第2話 あくと1

自分は蛙だ。

 安藤仁は視線を感じながら思った。

 体が動かない。これが金縛りというやつなのだろうか。ベッドに横たわったまま彼はなんとかその視線の方へと眼球を動かす。

 妖しく赤く輝く二つの光を確認した仁。そしてそれがある生命体の視線に似ている、と感じる。

 仁が嫌いで嫌いでどうしようもない生命体。この世から消え去ってほしい生命体。田舎にいるころよく見かけたスズメバチよりもアオムシよりも、彼はその生き物が大嫌いだった。

 ――それは蛇だ。

 その妖しい赤い二つの光点は、蛇の瞳に感じるものと同じものを仁に感じさせている。マムシの鋭く凶悪な眼光。アオダイショウのくりっとした瞳。故郷にいたころはやたらうじゃうじゃいて家の近くでよく見かけたものだった。嫌いなのに思わずその姿を見つめてしまうこともあった。嫌いなものに注目してしまうというのは誰でもあることだろう。

 だいたい仁がこの大都会のマンションに住んでいるのも蛇から逃げたいがためだった。彼が初めて父親にわがままを言ったのは高校受験のときだった。こんな田舎は嫌だ。こんな田舎の高校に通うのは嫌だ。故郷の県会議員である、仁の父親はそれを許してくれたのだった。そして普通の高校生がどれだけバイトしても住むことのできない、セキュリティ完備の高級マンションの一室を買ってくれた。

 そんなセキュリティ完備のマンションの部屋でなぜ大嫌いな蛇の視線を感じなければならないのだろう。

 背中が冷たい。そんな蛇嫌いの少年は蛇の視線を感じて冷や汗をたっぷりかいていた。

仁は怖れを抱きながらも、その侵入者の姿をはっきり見ようと、なんとか首を動かそうとする。

やっとのことで首をそこに向けると。

 少女が、そこに立っていた。蛇の如き瞳を持つ少女が。

 薄暗い部屋の中、テレビを遮るように少女はそこにいた。髪の長さは腰の辺りまで伸びている。その色はといえば烏の濡れ羽色で、部屋のわずかな灯りによって僅かに光沢を帯びているかのようだった。背は低めで百五十センチくらいだろうか? 服装は、洋服ではなく着物だ。寺用の白い着物だ。幼馴染である綱島つなしま法子ほうこの実家が同乗寺というお寺だったので、仁は何度かそれを着た法子の姿を見たことがある。他の誰とも分からない少女が着ているのを見るのはこれが初めてだが。

 目の前に立つ少女の双眸は赤く妖しく。

 それを見つめる仁の呼吸は速く浅く。喉はからっからで、恐怖と焦燥が彼を支配していた。なんとか落ち着こうと一度瞑目する。

 何か話しかけよう。そう思って、言葉を探すが何を言っていいのか分からないまま時間はすぎる。

 と、そこで少女が口を開いた。彼女は何かを呟いた。

「……けた」

 仁は少女のその呟きがはっきり聞き取れなかった。そして仁はそこでやっと言葉を発した。

「あ、あのっ」

 彼の言葉に反応して、少女が闇の中で微笑んだかのように見えた。いや、微笑んでいた。彼女の口の端が上がったのを仁は確認した。

 そして、彼女ははっきりとした声で、なんとも可愛らしい声で、それでいて妖しげな声で、こう言った。

「見つけたぞえ。妾わらわの愛しき人よ、安珍よ」

 その言葉に仁は戸惑った。安珍とはいったい何のことだろうか? この少女は自分を安珍という人と勘違いしてるのだろうか?

