月曜日のリカ

リカと呼ばれている女の子を七人知っている。戸籍上でリカという名前の女の子は四人、残りはエリカやらリカコというような名前だったように思うが、出会った時からずっと、リカという名前で呼ばれていた。もう四人は結婚していて、そのうち二人は離婚している。三人と付き合ったことはあるが、残りの四人はどうやっても口説き落とせた試しがない。七人とも出会った頃には彼氏がいて、うち三人は友人の彼女だった。一人は僕と誰かの二股をかけて付き合っていて、また一人とは彼女の浮気が原因で別れてしまった。


こんなクイズのようなことを書いていても仕方がない。リカの話を書こう。七人のリカのうちの二人のリカの話を。


以前の会社からまだ仕事をもらっているので、仕事の顔を繋ぎに、年に何回かは京都に戻っている。メールやデータのやり取りをするだけでも構わないですよ、と言われてはいるのだが、まだ京都には仲の良かった同僚や友人が何人かいるので、仕事を理由にちょくちょく戻っているのだった。

高速バスの乗車場に行く。旅行客だろう。大きなカートを持ったひとたちが屯している。浮かれるひとたちの群れに寂しくなってしまったのか、停留場で二人のリカにメールをする。簡単なメールを。明日からしばらく京都行くから時間あったらお茶しましょう。続けてふたりから返信がある。わかりました。楽しみに待ってますね。わかったよ。時間取れるかわからないけど、向こうでまた。ひとりとは以前付き合っていたことがあって、会社を辞めるちょっと前に疎遠になってそのまま中途半端に付き合いを続けている。もうひとりは以前働いていた会社の部下だった子だ。そのどちらとも京都に戻った際には会うようにしている。会社の部下だった方は、会社に顔を出すわけだからどうしても会わざるを得ないわけだが、二人でお茶をするのが好きな子なので、必ずそういう時間をとって会うようにしている。二人のメールの温度差と、旅へ向かうひとたちのはしゃぎを尻目にバスに乗り込んだ。


バスが着いたのは早朝で、さすがに会社の人間は誰も出勤していないだろうと思い、駅前のカフェでコーヒーを飲みながら、頭を完全に仕事のほうにシフトするために調整する。それから四時間、午後になるちょっと前に会社に顔を出した。


「僕もね、取締役にまでなりましたから、これからはもっと安達さんに仕事回せますよ。これからもがんばってください」と以前の同輩から激励を受ける。さすが元同輩、悪くない反応だ。

「ところで」と元同輩の棚田が切り出す。

「うん? どうしました?」

「今日、リカちゃん休みなんですけど、どうしても頼みたいことがあるそうなんで、明日もこっちに顔出せますか?」

「あー、うん。問題ないと思いますよ。ちょっと今日より早めの時間に来ると思いますけど、その時間、誰か居ますか?」

「外注のシステム屋が泊まりこみなんで大丈夫ですけど、予備カード渡しとくんで勝手に入ってて構いませんよ」

わざわざ悪いね、と言ってこの会社に通っていた時のように仕事をする。悪くない、と改めて思う。ちょっと脳の調子を崩してしまい退職してフリーランスになってしまったが、このまま会社に残っていても良かったなと思う。この感じ。スイッチは完全にこちら側にある。適当に仕事を切り上げ、夜にホルモン屋に行く約束を同輩などとして会社を後にした。

なぜだかわからないが、もう一人のリカに連絡する気が全く起きなかった。会って心を乱されるのが怖いのか、いつものように温度の低めの反応を貰うのが怖いのか、このまま連絡を絶ってしまっても、と考えてしまう。別れてから何回か呑みに行ったり、お茶したりはしていたのだが、なぜか一本の電話も入れられない。結局、なんの連絡すら入れないまま、烏丸にあるホテルにチェックインした。


次の日、午前八時に会社に顔を出すと、システム屋の中に懐かしい顔を見つけたので、作業を中断してもらいしばし世間話などをする。

安達さんフリーになったんだ、どおりで来てもいなかったわけだ。儲かってますか? や、全然ダメさ。入間くんはまだフリーにならんの? いや、結婚したばっかなんでそんなだいそれた事できません。そう。おめでとうね。はは。そうな、大それてる、な。

