SRC! ――埼玉大学ラリー選手権――

柊 恭

第1話 青い流れ星――VS.Toyota<86>(ZN6)


 時刻は十五時、気温は十六度、晴れ。埼玉大学ホームストレートの中腹、サル山付近にて。路肩には何台ものスポーツカーが駐車してある。<フェアレディZ>に<RX-7>、<ランサーエボリューション>等々……赤や黄色、黒と色とりどりで、そこだけ絵描きのパレットのようだ。

 そんなクルマの所有者たちは、降りて群衆を形成している。皆、あるモノを見に来ていた。ギャラリーの中心、サル山の頂上では、二人の青年が対峙している。

「俺に挑戦しようってのは……お前だな?」

「あぁ、その通りだ。名前は青海(おうみ)、スカした走り屋たちに『速いクルマの性能は絶対じゃ無い』ってことを教えに来た。さて、そっちも改めて名乗ってもらおうか」

「言われなくても、そのくらいの礼儀は持ってるさ……俺は赤羽(あかばね)。ここの走り屋集団としちゃちぃと有名な、『ナイトフライト』のリーダーだ」

 ナイトフライトのメンバーと思われるギャラリーが、薄ら笑いを浮かべながらその儀式を見届けていた。

 赤羽は二一歳という妙齢にして、何十人という走り屋をまとめている男だ。茶色のマッシュショートに整った顔立ち、耳にかかるシルバーピアスと長身を覆う黒いファージャケットが、指導者の風格を醸し出している。

 一方の青海は、そんな赤羽よりも若い二〇歳のチャレンジャー。黒いナチュラルショートと眼差しは貫くように真っ直ぐで、細身の体躯をインディゴのデニムジャケットとモスグリーンのスキニーに収めている。新品のスニーカーにやや低い身長が、彼の初々しさを演出していた。

 青海が赤羽に一歩だけにじり寄って、一枚の紙を突き出す。

「お前らのような高速道の走り屋だって、『SRC』くらいは知ってるだろ?」

「当然だろう。『Saidai Rally Championship』、この埼玉大学をコースとしてその速さを競う競技……こう見えるけどな、俺だってSRCの経験はあるんだよ。だからお前のようなどこの馬の骨とも知れない奴に挑まれたって、俺が負けることなんて金輪際あり得ねぇ!」

 赤羽の啖呵に、周囲が騒然とする。しかし動じないのが青海だ。

「なら話は早い。この紙が、今回俺とお前がバトルするルートだ。スタートとゴールはそこの全学講義棟一号館前、一周目と二周目とで経路に若干の違いがある。勝手に決めさせてもらったけど、構わないんだろ?」

「お前がどう作戦を練ったって、ナイトフライトのリーダーたるこの俺が負ける訳無いからな。問題は無い、これで行くぞ」

 赤羽が後ろを振り返ると、ギャラリーが視線から捌けることによって、一本の道が出来た。目線の先に停まっているのは、一台の赤いスポーツカー。

 トヨタ<86>。現行車種における国産随一のライトウェイトスポーツで、数あるFR駆動の中でも特にドリフト走行に特化したコーナリングマシン。強みは何と言ってもそのコンパクトさと、フロントミッドシップに搭載された水平対向<ボクサー>エンジンだ。

「分かっていると思うが、俺のクルマはあの赤いハチロクだ。普段はそこの首都高埼玉大宮線で飛ばしてる身だが、こんなんでも特技はドリフトでね……前に一回SRCをやった時には、俺の慣性ドリフトに敵う奴は誰一人として居なかった。そんな俺に挑むってんだから、お前のクルマは速いんだよなぁ?」

「残念だが、俺はお前らに速いクルマがそのまま速さに直結する訳では無いことを教えに来たからな。状況次第では、スポーツカーの絶対的な速さも揺らぐんだ……俺のクルマは、そこに停まっているアレだよ」

 青海が指差した方向を、全員が一斉にして見つめる。全学一棟正面とは対岸の、図書館北に広がる森の前。緑から浮き彫りされたレリーフのように佇んでいたそれは――。

 その場の誰もが、絶句する。

「スバル、<サンバー>……だと?」

 青海の愛車は、WRブルーに塗られた軽トラックだった。


 ギャラリーたちがクルマをどかして道を開けている中、青海の下に二人の友人が駆け寄った。一人はエッジアップショートの決まった長身の男性である黒崎(くろさき)で、もう一人は柔らかくカールのかかったロングヘアを持つ桃山(ももやま)という女子学生。どちらも青海と同じ、教養学部の人間だ。

「おい、青海……勝算なんてあるのか? 相手はあの<86>だぞ、簡単に勝たせてくれるどころかゼロ加速で千切られるのがオチだ」

「そんなことはないさ、黒崎。あの<86>とこの<サンバー>のスペックを比較して、なおかつコースがこの埼大ならば勝機はある。よく考えてみてくれ」

 自信に満ちた笑みを浮かべる青海。そんな彼を見て、桃山が激励の声を掛けてくれる。

「お、青海くん……私はクルマのこととかあんまり分からないけど、応援してるよ? だから、頑張ってね!」

「うん、ありがと。桃山がそう言ってくれるだけでも、俄然勝てそうな気になって来るよ」

「ほ、ほんと? 良かった……」

 そんな安堵の溜め息を漏らす桃山を遮って、黒崎が青海に一つの確認を取ってきた。コースマップに細々とした書き込みをしながら、彼は一つのポイントをペンで指す。

「なぁ、お前もしかしてここで勝負を仕掛けるつもりじゃないよな?」

「お、よく分かったな黒崎。俺の<サンバー>のポテンシャルが最も発揮できるのはそこだし、あの<86>の弱点を確実に突けるのもそこだ」

「半信半疑だったが、やっぱりな……お前とは中学からの付き合いだから、どこにヤマを張るかのクセも俺には分かる。ここで決着をつけるってことで、一体お前が何をしたいのかもな」

「速いクルマは絶対に速い訳では無い、って言ってるだろ」

「日本語としておかしいんだよ、それ。何が言いたいのか、誰にも伝わってないと思うぞ……? それにお前のやることだって、軽トラの<サンバー>が速いクルマだって証明するようなモンじゃねーか」

「そうとも言うな」

 青海と黒崎が同時に吹き出す。緊張の糸が完全にほぐれ、これで彼はリラックスしてレースに挑めそうだった。

「鍵となるのは、相手の『谷』だ。俺はこれを突く」

「あぁ、分かった。幸運を祈るぜ、青海。さぁ行って来い!」

「青海くん、勝って戻って来るって信じてるっ!」

 黒崎と桃山の激励に、青海は親指を立てて返答した。


#1《Speed Lover/Speedman(SUPER EUROBEAT Vol.111)》


 埼玉大学ホームストレートは、変則的な線形だ。サークル会館側は道幅も広く障害物が無いのに対し、国道四六三号線側は中央分離帯により二車線に分かれている。その二車線の左側で赤い<86>が、右側で青い<サンバー>が、正門方向を向きながらエンジンを温めていた。

「降参するなら、今のうちだぜ?」

「こっちから仕掛けたSRCだ、そんな真似は絶対にしない」

 分離帯を挟んで、赤羽と青海が言葉を交わす。二人の間では、スターターがカウントダウンを始めていた。

「二人とも、準備はいいなぁっ?!」

『おうっ!』

 二台のクルマが、エンジンを空吹きさせる。高まる回転数とボルテージ、ギャラリーは誰もが釘づけだった。

「行くぜっ、五秒前! 四、三――」

 シフトを一速に入れて、今一度ハンドルを握り直す。

「二、一――」

 アクセルを踏み、エギゾーストを響かせて。

「かっ飛ばせ、ゴーっ!」

 サイドブレーキを倒しロックを解除、赤と青が正門バスロータリーゲートへと飛び込んでいった。


「やっぱり、ゼロ加速じゃ<サンバー>は負けるか……」

 戦いの幕が切って落とされた時、黒崎と桃山は大学会館前でギャラリーをしていた。

「このままだと、青海くんは負けちゃうの?」

 桃山が心配そうに尋ねて来たので、黒崎は安心させるように解説を入れた。

「単なるドラッグレースだったら負けは確定だろうが、けれどもこれはSRCだ。ゴールした時の順位がそのまま結果になるから、どこかで抜き返せばいいだけの話だって」

「じゃあ、まだ希望があるんだよね?」

 それに対しては、しかし黒崎は明言出来なかった。

「何とも言えない。上手くいけばもしかすると、ってレベルの話だ……さぁ、俺たちはここを離れよう。別のギャラリーポイントへ移動する」

 二人が教育機構棟方面へと歩き始める。道中、黒崎がより詳しい解説を入れてきた。

「ナイトフライトの赤い<86>はライトチューンで、エンジンもあまり弄ってない。カタログスペック通りに行くと、最高出力が二〇〇馬力で最大トルクが二〇、九キロ。実際はそこまで出ていないと見ていいだろうけどな。このスペックは一見高性能のように見えるが、青海はそう思っちゃいない」