 さっぱりわけが分からない、と仁は困惑していた。

 と、そこで彼の思考はある伝説にたどりついた。安藤仁の田舎に伝わる伝説。

 安珍清姫伝説。

 ヤンデレ清姫がヘタレの安珍を追いかけて焼き殺したお話。彼の田舎の蛇神村へびがみむらの言い伝えでは、清姫は同乗寺の住職の強力な法力ほうりきによってひょうたんに封じられたということだった。かつて田舎で法子の祖父の法圓ほうえんにそのひょうたんを見せてもらったことがあった。それにはしっかりと栓がしてあって、墨でなにやら文字が書かれてあった。そして、仁がそれに触ろうとすると法圓じいさんにきつく叱られたものだった。法子にさえも触れさせようとしなかった。それほど危険なものだったらしい。

「キミは、いったい」

 仁がそう言うと、少女はこうはっきりと言った。

「妾は、清姫じゃ」

 古風な口調で、名乗ったその少女を、視点が定まらぬ様子で仁は見つめた。

 きよひめ。キヨヒメ。清姫。

 まさか、と彼の心は落ち着かなくなる。

 これは悪い夢だ。そうだ、これは夢に違いない。仁はそう必死でこの状況は何かの間違いだ、夢だと自分に思い込ませようと考えた。

「どうやら信じられぬようじゃな? じゃがこれは現実じゃぞ?」

 少女は仁の心を見透かしているように、そう言った。その言葉を聞いて仁はぱくぱくと口を動かした。

「こ、心が読めるの?」

「いや、そなたの様子を見ておれば分かるわえ。安珍」

「あ、あんちんって?」

 仁の問いに少女はこう答えた。

「そなたはの、妾の愛しい愛しい安珍の生まれ変わり。かつて妾が焼き殺してしまった安珍の生まれ変わりなのじゃ」

 仁はそう言われて頭の中が真っ白になった。やっぱりこれは夢だと思った。もしくは自分がどうかしてしまったのか。

 少女はといえば微笑んで仁を見つめたままゆっくりと歩みを進める。ベッドに近づいてくる。

「信じようと信じまいと、そなたは安珍の生まれ変わりじゃ」

 仁の体は動かせないままだった。

 これは夢だ。

 これは何かの間違いだ。

 僕があの安珍の生まれ変わり?

 この少女は清姫?

 そんなはずはない。

 しかし仁はかつて法術を、僧侶が使う不思議な術を見たことがある。妖怪退治を見たことがある。同乗寺で、法子が一度見てみないかと言ったので、見せてもらったことがある。法圓爺さんがなにやら難しい言葉を唱えると、激しい光が大イノシシの妖怪を雷光が撃ち、そのまま黒煙となって消え去った。それを見せられたときはにわかには信じがたかった。あっけにとられている仁に法子は言ったものだ。


 ――信じようと信じまいと、妖怪はいるの。それを退治するのがあたしたちの仕事。


 それ以来、仁は超常現象の存在を信じるようになった。

 だから今の状況は、それ(、、)が自分に降りかかってきたのだといえた。しかしだからといってすんなり受け入れられるようなものではなかった。

 彼女が清姫で。自分が安珍の生まれ変わりで。

 いろいろ考えているうち、少女は――清姫は仁の上に馬乗りになっていた。下から彼女の顔がはっきり窺える。

 整った顔立ち。細く、釣り上がった目が印象的だ。弱い灯りに照らされて、清姫の顔はサディスティックだった。

 仁は震えながら、こう言った。

「僕は、安珍じゃ、ない」

「うーん、いい匂いじゃ。安珍の匂い。あの懐かしい安珍の匂いじゃ」

 仁の言葉が耳に入っていないかのように、清姫は言った。

「や、やめろ」

 仁は必死で言葉を絞り出した。それにかまわず、清姫は顔を近づけてくる。仁は生唾を飲み込んだ。

 このままでは、食われる。性的な意味でだ。

 顔にかかる彼女の髪がくすぐったかい。なにやら甘い香りがした。ここまでくれば仁には抵抗することはもうできなかった。

 なるようになれ。

 そう思って目を瞑った。このまま彼女に何か大変なことをされるに違いない。そしてそれは仁の貞操を奪うことだろう。童貞にさよならを、告げた。

 口に温かいぬめっとしたものが触れるのを仁は感じた。それは清姫の唇だろう。ファースト・キッスはかなり強引に奪われることになってしまった。そしてにゅるっと舌が入ってくるのが分かった。いきなりディープキッスなんだ。脳みそが蕩けそうだった。思考は混乱に混乱を重ね、仁の意識はショートした。

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