などと話していると背中から「おはようございます!テツヤさん」と元気な声が聞こえる。リカの声だ。二人で振り向くと、入間くんまで振り向いたことに意外だったのか、恥ずかしそうな顔をした。それからしばらく間があって、ちょっと休憩室の方に来てもらえますか? とリカが言うので、入間くんの怪訝な表情を後ろに休憩室まで二人で歩いた。

「で、なしたのさ? なんか棚田くんがリカちゃん頼みたいことあるよみたいなこと言うてたんやけど」

「あれはですね、あ、ちょっと待ってください。コーヒーと資料持ってきますから」

資料? と聞き返したときにはもうすでに席をたっており答えはなかった。なにか新しい仕事を振るつもりなのだろうか。もうそこまで成長したのか、と灌漑深い気持ちになる。リカは僕が会社を辞める半年ほど前に入社してきた子で、教育からフォローまですべて僕が行なってきた。そうか、もう二年だもんな、さすがに一人前以上に仕事をこなしてても不思議じゃねえな、そうか、二年な。そのうち、リカがコーヒー二つと資料を抱えて帰ってきた。

「はい、砂糖多めでよかったですよね」

「うん、悪いね。で、早速で悪いんやけどな、頼みってのを訊かせてもらいたいんやけど」

「えっと、この資料見てもらったらわかると思うんですけど、今日、午後から競合プレゼンなんですよ。いや、初めてのプレゼンでもないし、一人も三回目なんですけど、せっかくテツヤさん来るっていうんで、付き添いお願いできないかって思って」

「や、僕はプレゼン苦手やし、居っても役に立たんよ。横でニコニコしてるだけつうわけにもいかんしさ。神様連れていきやね」

どこの会社にもいると思うが、神様と呼ばれるような、いい仕事を取ってくる営業さんという人が居る。この会社は小規模な会社なので、純然たる営業はいなく、大抵、デザイナーやプランナーと兼任しているのだった。プレゼンの神様と呼ばれていたのは、取締役にまでなった同輩の棚田だ。

「だって」

「だって?」

「棚田さんちょっと苦手ですもん。ていうか、あれですよ。成長した私を見届けてこそ、テツヤさんも安心して東京で仕事に専念できるってもんじゃないですか?」

「ずいぶん無理矢理な理屈やな。まあ、まあ、ええよ、わかった。ホンマに横でニコニコしてるだけやで? 資料にも目は通しておくけどな」

「ありがとうございます。テツヤさんのそういうとこ、好きですよ」

「そんなん言うても、なんも出てこんで。ほんなら一応打ち合わせしとくか」と言いながら席を立ち、休憩室をあとにした。


プレゼンの資料に目を通していると着信があった。もう一人のリカからだった。やはり昨日と同じく気が乗らなかったが席を外して折り返す。

「なした? 時間、取れそ?」

「いつ帰る予定だった?」

「や、明日の深夜のバスで帰ろう思ってんやけど」

「じゃあ、ダメだね。どうやっても時間取れそうにない。ごめんね」

「そう。そうなんや。うん、わかったで。また近いうち京都戻る思うからさ、そんときにでも」

それじゃあ、と短く電話を切る。やっぱりダメだったかという思いと、また新しく彼氏でもできたかなという思いでいっぱいになる。こうなることを恐れてずっと連絡出来なかった。

もう一人のリカとは付き合っていた頃からお互い忙しいこともあり時間が取れず、すれ違いばかりだった。京都を出る直前までも別れる別れないの押し問答もないまま、今に至っている別れているのか付き合っているのかはっきり答えが出ないまま、宙ぶらりんのままだ。京都を出て東京に行きます、とメールした時に、私はいつまでもテツヤの側に居るから、と返信があった。いつまでも側に居るから、か。

「彼女とかからですか?」とリカがフロアの戸前から声をかける。

「だったらよかったんやけどな。お茶デートキャンセルの電話や。情けない」

「なあんだ。やっぱ今日のプレゼンいけんわとか言われるかと思ってひやひやしてました」

「なに言っとんの。いつまでも側にいるよ、や」

「なんですかそれ?」

「なんでもええがな。さ、打ち合わせ打ち合わせ」などと軽口を叩きながら席へと向かった。


午後からのプレゼンはいい出来だった。成否は後日とのことだったが、あの調子ならこちらに仕事が回ってくるだろうと確信できる出来だった。僕はほとんどすることがなく、簡単な質問に答えたり、ニコニコしているだけだった。もう立派に一人前やな、と帰りのバスの中で頭を撫でてやる。いつまで子供扱いなんですか? とリカがむくれる。

