁から離れよ!」

 そこへ、あの少女の声が響いた。帰ってきたのだ、ヒメが。

「やはり帰ってきたアルカ。泣いていたみたいアルナ? 涙の跡があるアルね」

 仁は、玄関の外に立つヒメを確認した。やはりヒメはあれから一人でいたのだろう。確かに涙の跡が頬に残っていた。

「うるさいぞえ! 何をしにきた、虹!」

 その言葉には怒気が含まれているのが仁には分かった。

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