第3話 あくと2
スマートフォンの目覚ましアラームの音によって仁の意識は引き戻される。と、昨夜のことを思い出した。
そしてそれが夢ではなかったことを、今の状況でいやがおうにも認識させられることとなった。
むにゅっ。
仁のてのひらは柔らかくて温かいものに触れていたのだった。そしてそれはもちろん。
「ううん、そのように揉むでない……んっ……はぁん……」
あわてて彼は清姫の襟元から手を引き抜いた。
「ちょっと」
仁は声をかけるも、彼女はまだベッドの上で悶えたまま。少女の着物は乱れた様子で、今にも胸が露わになりそうな状態である。
「ああん、もうダメじゃ。妾はもう、妾はもう」
仁はベッドから起き上がって、自分の服装を確認した。
着衣に乱れはほとんど無し。下着に汚れは無し。まだ清姫はあえぎ続けている。
思考を廻らせる仁。これはやはり現実なんだと、認識するしかなかった。彼女が清姫であり、自分が彼女の言ったように安珍の生まれ変わりだということは、にわかには信じられない。だけども仁ははとんでもないことに巻き込まれた当事者だということを今の状況から受け入れざるをえない、と思った。
そこでどうするか。仁はもっといろいろなことを彼女から聞き出そうと思った。このままでは振り回される一方だ。
大きく深呼吸して、彼は清姫に言った。
「あのさ、ちょっといい?」
ぴたっ、と清姫は動きを止めた。
「……分かっておる。今の状況が知りたいのじゃろ?」
どうやら、彼女は仁の疑問に答えてくれるようだった。
「そなた、不能かや?」
唐突に清姫にそう言われて、仁は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「な、どうしてそんなこと聞くの?」
「そなた、勃たなかったぞ?」
その言葉で仁は自分の貞操はまだ守られている、と思った。
「じゃあ、僕は」
ほっと胸をなでおろす仁。
「うむ、真に残念じゃ。妾に催淫の蛇術さえあればのう」
催淫とは淫らな気持ちにさせることだろう。もし、そんな気持ちにさせられていたら今頃は仁の童貞は失われていたはずだ。だがジャジュツとはなんだろう。仁は率直に疑問を清姫に投げかける。
「ジャジュツ?」
「我ら蛇精の使う術じゃ」
「ジャセイ?」
「蛇の精、蛇は霊的には高位の存在での、その中でも人間に化けられたり、強力な術を使えるようになった存在が蛇精と呼ばれるようになったのじゃ」
「キミはもともと人間じゃないの? 伝説ではそうなってたじゃない」
仁の言葉を聞いて、ヒメはゆっくりとベッドから起き上がる。彼女は着衣の乱れを直そうともせず、こう言った。
「実は妾の母は白蛇の精での。妾も子供のころから不思議な術を使っていたそうじゃ。そしてそなたを追いかけたとき、蛇精としての力が覚醒したというわけじゃ」
「で、僕が安珍の生まれ変わりって?」
「妾がひょうたんに封印されていたことはそなたも知っておろう?」
「うん」
かつて法圓に見せてもらったあのひょうたん。孫娘の法子さえにも触れさせなかった、清姫が封じられていたひょうたんが仁の脳裏に浮かぶ。彼女はほうっと遠い目をしながら、こう言った。
「あの中で妾はずっとずっと封印を解く力を溜めておった。中から世界の全ての情報を得ながらのう。そして何回も何回も安珍が生まれ変わっていっておる情報を得ながら歯がゆく思っておった。そして千年が経った。そして、安珍がそなたとして生まれ変わった。ちょうどその時に」
「…………」
仁は自分の唇が乾いていることに気がついた。黙ったまま、清姫の次の言葉を待つ。
「その時に封印が解く力が溜まったのじゃ。そして妾は安珍、そなたを探した。そして見つけ出したのじゃ! ここに」
「どうやって?」
「匂いじゃよ、匂い。蛇というのは匂いで獲物を探す」
そう言って妖艶に清姫は微笑んだ。彼女にとって仁は獲物というわけだった。
「で、これからどうするの?」
「もちろんここに住むのじゃ。妾もちと反省したのじゃ。あの時はちと性急すぎたとな。昨夜も夜這いをかけてみたがそなたの体は反応せなんだし。じゃから、ゆっくりとここでそなたの心が妾に向くまで一緒に生活するつもりじゃ。ささ、妾は空腹じゃ。何か食べたいのう」
やはり清姫はここに居つこうとしているらしい。仁はどうしようかと考えながら黙りこくっていた。
彼女を追い出すことは可能だろうか? と考えたとき、一人の少女のことを思い出す。
幼馴染の網島法子。法圓の下で修行を重ねて、今ではかなりの法術を使えるようになっていることを仁は知っていた。そして彼女は仁がこっちの高校に通うときに一緒についてきている。どうしても一緒の高校に通いたいと言ったのだ。住むマンションも同じだ。