「えと……黒崎くん、とるくって何?」

「簡単に言うと、加速力のことだ。エンジンの回転数ごとに数値が違っていて、例えば<86>の積んでる<FA20>エンジンなんかは六六〇〇回転の時に最も加速がかかる。一方、このトルクを使い切って最も馬力が出るのが七〇〇〇回転。ここに、青海の仕掛けた落とし穴がある」

「落とし穴?」

「この埼玉大学がコースじゃ、こんなハイスペックは宝の持ち腐れ……今走っている<86>は、パワーを存分に発揮できてないんだ」

 スバルとトヨタの技術を高次元で組み合わせたのが、<FA20>水平対向エンジンである。一般的に非力とされる自然吸気エンジンながらもハイパワーで、スポーツ走行にとても適しているエンジンだ。しかし、いやだからこそ、埼玉大学のような狭く道が波打っていてバンピーなコースでは、その速さを出し切れない。低速・低回転走行を余儀なくされるのである。

 スタートダッシュこそ決まったものの、赤羽の<86>は今後スピードを発揮できなくなる。回転数で言ったら、恐らく五〇〇〇回転が関の山だろう。全開走行が出来ないのであれば、<86>はさほど速いクルマとは言えない。

 コースを使って相手にリミッターを掛ける。これが、青海の仕掛けた一つ目の落とし穴だ。

 そしてもう一つ、青海には狙いがあった。

「あの<サンバー>はな、エンジンを丸ごと乗せ換えているんだ。<EN07X>型の四気筒エンジンでな……軽自動車規格の六六〇ccながらも、DOHCバルブにスーパーチャージャー付き。しかもフルチューンだから最高出力は恐らく一〇〇馬力を超えてるだろうし、トルクに至っては十二キロまで出てるかも知れない。ここで重要なのがトルクで、あの<86>の六割も出てるんだ」

「六割って……そんなので追いつけるの?」

「車重が軽いからな。<86>が一二五〇キログラムあるのに対し、青海の<サンバー>は七〇〇キロ程度。実に三分の二くらいの重さしか無いんだ。そこまで考えれば、実際の加速は同程度と見ていいだろう」

 黒崎の告げるその声は、しかしまだ物足りなさそうだった。


 先にロータリーへと到着したのは、赤羽の<86>だった。

(ここの特徴は、障害物があって進入速度が嫌でも遅くなる第一コーナーからの定常円旋回だ……普通の奴は、ビビッてブレーキを踏むところだが――)

 このロータリーの中心には謎のモニュメントが設置されているが、加えてその北側にささやかな花壇がある。SRCではここを時計回りに一周してから次へと進むのだが、この障害物のせいでドリフトしながらの進入が制限されてしまう。滑りながらでは、リアタイヤが花壇にぶつかってしまうのだ。

 そのためこの『正門バスロータリーゲート』を通過する際は、速度を落としてグリップ走行で進入する必要がある。最初の関門として恐れられているポイントだが、赤羽は決して動揺しなかった。

「見てろよっ、俺の華麗な走行をなぁっ!」

 アクセルを抜いてエンジンブレーキで減速し、早い段階からハンドルを右に四五度ほど傾ける。そうしてゲートを抜けると同時ハンドルを右に倒し、クルマの荷重をフロント側に移すことでリアタイヤを浮かせて滑らせる。

 ゲート通過直後から、慣性ドリフトでロータリーを周回した。

(これくらいは簡単だ……どうせ荷重移動をするのに減速する必要はあるからな、それをコーナー進入に利用してやるんだ)

 一般的なドリフトは、フットブレーキを踏むことで荷重を移動させて後輪を浮かせることで滑る。しかし慣性ドリフトの場合はフットブレーキを踏まずにエンジンブレーキだけで減速、ステアリングを切った後は前に進もうとするクルマの慣性力を利用してドリフトする。

 例えば今回の赤羽は、車体後部が花壇の横を過ぎた地点ギリギリからステアリングを更に切ってクルマの進行方向を捻じ曲げて、しかしリアタイヤに直進方向への慣性力を働かせることで浮かせている。メリットとして挙げられるのは、スピードをさほど落とさないためにとても速く曲がれることだ。

 <86>がロータリーを一周して再度ゲートに突入しようとする頃、目の前には遅れた<サンバー>が居た。これからロータリーを回るつもりなのだろうが、ならばこちらの方が一周分アドバンテージを得ているということだ。

(あれだけのことを言ったんだ、奴のお手並み拝見と行こうじゃないか)

 どのみちこのロータリー上では追い越しも出来ないので、赤羽は<サンバー>の後ろにピッタリとくっ付くことにした。相手は軽トラックにしてはスピードが乗っている。エンジンのパワーを上げたのは当然のこと、車体の軽さを前面に押し出したカミカゼ走行で飛ばしている。

 しかしこのスピードでは、ロータリーゲートはくぐれない。赤羽が大人しく減速したと言うのに、向こうのブレーキランプは点灯しなかったのだ。こちらと同じくエンジンブレーキを使っているのかとも思ったが、それにしては車速が一向に落ちない。やはり、時速一キロたりとも減速していないのだ。

 このままでは<サンバー>が、オーバースピードでバスロータリーゲートに突っ込んでしまう。曲がり切れずクラッシュしてコースアウト、早くもSRCの決着がついてしまうだろう。何と呆気ないことか。

 そう思っていた矢先。

(な、に――)

 あり得ない程にキレたコーナリングで、瞬間<サンバー>が右折してゲートを突破した。

 信じられない光景だった。かなりスピードが乗っているはずなのに、どこにもぶつけず走行している。しかも普通ならドリフトで流すロータリーも、青海は信じられない回転半径でグリップ走行をしている。その速さは、下手なドリフトよりも圧倒的に上だろう。

「くそったれ……中々やるじゃねーか!」

 今度は思い切ったステアリングでゲートをパスし、赤羽は次なるテクニカルセクションへと突入していった。


「くどうほーしき?」

「そうだ、桃山。クルマにはそれぞれ駆動方式の差があるんだ」

 教養学部棟前を歩いている最中も、黒崎の解説は続いていた。

「<86>はFR(Front engine Rear drive)駆動って言ってな、エンジンが前にあって後ろの車輪を動かしてるんだ。一番のメリットは、重量配分に優れてることか。特に<86>はフロントミッドシップって言って、エンジンが中心に近い位置にあるからな。前側と後ろ側での重量比が殆ど五〇対五〇で、非常にバランスが取れていてドリフト走行に向いてるんだ」

「そっか、だからロータリーであんなカッコいいドリフトしたんだね」

 頷きながら納得したような表情を浮かべる桃山だが、どこまで理解しているのかは推して知るべしだろう。

「一方だ、青海の<サンバー>はRR(Rear engine Rear drive)駆動でな……エンジンも駆動輪も後ろ側に集中している。メリットは重心が後方にあるから回頭性が高いことで、これがさっきの青海があり得ないスピードでロータリーゲートを曲がれた理由だ。特に<サンバー>は全長が三三九五ミリメートルと<86>よりも一メートル近く短いからな、小回りが利くんだよ」

 この軽トラの小ささも、青海の武器の一つである。ただでさえスポーツカーにしてはコンパクトなはずの<86>よりも小さいということは、相手が無理を出来ないコーナーでも無茶が効くということだ。こうしてタイムをコンマ一秒単位で切り詰めていけば、いずれ前を爆走する赤羽に追いつける。

「ところでこのRR駆動だが、小回りが利きすぎて扱い辛い。だから採用している車は少なくて、しかも独立懸架サスペンションまで搭載しているとなると車種も絞られてくる。一つはあのスバル<サンバー>だが、もう一つは――ポルシェ<911>だ」

