いとしのサブリナ - Reason Reach A Way To Understand, Sabrina!

冬の雨。冷たい雨が容赦なく体中の熱を奪う。ぐにゃりと曲がる視界に信号機の赤と青が回る。頭上で拡散する鮮烈な雨音と、差し込むヘッドライトのオレンジの光の中にあって、一通の遺書のことを思う。有島の――真摯な作家の、鮮烈な文面を頭の中に並べ立てている。

激しく打ちつける雨音に思う。あの山荘の夜の、全てを容赦なく打ち付ける激しい雨の一夜の情景をいつも思う。濡れそぼった二人は、この雨のような激しく無慈悲な雨の中に居ただろうかなどと、見ても居ない情景を思う。

やがて、鮮明に見える。

最後の営みを慈しみ戯れる二人、鳴り止まない雨音、山荘の夜。深夜一時過ぎの慟哭、遺書を黙々と記す手、目の前の女を抱きしめたであろう手、白くひらひらと舞う細い手。覚悟しただろうか、傍らの女。まるで蝋のように白い。死骸は腐乱して発見されると、そう遠くない結末を記す手、諦念。目を細めて笑う女と有島。そんなものが自分の記憶よりも鮮明に、かつて愛した景色だったとも言いたげに映り込んでいく。

歪んだ視界に慟哭を浮かべ、深夜三時。誰もいなくなった国道をバイクで走る。目の前の景色と思う景色の境界もわからず、濡れた体がひたすら重い。そうやって上からなのか下からなのか判らない水しぶきの中を、ごうごうと唸りを上げながら走っていく。

 一通の遺書を思う。傍観したようにただ思う。さも見守っていたかのように思う。愛してるなどと誰ともなく呟く。周りの景色は依然として歪んだままで、雨音は一向に静まる気配すらなかった。


若い女のひとと温泉へ出掛けた。ひっそりとした山奥の、曲がりくねった道をバスが走る。窓からの景色は霧のように浮かぶ雨ばかりで、空は圧し掛かってくるように重い。空を切るように眺める女のひとの横顔は、透き通って白く、薄い笑みを浮かべているように見えた。長い座席に並んで座り、ぽつりぽつりと降りていく乗客たちの生活を想像した。曲がった背中にたくさんの買い物袋をぶら下げた老婆は、バス停で待っていた娘であろう女と、小さい子供に支えられて降りていった。若い女のひとはぼんやりとそれを眺めながら、いいよねとだけ言った。俺はそうだねと答えて、支え合い並んで歩く三人を見送った。

宿の一つ手前でバスを降りた。ここでいいの? と運転手に訊かれ、歩いていきたいんで、と努めて軽薄に聞こえるように答えた。もたれ掛かるように二人連なって、ドアをくぐる。


もうさ、心中しちゃおうよ。有り金ぜんぶ持ってさ、温泉とか、まあどこでもいんだけどね、金尽きたらもういいかってさ、二人で死んじゃうの。最後にさ、いい仕事したなって二人とも思えたらいいんじゃないかなって思うんだけど。どうだろ?


そうやって誰にでも言い始めたのは、二年ほど前からだった。友人、店で隣り合わせただけの女の子やガソリンスタンドでカードの勧誘に来ただけの女の子にさえ言い放っていた。俺は死にたいと思っていたわけではなかった。ましてや心中というのはそれに至る数々の思いがあってこそで、道行きの果てにあるのが道理だ。そんなものは心中でもなんでもない。しかし言い続けた。

不思議なものを見るような目で見られるのが常で、意味わかんない! と怒り出した女の子も居た。至極当然な反応だと思う。それでも、うんと答えるような女の子を見て、面白いと思いたかった。それで結末は嘘が望ましい。共に死に逝くのは幸せだなどと思いながら、俺だけが死んでしまうのが一等いい。

面白いもの以外はもうどれひとつとして欲しくない。甘いと思うことが俺にとって面白いもので、それ以外は全くと言っていいほど意味を持たない。甘いものを口の中に放り込んで終わることに、俺の命を引き換えにする価値がある。簡単なものと引き換えられるお粗末な命とは思わない。けれど、飴玉ひとつ。それだけが俺にとって意味がある。

そんな馬鹿げた俺の提案を、それ面白いね、と若い女のひとはいつものように笑った。


温泉宿へ向かう道の傍に川が流れているのは、場所を決めた際に知った。こじんまりとした小さな流れの川で、夕まずめともなればもしかすると、何人かの釣り人は現れるのかもしれなかったが、雨の降るまっ昼間では誰ひとりそんなひとも居ない。小さな川だった。川を見るのが好きだ。何処へ行ったって必ず川へと足を運ぶ。それで彼女の了解の下に、川を眺めながら歩いて宿へ行くことになっていた。