法子がこの状況を知っているならば、必ず助けに来てくれる。そして清姫を退治しようとするだろう。彼女が勝てるかどうかは分からない。しかし仁には期待するしかなかった。
仁は時間稼ぎをしようと考えた。法子が来るまで、清姫の言うことに合わせようと思っていた。
「……分かったよ。僕はキミといっしょに暮らすよ」
清姫の表情がパッと明るくなる。相当嬉しいようだった。
「おお、意外と物分かりがいいのう。前の安珍とは大違いじゃ」
だが、仁には一つだけ清姫に言っておきたいことがあった。
「僕は安珍じゃない。それだけは言っておきたいんだ。僕は安藤仁だ。前の安珍とは別人なんだ」
仁が安珍の生まれ変わり。仁はまだその事実を受け入れたくはなかった。超常現象、妖怪、世の中に起こる不思議なことは小さいころから信じていた仁だが、自分が当事者となると話は別だ。はい、そうですと簡単に受け入れるわけにいかない。そして百歩譲って自分が安珍の生まれ変わりだったとしても、自分は安珍ではない。安藤仁として、生まれ育ってきた。
清姫は、仏頂面をしてこう言う。
「なぜじゃ、そなたは安珍じゃ」
「僕は安藤仁だよ。だから、僕のことは安珍じゃなくて安藤仁として扱ってほしいんだ」
しばらく考え込む清姫。そして、にっこりと笑った。
「ふむ、それもそうじゃ。確かにそなたを安珍本人扱いするのはよくないのう。何度も何度も生まれ変わっておるし……。よし、これからは仁と呼ぶぞ? いいかえ?」
どうやら清姫は仁の言うことに納得したようだった。
「うん、ありがとう」
「それなら妾のこともヒメと呼んでたも?」
「ヒメ?」
「うむ、妾はこれから仁と一緒の学校に通うことにするでの。戸籍には『清野ヒメ』という形で載せておいた。明日から一緒に登校じゃ。ああ、楽しみじゃ。妾はひょうたんの中からはこの世界がどれだけ素敵か情報を得ておっての。外の世界が楽しみじゃ」
どうやら、清姫は――ヒメはここまで段取りを整えていたらしい。全く用意周到なことだ。いったいどうやったのだろうか、やはりジャジュツというやつで、準備を整えたのだろうか?
外の世界に興味津々のヒメの様子を見て、仁はちょっと彼女のことが可哀想に思ってしまった。ずっと封印されていてさぞや退屈だっただろう。
――何を馬鹿なことを考えているんだろう、僕は。
適当にあしらって、法子が来るのを待とう。そう思い直して、仁はベッドから下りて、立ち上がった。
「分かった、これからはヒメって呼ぶよ。着替えるから、ちょっと出て行ってくれないかな?」
「妾の目の前で着替えるのはダメかの?」
さすがにそれは仁は恥ずかしかった。だが、彼女は蛇の妖怪、ヒメの言うところの蛇精だ。もし断れば、何をされるか分からない。法子が早く来てくれることを祈っていた。
仁は仕方なく、ヒメの目の前で着替えをすることにした。
まるで肉食獣のような目で仁の着替えを見つめるヒメ。いや、肉食獣ではなく獲物を狙う蛇といったほうが適切だろうか。まじまじと見つめられて仁は恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない。いくら妖怪とは言え、女の子の前で着替えることになろうとは思わなかった。
じゅるり、とヒメが舌なめずりをした。もし、お風呂のときも一緒に入ろうとか言われたらどうしようか。
仁はため息をつきながら着替えを終わらせる。
ぐ~、きゅるる。
鳴ったのは、ヒメのおなかの虫だ。
「仁~、朝餉にしてたも」
どこまでも図々しいやつだった。法子が来るまでの辛抱、法子が来るまでの辛抱、と仁は自分に言い聞かせる。
扉を開け、キッチンへと向かう仁。とことこと着いてくるヒメ。
「部屋でゆっくりしてなよ」
「仁。そなたは料理を作れるのかえ?」
「うん」
仁は即答する。仁は自分の料理の腕にちょっと自信があった。一人暮らしを始めて料理の楽しさに目覚めて、今ではお弁当も自分で作っている。
とはいえ、朝食は比較的簡単なものを作ることにした。
まず仁は食パンをオーブントースターに放りこんだ。
仁が卵を冷蔵庫から出そうとすると、ヒメが寄ってくる。彼女は仁が手に持っている生卵を見て、瞳をキラキラと輝かせて言った。
「おお、生卵じゃ、妾の大好物! 呑ませてたも!」
「呑ませてって……」
仁は呆れてしまった。さすがは蛇の妖怪。卵も丸呑み派らしい。仁は一個だけ、ヒメに生の卵を手渡した。彼女は受け取ると、大きく口を開けて、それを一気に嚥下した。
なんというシュールな光景だろう。蛇の妖怪とはいえ、美少女が生卵を丸呑みするのは本当にシュールだ。さらに喉を卵が通っていく様子が外から分かるのもシュールだ。ヒメの喉の途中で、生卵が止まったのを仁は確認する。どうやら割れたらしく、ヒメはとてちてとてちてとシンクまで歩いていき、殻を吐き出した。