「ポルシェって、あのかなり速いポルシェ?」

「そうだ。だから誰が呼んだかは知らないが、<サンバー>の別名が――」

 黒崎が一旦言葉を区切り、その単語を強調した。

「『農道のポルシェ』なんだ」


 二回目の正門バスロータリーゲートを立ち上がったら、大学入口のゲートバーを通過する。教養棟北側に伸びる細道、テクニカルセクションの開始だ。

 青海の前方、辛うじて赤い<86>が見える。まだそこまで千切られてはいない、彼の<サンバー>にも勝機はあった。

(まずはこの緩いS字だ、あのリーダーさんはどう攻略するか)

 ゲートバーを中腹に抱えたS字セクション。曲率も緩く設定されており、中央分離帯があるにも関わらず道幅が広く取られている。だから格好の見せ場だとはしゃいでいるのか、彼の前を走る<86>はまたもや慣性ドリフトでクリアーしていった。丸いテールランプが、右へ左へとゆらゆら揺れる。

(振り返しも上手い……二つのコーナーを流しっぱなしで通過か。確かにSRCは短い、タイヤの減りだとかも気にしなくて済む。だがな――)

 <サンバー>のエンジンが唸りをあげる。六〇〇〇回転まできっちりと回し、猛スピードでS字へと突っ込んでいった。

「テメーが減速してるのに変わりは無いっ!」

 一度車体を右に幅寄せしてから、アクセルベタ踏みで左に曲がる。クリッピングポイント(コーナーの頂点)をきっちりと押さえ、その後すぐさまハンドルを右へ。二つ目のコーナーもクリアーし、青海は完璧なアウト・イン・アウトをこなして見せた。

 これも<サンバー>だからこそ成せる技だ。小柄なため細い道幅でもスペースをフルに使えるし、軽いのでトップスピードもかなり出る。更にRR駆動のためどれだけスピードを出してもリアが滑り空転することが無いので、ハイスピードのコーナリングでも安定して攻められるのである。

 ノーブレーキでS字を通過。結果として<サンバー>は<86>よりも速い区間タイムで立ち上がり、次のショートストレートへと飛び込んでいった。


 研究機構棟から駐輪場を経由して全学講義棟二号館脇まで続くのが、『駐輪場連続シケイン』。このテクニカルセクションの醍醐味である。そのため付近は大勢のギャラリーで溢れかえっており、他のギャラリーポイントよりも熱気が一段高かった。

「来たぞっ! 赤羽さんが先行だ!」

 誰かが声を上げると、皆が一斉にシケイン入口を見つめる。その視線の先には、ドリフト走行を決めながらシケインを通過してゆく赤い<86>の姿があった。

 この駐輪場連続シケインは、三つのコーナーで構成されている。一つ目は研究機構棟と駐輪場に挟まれた区間、二つ目は全学二棟入口前、三つ目は全学二棟と駐輪場の間にある区間だ。そのどれもがキツイ直角コーナーなのだが、特徴としてコーナーを通過してゆく度に曲がりづらくなることが挙げられる。特にシケイン第三コーナーは、ドリフトするにしても車一台分しか通過できない程の幅しか無い。

 さて、<86>が比較的緩い第一コーナーを抜け切る。その先には短いストレートがあるのだが、しかし赤羽はドリフトを止めようとはしなかった。

「<86>がケツ流したまま突っ込んでくるぞっ?!」

「ぶ、ぶつかっちまう!」

 近くのギャラリーたちが慌てて避難するが、それは杞憂に終わってしまう。凄まじい速さでカウンターステアを当ててテールを振り返し、一旦ハンプで跳ねてから赤羽はそのままドリフトを続け、第二コーナーをクリアーして立ち上がりバックストレートを進んでゆく。

「くぅ~っ! 見たかよ、今の連続ドリフト!」

「流石は赤羽さんだぜ、攻勢的なドリフトでクリアーしてくる!」

「しかもあのハンプの攻め方、見たかっ?! 振り返す時一瞬だけ直交して進入して、跳ねて宙を浮いてる間にもテール振ってたぜ!」

 その場にいた誰もが騒然とする。第三コーナーは、少しためらってブレーキングドリフトで通過。しかし鮮やかなそのパフォーマンスに、ギャラリーたちは魅了された。

「次、例の<サンバー>が突っ込んで……って、気を付けろ! ヤバいスピードだぜ!」

「何だって、あのボロは遂にブレーキイカれたかぁっ?!」

 続いて青海の<サンバー>が駐輪場連続シケインに進入してくるが、その姿はまさしく『飛び込み』だった。コーナー入口限界までストレートで速度を出し、素早いステアリングで曲がってゆく。しかも第一、第二コーナーと、ドリフトをしないグリップ走行で駆け抜けていった。

「おい何だよ、あのスピードはっ?!」

「軽く七〇キロは出てるんじゃねーのかぁっ?!」

「しかもグリップ走行のくせに、あり得ない程の小回りだ……! それでいて、クリッピングをきっちりと押さえていやがるっ!」

 最早第一コーナーと第二コーナーとに挟まれているストレートが、ストレートとして意味を成していなかった。<86>よりもキレのある切り返しで、青い<サンバー>が曲がっていった。あまりにも速かったので恐らくハンドルを正位置にすらせず、常にどちらかへ傾けながら第二コーナーへと飛び込んで行っている。

 全学二棟前のストレートにあるハンプで跳ねながら、青海は問題の第三コーナーへと特攻していく。

「おいおい、流石にあのコーナーはグリップじゃキツイぞ……曲がれっこねぇ」

「あの速度じゃ、それどころかドリフトでも無理だ。フェンスにぶつかっちまうっ!」

「あいつ、あそこに『最徐行』って書いてある看板が見えねーのかっ?!」

 再びギャラリーが退避を始める。その場の誰もが、死に直結する程のクラッシュを覚悟した。

 青い<サンバー>のブレーキランプが点灯、減速する。しかしそれはどう考えても不十分なモノで、未だスピードは落とし切れていない。いくらあの小回りの良かった軽トラでも、このコーナーをこのスピードでは曲がれないに決まっている。

 ぶつかる。そう思った矢先。

 激しいスキール音が辺りを満たす。

 コーナー内側の植木がある溝に右フロントタイヤを引っかけながら、<サンバー>のテールがクイックに振られた。


「青海の武器は、ずばり『サイドターン』だ」

 黒崎と桃山がシケイン第三コーナーに到着した頃には、既に青海が通過していてギャラリーの話題を総なめしていた。

「それって、難しい技なの?」

「いや、むしろ超初心者向けのテクニックだ。コーナー手前で減速し荷重をフロントに移して、サイドブレーキを引くことで後輪をロック。一気にケツを振る、ドリフトの簡易版みたいな技だよ。難しいテクも要らないし、どこでサイドブレーキを引くのかの見極めさえできてりゃ初心者でも出来る。実際ドリフトをする際にも、滑るきっかけ作りとしてサイドターンをすることもあるくらいだ」

 ギャラリーたちの話を小耳に挟んで、黒崎は青海が何をやってのけたのか瞬時に把握した。

「けれど、そんなサイドターンでも極めりゃ話は別なんだ。特にアイツのは格が違う。あり得ないくらいギリギリまでスピードを上げて、減速のアクションをわずかなフットブレーキとたった一回のサイドブレーキに集約させる。しかも特別な技として、青海は溝落としを使ってるんだ」

「えっ……溝に落ちちゃうのって、失敗じゃないの?」

「あいつは意図的にやってるんだ。前輪を溝や出っ張りに引っ掛けることで、車体が曲がる時の遠心力を抑える。そうすることで、よりワンテンポ速いスピードでサイドターンが出来るんだ。よくWRC(世界ラリー選手権)で使われる技なんだけど、青海は完璧にマスターしている。常識的なテクであるはずのサイドターンを、青海は非常識な使い方で駆使してるって訳だ」