小雨の中、並んで歩いた。ずっと弱く降り続けていたのだろうか、水は想像していたよりもずっと澄んでいたように見えた。川向こうには山々が連なり、山傘を被っているのが見える。空気はずしりと重く、たっぷりと水気を含んでいた。昼間というのにぼんやりと薄暗く、まだ肌寒かった。

「けっこう綺麗だね」

「うん、こっちもかなり降ってると思ってたからさ、間違いなく濁流だと思ってたんだけどね、よかった」

2

「てっちゃん、うれしそう」

「ああ、うん。こういうとこね、歩くのは好きだから」

示し合わせたわけではなかったが、現在おかれている状況だとか、これからどうなるかだとか、深刻な話は全くしないまま歩いた。心中という言葉を使ったのは、バスを降りての一言めだけだった。だって心中するんでしょ? その台詞だけを横滑りしているみたいに浮かべて歩いた。

道は温泉へ向かうバスの路線上にあって、何回か温泉街と駅を行き戻るバスとすれ違った。運転手やバスの乗客たちも二人の生活を想像するだろう。夫婦だろうか、恋人同士だろうか、もしかすると不倫の末の道行きなのかもしれない。そうやって思われるのが面白いと思い、そうして二人で笑った。笑いながら、努めて明るく振舞っているようにも見えないこともないなとも思った。

宿へ続く道は川を逸れて大きく右へと曲がっていたので、道を逸れて川原に下りた。さらさらと音が近い。辺りは鬱蒼と茂っていて、ほの暗く、川の流れもさらに小さいものになっていた。やっぱり釣り人は誰もいなかったが、並んで川を眺め、渓流釣りの話をした。フライフィッシング。虫のような針を使って、水面を打ちつけながら釣る。イワナやニジマスなんかが釣れる。

「前から思ってたんだけど、釣りって、釣ってどうするの?」

「釣ったものをリリースするっていう釣りもあるんだろうけど、イワナとかニジマスはきっと、釣ったら食べるんだと思う」

「そだよね。実際に見たことないから、どうなんだろうって」

「ああ、俺も猪なんかは本当に獲ったものを食べてるのかって思ったりする。スポーツで獲る用と食べる用に育ててるのと別にあるんじゃないかって。もう釣りもしなくなって随分経つからね、そういう風になってたら怖いな思うけど」


最後に釣りをしたのはもう二十年も昔のことだ。母親の彼氏に連れて行ってもらったことを憶えている。なんとかのおじさん、とか言っていたと思うが、肝心な名前と顔は全く思い出せない。

「随分昔のことだけどね、焼きあがった魚のことはね、しっかりと憶えてる。釣った魚をさ、枝に刺してね、並べて焼くんだけど、全身が綺麗な飴色に焼けてね、すごくおいしそうに見えた。うん、まあ、いろいろ楽しかったからね、そんなんでうまいと思ったのかもしれないとかさ、思ったりもするけど、綺麗だなと思ったのは確か」

「いいね、それ。なんか、生きてるって感じするね。飴色に焼けた魚ってのがすごく魅力的に聞こえる」

「うん、すごく楽しかったし、やけに綺麗だった。ね? 時間もきっと有り余るほどあるだろうから、宿のひとに聞いてみてさ、近くで釣れるとこ行こう?」

「だね。おもしろそう。楽しみ」

そうやってぼんやりと眺めたり歩いたりして、夕方には宿に着いた。俺は傘をささなかったのでずぶ濡れて重く、見るからにみすぼらしかった。宿のひとたちには奇異に映ったのかもしれなかったが、嫌な顔ひとつせず出迎えてくれた。

予約していた都築ですけど。どうしたの、随分濡れて。え? 歩いてきたの? あそこから? あらあら。奥さんの傘に入ったらよかったのに。ねえ? あはは。このひと傘嫌いなんで。ね? うん、申し訳ないです。あ、なんか拭くもの頂けたら思うんですけど。

バスタオルを出してもらい、それに包まりながら部屋へと案内された。宿の予約は適当に考えた苗字で取った。宿の人たちに妙な観念を植え付けてしまってもそれに対応しきれないと思い、同じ苗字にしておいた。きっと詮索はされないだろうと思っていても、果てに心中すると思っていることが後ろめたく、関係を偽った。前途ある若い夫婦。甘い生活を送っているであろう若い夫婦にきっと見えていたと思う。詮索はされなかったが、かなり話し込まれることになった。特に用意はなかったが、適当に言葉を合わせた。