その光景を見て、仁は気分が悪くなってしまった。彼は生卵が嫌いで、卵かけごはんも食べない人種だった。ヒメの様子を見て、ますます生卵が嫌いになったことは言うまでもない。
気を取り直そう。そう思いながら、仁は自分の食べるベーコンエッグトーストを作ることにした。
オリーブオイルを熱したフライパンに注ぎ、卵を一つ割って落とす。いい香りがキッチンに立ち込めた。さらにフライパンの端にベーコンを入れる。これが仁流のベーコンエッグの作り方。ベーコンと卵は別々に熱するべき、というのが彼のこだわりである。
オーブントースターから、焼きたてのトーストを取り出して平皿に載せる。その上からベーコン、目玉焼きの順に重ねて載せた。
ヒメが興味津々な様子で、できた料理をしげしげと見つめた。
「のう、仁」
「作ってほしいんでしょ?」
聞かなくても仁には分かっていた。彼は同じようにもう一人分のベーコンエッグトーストを作る。
椅子にちょこんと座るヒメはお人形さんのようだ。先ほど生卵をそのまんま呑み込んだ人とは思えない。
テーブルにベーコンエッグトーストが載った平皿をヒメの前に置いて、向かい側に自分が食べる分の皿を置いた。そして彼女と向かい合って座る。
清姫は目の前のベーコンエッグトーストを見ながら嬉しそうに言った。
「やはり、この生の世界は違うのう。外の世界の情報は封印されながらも得ておったが、こうやって目の前にすると感慨深いぞえ」
彼女はそれを手に取ると、一口かじる。ヒメの表情がほころんだ。
「おお、美味じゃ美味じゃ」
「生卵より美味しいでしょ?」
「生卵も美味しいがの、やはり仁が作ってくれたものじゃからのう」
仁は皮肉を込めて言ったセリフに真面目に答えられて、ちょっと戸惑ってしまう。顔が赤くなってないか心配になった。
――法子はまだ助けに来てくれないのだろうか。それとも気がついていないのだろうか?
そんなことを考えている仁に、ヒメは声をかけてきた。
「のう、仁。今日は一緒に遊びに行くぞえ!」
唐突にそう言われて、仁は弱ってしまった。
――法子。早く来てくれ。と祈りながら、なんとか平常心を保って仁はヒメに尋ねた。
「外の世界が見てみたいの?」
仁の言葉にこくりと素直にうなずくヒメ。
「妾は、久しぶりに生の世界が味わいたいのじゃ。ひょうたんの中は退屈じゃったからのう。のう、仁、連れて行ってたもれ」
ここで断ればどうなるだろう。。
どんなことをされるか分からない。
「分かったよ。外に遊びに行こう」
仁は不承不承、ヒメの頼みを聞くことにした。
「おお、仁!」
「口調は変えてよ? 今そんな口調で話す人ってよっぽどアレな人なんだから」
「分かっておる」
ベーコンエッグトーストを食べ終わった彼女は、立ち上がると、くるりと回った。
仁は自分の目を疑った。
ヒメの姿は、黒と赤を基調とした、ゴスロリファッションの服装に早変わりしていた。和風テイストで、振袖とゴスロリを組み合わせた感じ。まるで巫女さんのようだ。その和風な感じがヒメによく似合っていた。
目を丸くしている仁の様子を見て、ヒメはクスクスと笑った。
「こういう服装をひょうたんの中から世界を覗いているときにこういう服装をしている娘を見つけての。妾も着てみたいと思っていたのじゃ。どうじゃ、かわいいじゃろ?」
確かに彼女が自負するだけのことはあって、可愛かった。ただ、こういった格好が許されるのは、オタク街くらいだろう。
「どこに行こう?」
「アニメや漫画がいっぱい揃っておるところがいいのう」
「……」
友達にオタクがいるので仁はそういうところに行ったことはある。ただ、ヒメがそういうところに興味を持っているのは想定外だった。
「妾はの、ひょうたんの中から世界を覗いていて、そういう世界にハマってしまっての!」
興奮して語るヒメに少し呆れてしまう。まあ、彼女が行きたいというのなら仕方がないだろう。
「……分かった。僕も用意してくるよ」
そう言って仁は立ち上がり、部屋へと向かう。ヒメがついてくるのはもう気にしなかった。
財布の入ったウエストポーチをつけて、彼はヒメに、声をかけた。
「行くよ」
法子のことは諦めていた。もう時間稼ぎすることはできない。
「おお、れっつらごーじゃ!」
その時、ドアホンが鳴った。
やっと、来てくれた。仁が待ち望んでいた少女が、来てくれたのだ。仁のマンションのドアホンは、中から訪問者が確認できるようなモニターがついている。仁はヒメのことを省みず、モニターを覗いた。
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