 南側を向くと、青い<サンバー>のテールライトがかすかに見えた。今頃、S字を通過してロングストレートに突入しているのだろう。

「ところで桃山、<86>と<サンバー>の違いって何だか分かるか?」

「いや、何から何までまるっきり違うと思うけど……」

 桃山が真剣に悩む表情を浮かべたが、そもそも外見からして違うのでどこから指摘すればいいか分からなかった。

「そこまで難しく考え込んでも答えは出ねーぞ? もっとラフに考えろ。まず、外見が違う。スポーツカーと軽トラだ、共通点なんてタイヤが四つ付いてることくらいだろう」

「あと、さっき言ってた駆動方式の違いとか!」

 難しく考え込んで答えが出たからか、桃山が嬉しそうに答える。

「お、よく覚えてたな。その通りで、FRとRRの差がある。他には重量だとか馬力だとか。でもな、実は相違点がこれくらいしか無いんだ」

 そう口にする黒崎の表情は、先ほどよりは少し明るかった。

「<86>は完成度の高いコーナリングマシンだが、これは水平対向<ボクサー>エンジンの『低重心』という特性から来ている。つまり、曲がっていても安定するんだ。で、青海の<サンバー>はその軽さで遠心力を抑えて安定した走りをしている。<86>には前後重量比のアドバンテージがあるけど、<サンバー>にはRR駆動とコンパクトさによる小回りの良さがある。つまり、相手の長所と被らせて殺しに来てるんだ」

 <86>の存在意義はコーナリングにあるが、それは<サンバー>も同じである。そのため相手方はアドバンテージを確保できず、結果として今の<86>と<サンバー>が互角になる。

「そこに青海の非常識なサイドターンが加わるから、むしろあいつの方がレースをリードしているんだ。コーナーのタイムはどう考えても、青海の方が赤羽さんよりも速い。このことを上手く使えば、勝算はあるんだけどな……」

「ストレートがどうなるのか、でしょ?」

「だがそれも、あいつは恐らく対策してある。この埼玉大学というコースそれ自体だ」

 クルマの進んでいった方向へと、黒崎がおもむろに歩き出した。

「ここじゃギャラリーしてもつまらない、青海が仕掛けるつもりのポイントに行こう」

「う、うんっ!」

 その言葉を受けて、桃山も小走りで続いていく。


 #2《Frontal Impact/Daniel(SUPER EUROBEAT Vol.179)》


 駐輪場連続シケインの次に待ち受けているのは、ストレートからの『理三裏S字カーブ』だ。赤羽がそこを変わらずハンプで跳ねてからのドリフトで駆け抜けていると、バックミラーに奇妙な光景が映っているのに気付く。青い<サンバー>が信じられない程のスピードでサイドターンを決め、彼の<86>よりも速いペースでシケインをクリアーしていったのだ。

(げっ、マジかよ……あいつ、頭のネジが百本くらい飛んでんじゃねーのかぁ?)

 普通の神経を持っている人間ならば、あそこまで危険で高速な走りは耐えられない。どこかで感覚の限界が来て減速してしまうはずなのに、青海はそれをしなかった。普段ラリーを走り込んでいるドライバーでも、あそこまでのスピード感覚は養えないだろう。

(お前が生粋のラリーストだってことは重々承知した……けどな、俺にだってナイトフライトの面子ってモンがあんだよ)

 理三裏S字を立ち上がってからハンプをもう二つ乗り越えて、赤い<86>は長い『工学部横コロナーデストレート』へと突入してゆく。その頃後ろでは<サンバー>が、猛スピードのグリップ走行でS字を通過していた。

「さぁ、ロングストレートの始まりだぜっ!」

 楽しそうに赤羽が叫ぶ。最近は首都高速埼玉大宮線を走り慣れているので、トップスピードを出せるストレート区間は彼の本領発揮とも言える。シフトを四速に入れアクセルを煽り、<FA20>水平対向エンジンをこれでもかとうならせた。

 しかし、それは不発に終わる。

(何だ、地震……違う、このクルマだけ揺れてるのかっ?!)

 サスペンションの悲鳴が聞こえて、反射的に赤羽はシフトダウンして減速させてしまう。足回りを壊しては元も子もない、危うく走行不能になってしまうところだった。

(ここはダメだ、路面状況が悪すぎる。冷静になれ、コースの条件は相手も同じはずなんだ……)

 落ち着いて加速し直し、時速六〇キロ程度に抑え込む。彼の<86>では、せいぜいこのくらいで精いっぱいだった。

 機械材料工学科棟を過ぎたところで、後方をもう一度確認する。あの青い<サンバー>もこのコロナーデストレートを走っているはずで、きっと彼も速度は同じだ。だから等間隔が保たれて、或いは二台の差がもしかしたら開いていて――。

 そう思ったのも束の間、彼我差は確実に縮まっていた。

(そんな、どうしてだよっ?! あり得ねぇ……っ!)

 目測で、おおよそ十五メートル。このペースだといずれ追いつかれてしまう程の間隔しか無い。見てみると<サンバー>は、確実に時速七〇キロは出している。この路面状況であそこまでスピードを上げるのは、どう考えても自殺行為だ。

 しかし青海のクルマを観察すれば、自分と相手とで何が違うのか、赤羽の中で解決した。

(そうか、そういうことか……コースを選んだのは向こうなんだ、このくらいは想定すべきだった! でもな、このコロナーデストレートだってもう終わるぜ)

 工学部実験棟二号館の角を右折するのが、一周目のルートだ。赤羽は既にそこへと差し掛かっていて、曲がればこのコロナーデストレートも終了して違う路面コンディションになる。いくら小径の直角コーナーといえど、今の<86>のスピードならばグリップ走行で通過可能だ。

(見てろよ、ドリフトだけが<86>の見どころじゃあねーんだぜっ?!)

 低重心と前後重量比のステータスをフル活用して、コーナリングマシンとしてのポテンシャルを発揮させる。クイックにハンドルを右へと倒し、無事に抜けることが出来た。

 先ほどのシケインを思い出せば、このセクションでも<サンバー>の方がクイックにサイドターンをかますだろうから、赤羽よりも速いことは想像に難くない。このことは認めざるを得なかったが、しかし他のストレートではそうもいかないはずだ。地面がフラットならば、<86>が<サンバー>に負けるはずが無い。

 しかし直角コーナーの先に伸びる『工学部ロングストレート』は、工学部横コロナーデストレートを少し短くしただけの道だった。


「埼玉大学、それ自体がストレート対策……」

 桃山が言葉を反芻(はんすう)しながら思考を巡らせていたが、黒崎は知恵熱が出る前にそれを止めさせた。

「SRC、特に今回青海が設定した順路には、大きな落とし穴があるんだ。その前に……桃山、お前はこの大学構内にいくつか地面が盛り上がった部分があるのに気付いているか?」

「えっと……あれだよね? 道を横切るような感じに細長くて、周りに銀色の設備がある、段差みたいなやつ」

 桃山が指差した先には、確かに細長く盛り上がった段差があった。大学構内でスピードを出し過ぎないように設けられた、安全用の設備。

「俺たちはあの段差のことをハンプって呼んでる。これがSRC攻略のカギで、いかにスピードを出しながらあれを乗り越えるのかが課題なんだ」

 それではハンプが設置された意味が無いのではないか、という突っ込みは無粋である。

「跳ねて困るのは、最低地上高の低いクルマだ。着地の時に床下を擦りかねないからな……んで、その最低地上高の低いクルマの代名詞がまさしく、トヨタ<86>。逆に高いのがスバル<サンバー>だとかの軽トラで、だからハンプは特に赤羽さんに対して不利に働いてるんだ」

 他にも、メーカーが想定している状況の差もある。例えば<86>のようなスポーツカーは凸凹の少ないサーキットでいかに速く走れるかを目指して開発されているが、軽トラは基本的に農道や峠、オフロードなど路面の波打ちが酷い状況での走行を念頭に置かれている。そのため<サンバー>の方が、サスペンションが幾分か丈夫で無理が効くのだ。

「赤羽さんが跳ねないよう遅く走ってるところでも、青海くんは飛ばしていけるってことなんだね」

「あぁ、だがこれは落とし穴では無い。青海の狙いは、この理論を応用したところにあるんだ」

 黒崎と桃山が、理三裏S字カーブを歩く。路面は比較的フラットで、ハンプがいくつかある程度だった。この辺りならば、<86>もある程度はスピードを乗せられるはずだ。

 しかしその先の工学部横コロナーデストレートに目をやると、状況は一変していた。入口には二つのハンプが連続しており、路面も酷く波打っている。付近の空地や緑地から飛んできた砂もちらほら見受けられた。

「普通、ストレートってのは一番スピードが出るところなんだ。コーナーが無く、減速する必要も皆無だから。だからこのコースに詳しくない奴は、S字を抜けた先は高速セクションだと思い込む。だけれどもこのコロナーデストレートの場合、バンピーで中々速くは走れない。つまり路面状況に対してオーバースピードになりがちで、減速を誘う仕組みになってるんだ」

「じゃあ、赤羽さんも減速して……」

「加速も間に合わず、結果として速いアベレージスピードで走れる軽トラに差を縮められる」

 ドライバーの心理を突く、巧妙なトラップ。しかも不思議なことに、それを仕掛けているのは埼玉大学というコースそれ自体なのだ。

「でもな、あと一つだけあるんだよ。コロナーデストレートの先は直角コーナーで、次の工学部ロングストレートの状況が見えなくて把握できないブラインドコーナーになってるんだ。んで人によっちゃ次こそは平坦なストレートだと思い込むんだが、それが大きな間違いでな……実はこのロングストレート、コロナーデストレートとどっこいどっこいのバンピーさなんだ」

 ブラインドコーナーの先に広がる、コロナーデストレートの延長線。この二つ目のトラップは、まさしく挑戦者に対する追い打ちだった。


(クソっ、どうなってやがんだここはっ?! 用務員のおっちゃんは仕事してねーんじゃねーのかっ?!)