「いいひとだったね」

「うん? ああ、うん。こーんな濡れネズミでもさ、きちんと相手してくれるもの。やっぱり商売だね。適度に距離とってくれる」

「構われたくないけどね、構われないのはなんか嫌だもんね。次のとこもこうだといいんだけど」

「うん。まあ、きっとこんな感じで大丈夫だと思う。あ、そういえば夫婦にしてしまっててさ、なんつうか、ごめん」

「や、いいよいいよ。別に謝ることでもないし、あたしこそこんなんと夫婦でごめんて思うけど」

「さんざん口説いてたわけだからさ、俺は別に願ったり叶ったりでね、むしろうれしいけど」

「いっつも本当か嘘かさっぱりわかんないよね。でも、うん、ありがとね」

宿の食事は川魚を焼いたものが出てきた。かなりうまいものだったが、見た目は至って普通で、いい色に焼けてはいたが飴色のそれではなかった。追加で何匹か焼いてもらい、お銚子もつけてもらって、ぐずぐずと呑んだくれた。いつもの呑んだり話したりする時と全く変わりはなかったが、夫婦だとしっかりと書き残しただけあって、うす甘いような時間を過ごせたようだった。やっぱり俺は甘いものだけが好きで、それ以外を口にするぐらいなら飢えて死んでしまいたいと思った。

3

粗方片付いた頃には夜半過ぎになっていた。雨は勢いを増すことなく、ぼんやりと弱いまま降り続けている。布団を敷かれたものの、なかなか寝付けなかったので窓近くの椅子に腰掛け、時間を潰した。音を立てないように窓を開ける。外は暗く寒く、雨と、微かではあるが冬の匂いがする。俺は死ぬつもりでここに来たんだろうかとぼんやりと思う。金はあるだけ持ってきた。二、三日後という話ではないかもしれないが、近いうちに死んでしまうよりは他に無くなるだろう。そこで眠っている若い、綺麗な女のひとはどうするのだろう。多分、俺が死ぬまではこの遊びに付き合ってくれるのではないかと思った。死んで欲しくないと思ったが、彼女のいうように全てが手詰まりで、なにもかもがどうしようもなく、くだらない遊びに引っ張られて死んでしまうのかもしれないという気もした。

もう動きようがないと電話があったのは先の夜中のことで、そうして彼女を家に連れて帰り、八方ふさがりと思うに至ったという話を聞いた。

彼女のそれまではあまり幸せとは言えないようなもので、これまで何度も俺の家に連れて帰ったりしていた。追い出された、殴られた、帰ってこない、他に女がいる。そのどれもがいいものとは思えなかったが、いずれの場合も彼女は次の朝には男の家へと帰っていった。別れなさい、などと言わないのは俺のような人間ぐらいで、彼女の世界はそのまま収縮してしまった。全く彼女の役には立ってなかったが、笑わせることぐらいは出来たと思っている。だが、別れた方がいいと言わない一点に於いてでしか、彼女の人生にとってなんの意味もない存在でしかなかった。

打つ手が無いと思い込んでしまうのは、蜘蛛の巣に囚われるのに似ている。行くのも戻るのも地獄としか思えなくて、途端に思考が停止してしまい、固まったまま一歩も動けなくなってしまう。例え明確に蜘蛛の巣から逃げ出す方法を示されたとしても、搦め捕られたまま動けない。諦念して死を待つか、なにかの拍子で巣から逃れられる奇跡を願うがどちらかしかないように思う。

――そう思うのは病気だからだよ。治療に専念するように言われたこともあったが、未だに俺はそう思うことができないままでいる。

だったら、それなら、そんな男からは逃げたらいいと言い放つのはきっと正論で、至極まっとうじゃないかと思う。それでも彼女の、件の男から逃れたくないと願っているのは明白で、それひとつ故に一歩も動けないのは俺にとって正しく思える。一歩も動けないのではなく、一歩も動かない。喰われて消えるか、奇跡が起きて蜘蛛の巣から剥がれ落ちるか、あるいは贖えない力によって全てが流れて無になってしまうまで、なにひとつ変わりはしない。全く手詰まりとしか考えられない。

俺は行くことも戻ることもできなくて、きっとこんなことをしている。俺に見渡せる限り、甘いものを食べ続けられるなんてことはもう無いように思う。甘くない時間があって然りだが、そんな時間があるぐらいならば、続ける意味は全くないと思っている。見渡しが甘かったとしても、俺にとっては正しい。彼女にとっても正しいことであったとしたら、あるいは。