「なんや、もういっちょ前やなと思ってな、こうな、育てた子供が大きくなったなって感覚やな。感慨深いさ」と、まだふくれっ面のリカに言う。

「でもな、本当、今日はよかったと思うで。僕もこれで安心して東京帰れるさ」

「側に居てくれたからうまくやれたんですよ。ありがとうございます。いつ東京戻るんですか?」

「明日の夜やな。向こうでやらなあかんこともあるし」

「それなら明日の昼まで時間ありますよね?」

「あー、残念ながらガラ空きやな。さっきの電話でキャンセルになってもうたからな。アホほど時間あるな」

「それならお祝いやりませんか?」

「なんのさ? まだ仕事とれたわけちゃうねんで。あの調子ならいける思うけど」

「いや、ええと、成長祝いってことでいいじゃないですか」

「わかったわかった。ほな、今日、先斗町で店とるわ、お祝いやしな、さすがにいつものホルモン屋つうわけにもいかんやろ」

「やった。っていうか明日も一緒したらダメですか?お昼」

「みんなで?」

「いや、ちょっと相談したいこともあるんで、できれば二人っきりで。ダメですか?」

「デートの誘いってことにしてくれるんやったらええで」と軽口を叩く。この子ならうまくかわしてくれるだろうという確信とともに。

いいですよ、と一言だけ自信満々な顔で応える。意外だった。何言ってるんですかと軽くいなしてくれると思っていたのに。意外ではあったがうれしかった。もう誰も必要としてくれないのかと昼間の電話で思っていただけに、こういう反応に飢えていたのだと思う。わかったで、と答えたところで会社の前のバス停に着いたので、二人連なってバスを降りて会社へと戻った。会社のフロアに向かうエレベーターの中で、終始、リカはニコニコと笑っていた。


平日の先斗町は、観光シーズンを外れていたせいか人もまばらだった。細い路地を何本も抜けて予約した店に向かう。かつてはよく通っていた道を、かつての後輩と辿っていく。懐かしい気持ちになる。

「こうやって二人で歩いていると付き合ってるみたいじゃないですか?」

「おっさんが新入社員をだまくらかして飲みに連れていってるようにしか見えん。はたから見たらセクハラや」

「それなら」とリカが腕を組んでくる。咄嗟のことに反応できずに、なんや呑む前から酔っ払っとんのか、としか返せなかった。自分の中では、この子とは絶対的な線があって、それはずっと平行線のままで続いていくものだと認識していた。揺らいでしまう。腕を軽く払って、頭を撫でてやってその場を誤魔化したまま、予約した店に入った。

ゆっくり落ち着ける店がいいとのことだったので、何回かもう一人のリカと呑みに行って懇意になった店を選んだ。個室があって、お客との距離も遠くなく、近くもないちょうどいい距離をとってくれるいいお店だ。他にいい店が考えつかなかったため選んだに過ぎなかったが、まさか同じ名前を持つリカを連れていくとは思わなかった。もしかするとわざわざこの店を選んだのだったのかもしれない。もう一人のリカへの当て付け、そんな言葉が頭をよぎった。以前来た時のようにオーダーをお任せにする。

「慣れてますね。前に彼女と来たこととかあるんですか?」とリカ。図星だ。

「や、淵さんにええ店連れてってあげますよって、それで来たことあんねん」と思わず嘘を付く。淵さんというのは僕と同じ時期に会社を辞めた元同僚だ。食道楽で女の子に手が早く、女の子が喜びそうな店をたくさん知っている。この店を教わったのは彼からではあったが、連れて行ってもらったことはない。