 赤羽は工学部ロングストレートに翻弄されていた。まだ路面が波打っているコースが続いていて速度が出せないほか、ゴミ置き場のゴミが片付けられておらず走行ラインが強制されてしまっている。しかしそんな道でも青海の<サンバー>は果敢に攻めて来ているので、二台の間隔が更に縮まっていた。

(こうなりゃあそこのコーナーも慣性ドリフトで――ダメだ! ただでさえ狭いってのに、ハンプがご丁寧に入口出口の両方に設置されてるっ! ここをそんなに飛ばす奴とか居るわきゃねーだろ、みんな安全運転なんだよぉっ!)

 心中で悪態をつきながら、<86>は慎重にハンプを超えながら建設工学科棟二号館脇を右折、埼玉大学ホームストレートへと再度進入した。一方の<サンバー>はハンプの手前でわずかに減速する程度で、乗り越えた後に溝落としからのサイドターン、すぐさまこちらもホームストレートに入る。

 しかし、ここでは<86>の方が有利だった。

「来た、この路面はフラットだっ!」

 今までの裏道とは違い、ここは大学のメインストリート。道幅もかなりゆとりがあり、何よりも路面が波打っていない。ハンプも情報システム科棟まで存在しなかった。

(ここなら飛ばせる、アイツと同じく七〇キロまで出せる! 久々に気持ちいい気分だぜっ!)

 ようやくエンジンを六〇〇〇回転まで回せるようになり、赤い<86>が颯爽とホームストレートを駆けていった。


「じゃあ、青海くんは勝てるんだよね?」

 ほっとしたような桃山の表情だったが、対する黒崎は苦虫を噛み潰した顔だった。

「工学部ロングストレートの次は、埼玉大学ホームストレート……しかもコントロールラインを超えたら、また平坦なストレートが続くんだ。ここが<86>の全開区間で、恐らく<サンバー>との差は開くことになる。単純な馬力じゃ負けてるからな……重量差から来る加速だけでは、どうしようも出来ない」

 ホームストレートは路面のコンディションが良く、大学随一の高速セクションだ。だから赤羽の<86>でもかなりの速度で走ることができ、いくらサイドターンでスピードを乗せたままの<サンバー>でも力負けしてしまう。

「じゃあ、この先……!」

「不安なんだ。青海がどんな対策を立ててるのか、俺には想像がつかない。相手に有利な状況で、どうやって攻略するのか……」

 長い付き合いの経験を以てしても、黒崎には青海の考えていることが見通せなかった。普通ならばコース選別の時点で教育棟群裏手のテクニカルセクションを選ぶはずなのに、彼はわざわざ不利なホームストレートを選んだ。狙いとしては建設二棟の直角コーナーで差を詰めるつもりだったのだろうが、その背後に控えるストレートは長すぎる。

(青海、一体何を考えているんだよ……?)

「おい皆、二台がとうとうホームストレートに突入したぞっ!」

 ギャラリーの誰かの叫ぶその声が、理三裏S字に響き渡った。


 #3《Victim/Leslie Parrish(SUPER EUROBEAT Vol.158)》


 その男性は今、死のうとしていた。

 親から自由を与えられなかったため、とてもつまらない人生だった。何かに打ち込むことも出来ず、だから仲間や友人も出来ない。独りぼっちであるだけでなく、そこから脱却する方法すら分からない。

 決定的な一言は、中学の同級生から貰ったモノだ。

『アナタって、空っぽだよね』

 否定できないことが、そうでないと言うことが出来ない自分が憎かった。全くもってその通りだったのだ。

 次の日には自分と他人はどこが違うのかを数えてみて、そうしたら何もかもがどうでも良くなった。

 カウントが二〇を超えたところで諦めた。普通の人と、明らかに違う。回りが持っているモノを、たった一人彼だけが持っていなかった。

 それはきっと、アイデンティティと表現される。

 空っぽだなんて、よくもそこまでにドンピシャな表現を見つけてきたものだ。彼は絶望した。親が嫌いになった。全てが嫌いになった。自分が嫌いになった。

 そんな彼に、微笑みかけてくれるヒトが居た。

 最初は大学の講義で、グループワークをした時だった。彼は唯一何も発言していなかったのだが、そのヒトはそんな彼を見捨てなかった。どうにかして彼から何かを引き出そうとして、そして遂には彼の意見を引っ張り出してくれた。

 達成感とあのヒトの笑顔を、忘れられない。

 ボロ雑巾だって絞ってみれば、意外と吸っていた汚水も出てくる。彼は初めて、自分にも考えていることがあるのだと知ることが出来た。

 それからは、そのヒトと頻繁に話すようになった。話題は向こうが提供してくれる。このことについてどう思うかと訊かれ、率直な意見を簡単に伝えて、そのヒトが彼の考えを基にして理論の肉付けをしてゆく。いつもそんな感じだったが、そのヒトは楽しいと言ってくれた。

 そんな日々が楽しくて、だけれどもそのヒトは留学してしまうことになった。元々国際関係論に興味のあるヒトだったので、彼は引き止めずに応援しようとした。

 けれどもそのヒトが帰ってくる頃にはもう、彼は卒業してしまう。二度と会えない、このことがとても怖かった。空っぽと言われた時よりも、母親が大切にしていたグラスを割った時よりも。失うということを、彼は初めて知った。

 だから最後にと、そのヒトに彼の気持ちを伝えた。

 離れたくない、ずっと一緒に居たい。繋がっていない時間は苦痛で、もう辛い思いはしたくない。アナタのことを、好きだと思っている。アナタは自分のことをどう思っているのか、それだけを聞きたい。

 そんな彼の想いに、そのヒトは答えた。

『ゴメン、同性同士は友達にしか思えない』

 そう残して、そのヒトは遠くへと行ってしまった。

 もう、彼には何も残されていない。

 彼の『空っぽ』を否定してくれるヒトは、もう居ない。

 だから、この教育学部コモ一号館から飛び降りようと思う。

 ここはいつでも開いているし、屋上へ出る鍵だって簡単にピッキングできる。緑色の屋根の上にまで来るのは容易かった。

 目下には、埼玉大学のメインストリートが広がっている。彼が目立つところで死ねば、流石に誰かかまってくれるはずだ。しかも特に、今日は人が多い。彼にとっては好都合だ。

 遺言を残すほど、彼に思うところも無い。

 少し怖かったけれども、あのヒトを失った時の辛さよりはマシだった。

 その虚空へと、一歩歩み寄る。

 全体重を、重力に任せる。

 頭と体が逆さになって、上からコモ棟のガラスが流れていく。

 そして彼は、青い軽トラの荷台へと落下し衝突した。


 走行中、青海は背中に衝撃を感じた。

(かかった……予想通りだっ!)

 <サンバー>の車体が上下方向に揺れ、それが青海の確信に変わる。

(このホームストレート、そして次のツインストレート……どっちでも、この<サンバー>は不利になる。単純な直線勝負じゃ、このボディの軽さが逆に命取りになるんだ)

 駆動輪に確かなトラクションを覚える。エンジンの回転数は変化しないのに、スピードが確実に上昇していた。時速にして、七五キロ以上。少しずつだがじわりじわりと、赤い<86>のテールが近くなってきた。あともうひと踏ん張りで、きっと手が届く。

(予想出来なかっただろうな。これは、俺の作戦なんだ……)

 何日も前から、ツイッターを追っていた。その兆候は見て取れたし、自殺できる程に背の高い建物なんてこの辺りではコモ棟くらいしか無い。

「死体を死重とする、このチューニングっ! 意外だろうけど、SRCにはこーゆー方法だってあるんだぜっ?!」

 八〇キログラムものウェイトが、青海の<サンバー>をより速くさせた。


(チクショウ、何が起こっていやがる……<サンバー>に人が降ってきただと?!)