この生活が続いていくのだったら、ずいぶんと楽しく暮らせるだろうとも考えた。けれど、この薄ぼんやりとした甘さは間違いなく人工のもので、一時凌ぎに過ぎない。人工の甘さならばきっと、ケレン味やエグ味が鼻についてしまう日も来る。そもそも、この生活は破綻するようにできている。破綻する前提での甘さであり、生活でしかない。

なによりも彼女にとっては、なんの意味もない代物だ。こんなものに意味が見出せるぐらいならば、最初から手詰まりなどにはなりはしない。なにも食べられないで死を待つ傍らに、見た目ばかりのサンプル食品が置いてあるようなものでしかない。まやかしで、まるで中身もなく、全く役に立たない。

「寝れなかった?」と彼女の声がする。「うん、いつもこの時間が一番起きてる時間だしね、ぼんやりしてた」

「そっか。別に予定あるわけでもないしね、無理に寝なくてもいっか。あたしも起きてよう」

行灯のような照明を付け、彼女は俺の目の前に座った。色の白いせいもあって、消え入りそうなぐらい薄く見える。なにもしなくても死んでしまうように思った。幸せであるために蜘蛛の巣に搦め捕られたままのウスバカゲロウ、そんな風に思った。

「ね? こんなこと言うのもあれだけどさ、冗談でいったわけでもやってるわけでもないけど、どうだろ? カナちゃんにとって意味ないんじゃないかなって、思う」

「心中しようよってのに、うんって言ったこと?」

「いや、正確には心中じゃないから別にカナちゃんまで死ぬ必要はないし、それに返事をする必要はないんだけども、死ななかったとしてもさ、意味はないどころかマイナスになるんじゃないかって」

「意味はないんだろうね、なんの解決もしないもの。けど、あたしはてっちゃん死なないだろうなって思ってる。だから飽きるまでそれに付き合ってもいいかなって思った」

「まあね、死のうなんていっつも思ってる割にはずっと死なないし、今回もどっかで折り合いつけると思う。でも、どだろうね。正直ね、今ちょっと面白いって思ってる。これが尽きたらやっぱりさ、もう面白いことはないんじゃないかなって思ってる」

「つまんないのが来たら、かなしい?」

4

「だね。もうそんなんで疲弊したくないし、それ逃したばっかりにさ、最後の瞬間にケチつくんだったら目も当てらんない」

「それはさ、このままこうやって過ごすのが続いて、そのまま死んだ時にね、てっちゃんはよかったって思えるんだって受け取っていいんかな?」

「うん、そう思ってくれるとありがたいけど」

「そ。それならよかった。だったらね、飽きるまで喜んで付き合うよ。全然マイナスじゃない」


「うん、ありがとね。」顔を上げると、綺麗な女の子は薄く笑っていた。

「あのさ、ちょっと鬱陶しいかもしんないけど、ちょっとめんどくさい話してもいいかな?」

「うん」

「昔にね、温泉に行ったんだよね。当時好きだったひとと、俺の誕生日にね、二人で温泉に泊まった。俺ね、それまで温泉に泊まったことなくってさ。でね、誕生日とかその前後なんて大概悲しいことばっかりでさ、うん、小学校のときにね、すげえ数の友達が家に来てさ、祝ってくれたことがあったんだけど、もうそれ以来じゃないかってね、うれしく思った。すっごく甘くてね、それはずっと俺の欲しかったもので、でもきっと終わるだろうから、や、それは次の日には帰らなくてはいけないってことだったんだけども。まあ、その半年先にすべてが終わってしまったんだけどね。でね、その日がさ、最高潮で、あとはまあ下るかしかないからさ、ここで死んでくれたらなって強く思った。結果的にそれ以上のことはなかったわけで、本当にね、朝が来たら死んでたらよかったなって、今でも思う」

「そのときにさ、そういう暮らしが続いていくことの幸せっていうのかな? 考えられなかった?」

「うん、ぼんやりとは考えていたはずなんだけど。ほら、一緒に家とか見に行ったりさ、ままごとみたいに二人で暮らしたりさ、そういうの、もちろん楽しかったから。でも、あのとき死にたかったと思いながら暮らしてた」