「なあんだ。そういえば淵さん、お元気なんですか?」と話が逸れたことにほっとする。

「今、司法書士の勉強中で忙しいみたいよ。忙しい言うて、女の子の方は相変わらず励んでるようやけどな」

「あのひとはすごいですよね。わたしもなんか調子いいこと言われましたもん」

「ははは。なんてさ?」

「リカちゃんは僕の天使やでーって。確かに悪い気はしなかったですけど……」

「まあ、リカには愛する彼氏が居てるもんな。そろそろ秒読みなんちゃうん?」

「いや、それがですね。もう別れてますよ、その彼氏とは」

「は? そんなん聞いてへん聞いてへん。ちょ、一言ぐらい言ってくれてもよかったんに」

「言ってたら、テツヤさん、私を口説いたりとかしてくれましたか?」とリカが笑いながら言う。

あまりにものの直球にどうもこうもな、とへどもどしているとオーダーが通されてきたので話を中断することができた。ありがたい、と、とりあえず乾杯して、食事をした。そのまま、元同僚の今の状況や会社の状況などを話した。僕の方は特に変化のない毎日だったので話すことも少なかったが、お酒が入ってるせいもあり、リカはなめらかにたくさんの話をした。僕はそれを見ながら、リカの上気し、くるくると変わる表情や、仕草などを眺め、時折、うんうんなどと相槌をうって過ごした。表情と感情のころころろ変わるリカはもう一人のリカとは全く逆の性質で、僕はそういう女の子が好きだったということを思い出した。

お任せの最後の品の百合根の蒸したものが出てきて、ラストオーダーも近づいてきた頃、リカが言った。

「これ、明日相談しようと思ってたんですけど、気分いいんで今言っちゃいますね」

「うん、ええよ。なんでも相談しなね」

「あの、私も会社辞めてフリーになろうと思うんですよ、近いうちに」

「ええ? なんでさ? もう後輩も出来てな、一人前に仕事できるようになってな、これから面白くなってくるところやんか」

「うーん。仕事自体に不満はないんですけど、なんかテツヤさんがいた頃と違って、殺伐としてるんですよね、会社のなかが。棚田さんも前と違って、なんか陽気なお兄さんって感じではなくなったし、種さんも、や、他のひとたちもですけど、私が入社したころのひとたちって棚田さん以外みんな辞めてるじゃないですか。ちょうどテツヤさん辞める前後にほとんどひとも変わってしまって、なんか、こう、サークルみたいな雰囲気がなくなってしまったっていうか…」

「うん、それは僕もわかるけど、会社としては真っ当な成長やないんかな。業績あげていって、育て続けていくのが会社ってもんやしさ」

「それはそうですけど…… そういえば、テツヤさんはなんでフリーになったんですか?」

「ああと、な、まあ正直に言うか。簡単に言うとな、脳みそが故障したからやな」

「故障?」とリカが不思議そうな顔をして訊いてくる。

「うん。そやね、故障。いきなりね、ホンマにいきなりなんやけど、こうさ、バイク置き場にバイク置くやんな、ほんでそっから会社の入っとるビルの前に行くやろ? カードキー持って通せば会社に入れるわけなんやけど、そっからがどうしても体動かんくてな。ひどい時、入り口とバイク乗り場を行ったり来たりニ三時間してたりな。ほんなことやってたら今度はバイクもよう乗られへんようになって、そこで音あげて、うん、それまでは病欠いうことにしてあったんやけど、もう辞めますって電話してそれっきりや」

本当のことだ。きっかけはなんだったか今でもわからないが、突然、ビルの中に入れなくなった。別に霊的な力があるとか、磁場が悪いとかそういうオカルティックなことではなく、どうしても会いたくない嫌いなひとが居たわけでもなく、突然だった。足と手が会社に入ることを拒否する。得も知れない恐怖だった。

「今は大丈夫なんですか? 頻度は低いですけど会社来れてるじゃないですか」

「少しなら今は大丈夫。毎日、会社通うとかないしね、あと時間も自由やからさ、こうさ、スイッチングが出来る余裕があるからな。今から仕事するんや、みたいな、な」

「そうだったんですか。それこそ相談してくださいよ、私に」

「なんかさ、カッコ悪いやん。それよか、ずっと頼り甲斐がある先輩の印象でいたほうがええやろと思ってたしな。急に居らんくなるのもかっこええがな」

「かっこよくなんかないですよ!」とリカが突然声を荒らげた。自分でも大きな声が出たのが意外だったのか、恥ずかしそうに俯き、「ごめんなさい」と一言呟いた。僕のミスだと思った。なにか空気を変える言葉を探さなくては、と深呼吸する。