 バックミラーを確認しつつ、赤羽が心中で悪態をつく。これで青い<サンバー>はトラクションを獲得し、結果として元々詰まっていた差が更に縮まった。

(ダメだ、冷静になれ……! これまでのミラクルCは、偶然なんかじゃきっと無い。全て、あの青海の計算通りなんだ!)

 コース選定を相手に任せたのが、今の状況に響いている。何もかもが、青海の計画通りに運ばれている気がした。

 ここで赤羽が焦ってミスを犯してしまえば、相手の思う壺だ。埼玉大学ホームストレート中腹には、サル山により形成されたトリッキーなシケインがある。ここでアクセルを踏みすぎれば、彼の<86>はクラッシュ必至だ。

「そうはいかねぇぜ……最後に勝つのは、この俺なんだからよぉっ?!」

 叫び気合を入れながらシケイン通過。もう少しでスタート地点のコントロールラインに届き、二周目が始まる。このままの差で何とか乗り切れば、先にゴールするのは赤い<86>のはずだ。

 しかしそんな<86>のテールをあざ笑うかのように、青い<サンバー>はより速いペースでシケインをクリアーした。


「コモ棟でホモが自殺したぁっ?!」

「おいマジかよ、レース続行すんのかよそれっ!」

「しかも<サンバー>の荷台に落ちたらしいぜ……!」

 情報はすぐに回ってきた。ギャラリーたちが騒然とする中、黒崎だけが唯一合点の行った顔をする。

「そうか……確かにコモ棟は自殺の名所だし、飛び降りる奴は決まってホームストレート側だ……だからコースも、コモ棟正面を通過しないテクニカルセクションを選択しなかった。青海の奴も考えたな……!」

「え……っと、黒崎くん。どうしたの?」

 人が死んだというのに周囲が気にしないどころかお祭り騒ぎになっていることに戸惑いつつ、桃山が彼に尋ねる。

「青海のストレート対策。あいつはトラクションを稼ぎに来たんだ」

「と、とらくしょん……?」

 またもや知らない専門用語が出てきたので、黒崎が丁寧に解説する。

「日本語だと粘着摩擦だとか、牽引力って訳される。駆動輪にかかる力の一つで、ウェイトによって駆動輪に重力をかけることで空転を防ぐんだよ。軽トラみたくボディが軽いクルマはな、時として駆動輪が空転をする。そうすると特にストレートでエンジンパワーが路面に十分に伝わらなくなって、遅くなるんだ」

 クルマが動く原理は当然、エンジンのエネルギーで車輪を回し、その車輪が地面を蹴ることにある。つまり駆動輪と路面とが接地していなければ、クルマは走れない。このような状況を防ぐため、重さで無理矢理タイヤを地面に接地させる力がトラクションだ。

「そっか、青海くんの<サンバー>よりも赤羽さんの<86>の方が重いから……!」

「そう、トラクションの面では<86>にアドバンテージがある。けど、<サンバー>だって決してトラクションが無い訳じゃない。RR駆動は駆動輪の上に一番重いエンジンがあるから、そういう意味では<サンバー>は軽トラの中でもダントツのトラクションを持っている。ただそれが<86>に届かないってだけでな。そこで、今回の死体(デッド)ウェイトだ」

 先述の通り、<サンバー>は<86>の三分の二の重量しかない。しかし前後重量比で言えば駆動輪側に圧倒的な比重があるので、トラクションはそこまで大きく負けているとは言いがたい。そんな状況で、青海はプラスアルファを獲得した。

「ただでさえ前後重量比の偏っている<サンバー>を、もっと後部を重くさせる。こうすることで、総重量の増加以上のトラクションを獲得できるんだ。百キログラムも増えてないのに、トラクションはもっと増えてる。こうすることであいつは、路面状態のいいストレートでも空転させないようにした……その結果エンジンパワーが効率良く路面に伝わって、それでも比較的軽い<サンバー>の加速力も相俟って、だから<86>に近付いていっている……!」

 ちょうどそこで、別のギャラリーからの中間報告が聞こえてきた。彼によると、二台の差はもう三メートルちょっとしか残っていないそう。

「でもでも、重くなったんだったら……シケインの二周目とか、一周目で速かった区間でタイムが落ちるんじゃないの?」

「これからは、それ以上の効果が見込めるんだ。テクニカルセクションって言っても、サイドターンをしなくちゃいけない急コーナーはせいぜいあと二つ……残りはグリップ走行で行けるし、そのグリップ走行でモノを言うのがトラクションだ」

 何もかも、青海の手のひらの上で展開されているような気分に襲われる。

「青海、お前ひょっとして、もしかするとなのか……?」

 小さく、黒崎が親友へ向けて呟いた。


 #4《Midnight Love/Neo(SUPER EUROBEAT Vol.171)》


 全学一棟前にはホームストレート上に中央分離帯があり、そこだけ二車線に分かれている。つまり片側車線を走っているだけでは追い越しが出来ない構造で、だから赤羽はスピードよりもミスを削ることを重視しようと考えた。ラップタイムを求める『攻め』から、オーバーテイクされない『守り』の走りに切り替えるのだ。

(オーバースピードで突っ込んだら、スピンして元も子もねぇ……しかも、ここはギャラリーの目の前だ。ナイトフライトのリーダーとして、みっともない姿は晒せねぇからなぁ……!)

 ブレーキを踏んでからヒールアンドトウ、堅実にシフトダウンしてドリフトで右に曲がる。その先に伸びるのはレンガで舗装された『教養全学ツインストレート』と、その折り返し地点に待ち構えている『教育機構棟ヘアピンターン』。ここならば道幅も広く路面も平坦、<86>の性能がフルに生かせる。

「違う! そう思って飛ばしたホームストレートで、俺は差が縮められたんじゃねぇかっ!」

 赤羽に残されたマージンは、実質もう無いのかもしれない。あれほどの策士なのだから、青海は必ずどこかで追いついてくる。このセクションだって、ヘアピンターンで差が詰まりかねない。

(そうなると、これからはブロッキング重視の走りにする必要がある……あの<サンバー>がどこでパッシングを仕掛けてくるか、これを見極めねーといけねぇ……クソッタレ!)

 道幅の広いところといえば、もう残っているのはこのツインストレートか、終盤の『理学部ロングストレート』しか無い。いくらすぐ後ろに居ると言っても、ここで抜いてくるのは流石に無理がある。ならば、選択肢は理学部ロングストレートしか残されていない。

(あそこまではまだ距離もある……無理に勝負に出るんじゃなくて、慎重な走りが必要なんだ……っ!)

 そう思考する赤羽は、既に焦りを見せていた。


 全学教養ツインストレートは、全学一棟と教養棟との間に挟まれた広場のことだ。ここにも中央分離帯があるため、オープンスペースが二本のストレートに分割されている。それでも道幅が広く取られていて、しかも煩わしいハンプだって無い。だからこのセクションでは毎度、SRCの中でも抜群の全開走行が展開される。

 その二本のストレートを折り返すポイントが、教育機構棟ヘアピンターンだ。具体的には、機構棟の車椅子用スロープと中央分離帯とに挟まれたスペース。このヘアピンも広いということは、猛スピードで突っ込むドリフトが見られるということ。しかも走っているのは、ドリフトの美しい赤羽の赤い<86>だ。

 だからここは、大勢のギャラリーでごった返していた。恐らく、他のどのポイントよりも混雑している。裏手すぐには駐輪場連続シケインもあるので、そことハシゴできることも人混みの理由になっているのだろう。

「来たっ、赤羽さんの<86>だ!」

「突っ込んでくるぜ、全学教養ツインストレートっ!」

「あんなに飛ばしたドリフト見たことねー!」

「ナイトフライトの実力、見せ付けてやって下さいっ!」

 様々な野次が飛ばされる中、赤い<86>が颯爽と駆けてゆく。その姿はまるで、風に乗った真っ赤な鳥だった。

 しかしその直後、青海の<サンバー>が追いかけてくる。

「おい何だよあの速度、信じらんねー!」

「車体がフラフラ動きながら走ってやがる、危なっかしいったらありゃしねーぜっ!」

「俺、このレース終わったら<サンバー>を買うんだ……!」

 最後のセリフを零したギャラリーを轢きつつ、青海が果敢に赤羽を追う。トップスピードでは、もう二台に違いが無かった。

「曲がっぞ、教育機構棟ヘアピンターンだ!」

「あの速度でかよ、どっちも正気じゃねーっ!」

「おい誰か、サトシが轢かれたから衛生兵を呼んでくれ! こいつには生き別れの妹を探す使命が残されてるんだ!」

 <86>がブレーキランプを点灯させ減速しても、<サンバー>はまだスピードを落とさない。ギリギリまで減速しないレイトブレーキング、ようやく青海がブレーキを踏んだ時には<86>のテールに接触しそうだった。

「バンパーとバンパーがぶつかっちまう!」

「極限のストレート、血がゾクゾクするぜっ!」

「血が足りません、誰か血液がAB型の人は居ませんかーっ?!」

 堅実なブレーキングドリフトだったが、それでもギャラリーは興奮する。そんなところに限界のサイドターンが加わったのだから、もう皆のボルテージは最高潮だった。スキール音が耳をつんざき、タイヤの焦げる匂いが鼻腔をくすぐる。目の前に広がる光景は、もう二度と見られないかもしれないレベルの奇跡だった。

 赤羽のドリフトは僅かにラインが膨らんでしまい、それに対して青海は最高のパフォーマンス。ヘアピンターンを立ち上がったら、<86>と<サンバー>がテールトゥノーズでツインストレート後半を走行してゆく。

「信じらんねぇ、何だよあれっ?!」

「コブシ一つ分も余裕がねーぜっ?!」

「物理的に出来んのかよ、あんな限界の走りってのが!」

 目で追えない程の凄まじさで二台が全学一棟前を通過、ドリフトとグリップで右折してホームストレートに再度合流する。

 この先に待ち受けているのは青海の方が速いと証明済みの、正門バスロータリーゲートと駐輪場連続シケインだ。


「テールトゥノーズにまでもつれ込ませるとは……軽トラでここまでやるって、もう勝ったも同然だぞ?!」

 ギャラリーから情報を聞いて、黒崎は友人に対し戦慄した。このパフォーマンスは、完全に彼の想像を超えているモノだ。

 しかし、ここがピークという可能性もある。

「青海くん、これなら勝てるかも……!」

「いや、悪いがそれは難しいんだ。この先のテクニカルセクションは道幅が狭くて、パッシングが特にしにくい……理学部ロングストレートで青海が仕掛けるって赤羽さんは考えてるだろうから、簡単には前に出させてくれないはずだ」

 いくらテクニカルセクションで青海の方が速いからと言っても、赤羽を抜けるかどうかの話は別だ。それにここまでの限界走行ならば、青海も前のテールを追いかけるだけで精一杯なはず。ましてやオーバーテイクなんて、相当の技術と戦略が無ければ不可能だ。

「けれども、その技術と戦略を持っているのが青海だ……あいつは、必ずこのポイントで仕掛けてくる」

 小さく呟いた黒崎のそれに桃山がピクリと反応したので、彼は小噺を聞かせてやる。

「なぁ桃山、あいつの特徴は何なのか分かるか?」

「えっ? っと……誠実で、真っ直ぐで、エネルギッシュで、優しくて、カッコよくて……」

「お前の惚れた理由じゃない、青海の走りの方だ」

「えぇっ?!」

 顔を赤らめる桃山と、かなりばつの悪そうな顔の黒崎。

「青海くんは、普通以上に運転が上手いし……あと、あれだよね? サイドターンってやつ」

「そうだ、技術面であいつはピカイチの才能を持っている。おまけに普段つるんでりゃ分かってるだろーけど、頭が切れる。その二つが青海の青海たる所以だが、あと一つだけ特徴があるんだ」

「あと、一つ……?」

「普段の走りを見てなきゃ分かんねーだろうけど、あいつの乗るクルマには傾向がある。必ず小型軽量のクルマだし、しかも決まってボディカラーが青なんだ」

 その言葉を口にする黒崎は、先程と違い誇らしそうだった。

「だからいつの間にか付いたあだ名が、『青い流れ星』なんだよ」


 青海の目の前にはトヨタのロゴマーク。二台は接近したまま、正門バスロータリーゲートへと突入していった。

(このテールトゥノーズ、これは赤羽さんに対する心理攻撃だ……いくつもの陽動を重ねて、相手の精神を削る。じゃ無かったらこんなことは絶対にやらない)

 ゲートに突入する直前、<86>のブレーキランプが点灯。ほぼ同時に青海もフットブレーキを踏むが、彼の方が比較して減速時間が短かった。これでコブシ一つ分のマージンすら消え失せる。

 接触しそうで接触しない、文字通り紙一重の領域。

 魔物にしか成せないような技に、ギャラリーたちが騒然としていた。

 <86>に続いて<サンバー>も曲がるが、青海はクルマをオーバーランさせた。余分にロータリーを回ることになり、<86>の走行ラインからも外れる。立て直した頃には若干のマージンが発生しており、しかも<サンバー>は相手の右側を走行していた。

 ゲートバーのあるS字は先述の通り、二車線に分かれている。

 彼の目論見が上手くいった。

「さぁ……仲良くお隣同士で走ろーじゃねぇか、赤羽さんよぉっ!」

 S字の左車線を赤い<86>が、右車線を青い<サンバー>が走る。

 この局面で、青海はサイドバイサイドを仕掛けた。

 二台のクルマが並走する。<86>の方がフェンダー分だけ前に居るものの、テールの位置は両方とも同一だった。

 こうすることで、赤羽のブロッキングを封じることが出来る。それどころか、抜こうと思えばどこでも抜けるポジションだ。

「なぁよぉ、赤羽さん……アンタ、この状況は楽しんでるかぁっ?! 俺は楽しいね、アンタとこう出来て僥倖だっ!」

 アドレナリンが過剰に湧き出て、青海の精神を刺激する。スタートではあんなにも千切られていたのに、それが今では肩を並べているのだ。

 サイドバイサイドを仕掛ける理由は、もう一つある。アベレージスピードは<サンバー>の方が速いため、テールトゥノーズでは追突しかねなかった。そこで肩を並べることにより、青海の目の前がクリアーになる。だから前方の状況を気にせず、思う存分飛ばせるようになるのだ。

 S字を立ち上がり短いストレートを通過して、駐輪場連続シケインに入る。ここは青海の方が速いのだから、赤羽に勝ち目は残されていない。

 だからだろうか。<86>のノーズを無理矢理<サンバー>の目の前にねじ込んでドリフト、決死のブロッキングをかましてきた。

(驚いたな、まだこんな方法でブロック出来るとは……ボディの大きさを武器にしてきた)

 連続シケインは狭いコーナーが多く、つまるところ<86>がドリフトしたらそれだけで塞がれてしまう。いつまで持つかも確信の無い、死に物狂いのブロッキング。ハンプの攻略も、殆どステアリングを切りながら飛んでいた。そうすると着地の挙動が危うくなるのだが、赤羽はそれすらもギリギリのところでコントロールしている。だからコーナーを二つ立ち上がった後のショートストレートでも、青海は赤羽のことを抜けなかった。

(意外と持ちこたえてるな……けど、次のコーナーじゃあ俺の方がイン側なんだ)

 最後のコーナーは一段と狭く、<86>のフロントフェンダーに横から<サンバー>が突っ込んでいるような、俗に言うTボーンに近い構図になった。当然赤羽のドリフトよりも、青海のサイドターンのほうが速い。出口のハンプを越えた頃には、二台のノーズが並んでいた。

(さぁ、ここからは二回目の理三裏S字カーブだ……)

 ターボチャージャーのように深呼吸して、頭に酸素をめぐらせる。

「こっからが、『青い流れ星』のショータイムだぜっ!」


 #5《Night Flight To Tokyo/Matt Lande(SUPER EUROBEAT Vol.144)》


 激しいスキール音とエグゾーストノートが耳に届く。もうすぐ、赤羽と青海がもつれながらこの理三裏S字カーブに突っ込んでくるのだ。

 心配そうに、桃山が呟く。

「青海くん、前に出てるかな……」

「……いや、まだだ。まだ青海は仕掛けてない。あいつはここに山を張ってるんだ」

「やま……?」

 一方の黒崎は、声と掌に汗を滲ませていた。

「あぁ、ここで勝負が決まる。桃山、あいつの――頑張ってる青海の姿を、ちゃんと見ててやってくれ」

「うん……分かった」

 堅く、桃山が約束する。

 やがてサイドバイサイドで、赤と青がこちらに向かってきた。


 軽トラと並走するだなんて、赤羽のプライドは酷く傷付けられていた。

(クソっ……クソっ! 何だよ、どうしてこの俺に追いついてるんだっ?! 俺はナイトフライトのリーダーなんだぜ?!)