「うーん、と、そやね、相談したらよかったな、確かに。もしさ、もし、あんときリカに相談してたら僕になんて言うてた?」

「そうですね。手を、手を繋いで毎日出勤しましょう、一緒に、って」

「ははは、それええな。幼稚園児の引率みたいでな」

「それやったら」と僕の言葉に応えてくれて、空気を戻してくれたリカを愛おしく思いながら次の言葉を切り出す。

「それやったら、まだ会社に居れたかもしれんな。もしかしたらそのまま二人して会社行かんようになっとったかもしれんけどさ。そっか、手繋ぐ、な。ええね、それ」

「出来ましたかね?」

「ん? 会社に行けるようになるって話?」

「いや、そっちじゃなくて、二人して会社行かんようになるほう」

「まさか。駆け落ちじゃあるまいしさ」と笑いながら僕は、もう一人のリカと駆け落ちしようとしていたことを思い出していた。どうしても二人で会う時間が取れないリカに業を煮やした僕は、二人で東京でも行って仕事探して暮らそう、と言い放ったことがあったのだった。答えはノーだった。だって、だって? 永遠にうまくいくわけなんかないじゃない、と一蹴されてしまった。

「駆け落ちはさすがにちょっと困りますよね」「そやろ」と二人で笑った。


次の日、烏丸のホテルをチェックアウトする。そのまま会社に向かい、棚田や顔に馴染みのない社員たちなどに顔を繋いでからリカと食事に行くつもりだったが、昨日があまりにもイレギュラーな出来事ややり取りが続いたせいか、どうもスイッチングがうまくいってないような感覚に陥る。頭がついてこない。ホテル近くのカフェで調整を試みる。一時間。どうもうまくいかない。約束の時間までまだ一時間ある。大丈夫、きっとうまくやれると言い聞かせてカフェを出た。

街の中をただ歩く。歩きながらなるべく楽しいことを想像する。例えば、昨日のような夜を。例えば、昨日の夜に見たくるくると表情の変わる上気した顔を。そんな女の子と街をただ歩くさまを想像しながらゆっくりと歩いていく。時間はまだたっぷりとある。歩きながらでも調整は可能だ。頭をどんどんと仕事にシフトしていく。楽しそうな女の子の顔と交互に、会社のパソコンの前に座る自分の姿を映していく。

そのうち、会社の所有している駐車場のバイク置き場に辿り着いた。安穏、と書かれた仏具店に貼ってあるチラシに目が止まる。安穏。店のガラスに自分の姿が薄く映り、金色の文字で書かれた店名と共にやがて霞んで消える。動きたくない、と考えてしまう。安穏。この一文字が頭にこびりついて離れない。安穏な、と自嘲気味に呟いた声が、駐車場の壁に当たって耳に届いた。

約束の時間になってしまったがこれ以上動くことができなかった。リカに電話を入れる。

「もしもし、ごめんな、ちょっと行けそうにない。近くまでは来てるんやけど。悪いけど、カードキーだけでも渡しといてもらえんかな?」

「どこ居ますか? 近いんですよね?今、降りて行くんで待っててください」

「ごめん、駐車場のバイク置いてあるところに居てる」

「わかりました。すぐ行くんで」とバタバタ音とともに電話が切れた。電話の切れた後の音を聞きながら、僕はまったく別のことを考えていた。もう一人のリカに時間とって会いに来たよと笑顔で言われる様子や、やっぱり京都に残ってくれなどと懇願される様子を。全く有り得ないことをぼんやりと考えていた。

「大丈夫ですか?」と走り寄ってきたリカの声で有り得ない夢想の群れから引き離される。ありがたいと思う。

「大丈夫や。ちょっと失敗してしまっただけやから。なんかかっこ悪いとこ見せてしまったな」

「許容出来る範囲ですよ。一緒に居ても恥ずかしくないレベルですから」

「そんなことより、手。手出してください」

言われた通り手を差し出すと、リカがその手をしっかり握ってきた。走ってきたせいか、少し汗ばんでいてあたたかい手だった。ありがとう、と一言だけ言うと、リカは笑いながら黙って頷いた。

「このまま二人で東京まで行っちゃいましょうか」と笑いながらリカが言う。

「駆け落ちは困るんやろ?」

「困りますね。でも、そうだとしても困るってだけです。それに駆け落ちじゃないから大丈夫ですよ。手を繋ぐんですよ、二人で。私もフリーになって一緒に仕事すればいいですし、手を繋いでいれば大抵のことはうまくいきます」

手、手な、と自分に言い聞かせるように呟きながら、リカの入社当時のことを僕は思い出していた。教えたことが出来た時のうれしそうに駆け寄ってくる姿や、デザインに煮詰まって二人で徹夜したときの、投げ出さずに全力で取り組む姿などを。


「ほんなら手、繋いでご飯行くか」と僕が声をかける。一緒にですよね、とはしゃぐリカの声が壁に当たって反響していくなかを、手を繋いで歩きだしていった。

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