 サイドバイサイドは、道幅を目一杯使っている。限界までアクセルを踏んでいるはずなのに、<サンバー>のことをちっとも離せない。やがてハンプをまた飛び越えて、理三裏S字カーブへと再突入していく。

 道の左側には赤い<86>、右側には青い<サンバー>。次のコーナーは、左カーブだ。

(よし、俺の方がイン側だ! これで盛大に――)

 そう思って赤羽が自信を持ち、ドリフトを仕掛けようとする。<86>のコーナリング性能をもってすれば、このコーナーでも相手との差をつけられるはずだ。

 しかし、赤羽のドリフトは物理的に不可能だった。

「な、ん、だ、とぉっ?!」

 <86>がテールを振るべき位置に、青海の<サンバー>が居たのだから。

(しまった、このコーナーは道幅がクルマ二台分しか無い……だから、あんな小さな車体でもブロッキングできちまうんだ!)

 それも、相手がアウト側に居たことも災いした。こちらの方が外ならば先程のシケインのように先行してノーズを割り込ませることも可能だったが、今回はその逆だった。<86>がイン側だったので、<サンバー>が邪魔でテールが外側に振れなかったのだ。

「クソっ、たれ……!」

 打つ術も無くブレーキを踏み、赤羽は青海と共に減速してグリップ走行をする。サイドバイサイドの状況は変わらず、S字後半の右コーナーへと突入する。

 そう、右コーナーなのだ。

「まさか、マジかよっ! カウンターアタック……っ?!」

 今度のコーナーでは、グリップ走行において有利なイン側に青い<サンバー>が居た。

 カウンターアタック。主にS字セクションで展開される技で、最初のコーナーはわざとアウト側に飛び込み、向きの変わる次のコーナーで有利なイン側にポジションを変える。こんな初歩的なテクニックに、赤羽はまんまと仕留められてしまった。

(しかしだな、トルクの利はこっちにあるんだ……再加速じゃあ、俺の<86>の方が速い――)

 じりじりと<サンバー>にリードされてゆく、コーナーの途中。負けじと赤羽がアクセルを煽ってスピードを乗せようとするが、しかし今一つ速くならない。まるでクルマがいきなり鉛の塊になったような、そんな錯覚を感じた。

「な、何でだよっ?!」

 慌てて原因を探る。タイヤのバーストだとか、足回り関連では無い。エンジンブローを起こした訳でも無い。このクルマのコンディションは、至って健全だ。

(いや――)

 先程、ブレーキを踏んだことを思い出す。

 タコメーターに目をやる。回転数は、三五〇〇回転。

「まさか、噂にあった『トルクの谷』っ?!」

 鮮やかに、彼の隣を青い流れ星が駆け抜けていった。

 <FA20>水平対向エンジンには、ある一つの噂がある。それがこのトルクの谷だ。

 基本スペックとして、このエンジンのトルクは二〇、九キロだ。しかしエンジンの回転域が三二〇〇から四五〇〇の区間のみ、トルクが十四パーセント低下するというデータが存在する。このパワーの落ち込みこそがトルクの谷だ。

 このことに気付いているドライバーは少なく、しかも普段乗っていて気付くほどの差では無い。だから都市伝説級の扱いだったのだが、しかし今の赤羽はひしひしと痛感していた。

 思うように、加速してくれない。

 理三裏S字カーブを通過し終わると、赤羽は<サンバー>のテールライトを初めて目にした。見事なまでに、トルクの谷を突かれてオーバーテイクされたのだ。

「あり得ねぇ……こんなのはよぉ、あり得ねぇっ!」

 再び追い抜き返そうと、反射的にアクセルを深く踏み込んだ。S字の次には短いストレート、直角コーナーを経て理学部ロングストレートがある。

 目の前の<サンバー>は、グリップ走行で難なくクリアーしていった。

 置いてかれる。焦燥感が、彼を支配した。

 直角コーナーを慣性ドリフトで抜けないと、赤羽に勝ち目は無い。そう判断して、彼は勢い良くテールを振った。

 だから、ここでミスが生まれる。

「っ――?!」

 コーナー手前のハンプに、横を向きながら突っ込んでいった。

 車体が大きくつまずき、反動で宙を舞う。赤羽の身体中の血液が、重力で頭の頂点へと上っていった。

 赤い<86>が、くるりと一回転分もロールした。

 時間の流れはゆっくりで、視界には逆さまの理学部ロングストレートが映る。彼が毎日のように利用している工学部講義棟を、初めて上下反対の姿で見た。視界の天井に、青い流れ星が一つだけ流れている。

 着地して、強い衝撃が彼を襲う。内臓がシェイクされた気分になり、思わず吐き出してしまいそうだった。

 そして、ドライブシャフトの折れた音が響く。

 完全に停止してから、赤羽はそのクルマから降りた。

 マルボロのタバコを一本だけ加え、ライターで火をつける。

「……完敗だよ」

 赤羽の<86>、理学部ロングストレート手前にてクラッシュ。

 こうして四、五分間に渡るSRCは終わりを告げ、青海の<サンバー>が奇跡の勝利を達成した。


「青海くん、おめでとうっ!」

「も、桃山……?」

 激戦を戦い抜いた<サンバー>から降りた青海に、桃山がいきなり抱きついてきた。

「あんな、危ない走り方して……でも、あんなにも頑張ってて! それで本当に勝っちゃって、私、私っ……!」

「いや、何で桃山が泣いてるんだって。嬉し涙を流したいのは、俺のほうなのに」

「やめとけ、お前にゃ似合わない」

「お、言ったな黒崎~?」

 友人たちと勝利の余韻に浸っていると、後ろから赤羽が歩いてきた。傷付いた彼の<86>は、JAFがレッカーして運んでいる。

「おめでとう、青海。完全に負けたよ」

「ありがとう……ございます、赤羽さん」

「おいおい、どうして敬語なんだ? バトルの前は、あんなに啖呵切ってたってのに」

 軽く笑い飛ばされるが、青海は愛想笑いしか浮かべられなかった。

「いや、冷静に考えたらかなり失礼なことしてたんだなー、と。先輩に対して、あんな口を利いてただなんて」

「いいさ、別に俺は気にしてない。それにお前が勝ったんだから、もっと堂々としてもらわないと負けた俺が困る」

 そう赤羽が言ってくれて、青海も肩の力を抜くことが出来た。

「いやはや、お前の戦略には驚いたよ……トルクの谷を突いたのだって、全部計算づくしなんだろ? カウンターアタックから、俺にブレーキを踏ませるところとか」

「それどころか、ホモの自殺まで計算通りですよ。サイドターンを決めるだけ決めてから、コモ棟前っていうちょうどいい位置でトラクションを増やす。全ては、スポーツカーの速さが絶対的なモノじゃないって証明するためです。コースの活用によっては、軽トラの方が速い」

 埼玉大学というコース、青海というドライバー、そして数々の戦略。これらの要素を持ってすれば、ピュアスポーツの<86>よりもピュア軽トラの<サンバー>の方が速い。この立場の逆転こそが、青海のやりたいことだった。

「あぁ、俺も思い知らされたよ。今まではクルマの性能が大きなファクターだと思ってたが、それは状況によってはウィークポイントとなる。速いクルマにそこそこのドライバーが乗るよりも、コースの特性に合った遅いクルマに速いドライバーが乗ったほうがタイムも良いってのが、今回の教訓だな」

「でも、赤羽さんも十分速かったですよ。それに、俺は別に<86>を否定したい訳じゃありません。あれはかなり良いクルマです。ただ、埼玉大学にマッチしてなかっただけで」

「そう言ってくれると、こっちとしちゃありがたいよ」

 赤羽が青海の眼をじっと見て、自らの右手を差し出してくる。

「これからもよろしくな、青海」

「はい、赤羽さん!」

 同じく青海も赤羽を見詰めて、右手を堅く握り返した。

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