「いいこととは思えないし、同意はできないけど、うん、大丈夫。言ってること、わかるよ」

「別にね、オチがあったり、いい話だったりではないんだけどね。うん、今日がね、その日みたいでさ、面白くてうれしかったなて話ってだけで」

「もうないってことはさ、面白いと思える日はこないし、続いていく幸せってのを感じる日もないって、やっぱり思う?」

「だね。先がわかるわけじゃないし、ないとは言い切れないだろうけど、多分、俺の体力の問題なんだと思ってる」

「そっか。そうすると、あたしはまだ体力あるんかな。なんでこんなになってしまうまで続けて来たかって、あのひとが誰よりも優しかった時を知ってて、きっと戻る日がくるって待ってたからだし。諦めるか、体力が尽きて死んでしまうしかないんかもね」

「諦める?」

「それは出来ないと思う。あのひとがあたしを売るような真似をしたのは、あのひともなにかを待ってるからかもしれなくて、それは続けていくためかもしれなくって、そうするとあたしもまた待つべきなんじゃないかなって。でも、今はちょっと、わかんない」

「うん、わからないならわかるまでぼんやりしてたらいいし、わかったら動けばいいと思う。なにしろ金が尽きるまではまだ時間もあるし、俺もこの調子ならきっと飽きないだろうから」

「うん。あたしもこれ楽しいと思ってる。もしかしたら一緒に心中してしまうこともあるかもしれない。そうなったらダメかな?」

「や、なにを結果に置いたとしても、例え間違っててもね、どれだけひどくてもね、正気の沙汰と思えなかったとしてもね、なんだっていいさ。責任は感じるけど、したいことなら止めるわけない。それはずっと言ってきたことだから、いまさらいうことではないけど」

「わかった。いつもありがとね。ね? 雨あがったら釣りいこうね。魚焼いて食べよ? 飴色のやつ」


次の日は泥のように過ごした。彼女は外を散歩したり、風呂に何度も行き来したりしていたようだった。宿の話好きなひとと、嘘の話をたくさんした。

結婚して三年ですね。二人でやっと同じ時期に有給が取れたんで、ゆっくりとしようと思って。ね? うん、ひさしぶりのことなんで嬉しいですよ。あさってからまた二人とも仕事ですけど、また来ます。いつになるかわかんないですけど、この子とはずっと一緒にいると思うんで、必ず。

おいしい料理を食べ、酒を呑んで、早めに寝た。明日には雨が上がると宿のひとに聞いた。明日は朝が早い。魚を釣りに行く。フライフィッシング。ひゅんひゅんと竿をしならせて、虫に似た針を操って魚を釣る。虫に喰らいついた魚を釣って、焼き、飴色したそれを何匹も並べて、綺麗だねって言いながら二人で食べる。そうして宿に帰り、次の日には他の宿へ向かう計画を立てる。あと一週間は金が続く計算だ。飽きてしまう様子は、まだ尻尾すら見せなかった。

寝る前に頭を撫でてくれと言われたので、彼女が寝てしまうまで撫で続けた。ずいぶんといい日だった。起きることなく死んでいたいと強く思いながらまどろんだ。何時ごろのことだったか定かではなかったが、彼女の白い手が俺の頭を撫でてくれた。気が遠くなるほど久し振りのことで、どうしようもなくうれしく思いながら、また眠りに戻った。

5

甘い生活。甘い生活。人工甘味料でもちゃんと甘い飴玉で、口の中は甘く満たされている。それこそが、それだけが俺の命と引き換えになるのだと思った。


屋根を打ちつける雨の音で目が醒めた。外はどんよりと暗く、今が何時かもさっぱりわからなかった。横を見ると彼女の姿はなく、また風呂にでも入っているのだろうと思った。時間を見るために携帯電話の電源を入れる。九時半。今はこれだけ降っていても、夕まずめには雨も上がるかも知れない。そうしたら釣りにいこう。叶わなくてもまだチャンスはある。次の宿はもっと川の近くに取ろう。他にもこういった場所はあって、遠出したって構わない。また二人で決めたらいい。

携帯の電源を落とそうとすると、メールが届いた。朝七時に届いたものだった。帰るね。釣り行けなくってごめん。でも今動かないとダメだから。楽しかった。また連絡します。死なないでって言わないけど、また遊んで。

戻ってしまったという事実よりも、目が醒めてしまったこと、またタイミングを逃してしまったことを悲しく思った。けれど、うれしくも思う。どれだけひどくても、体力が尽きても、待つと宣言するひとは存在していることをうれしいと思った。待てるだけ待ったらいいと思った。そうして、彼女とあのひとのタイミングってやつが合ったなら、もしかしたら俺の思うタイミングも合う日の来ることも、あるかもしれないとも思った。

待ってますね、と送り出されて宿を出る。雨は依然として止まないまま強く地面を打ちつけていたが、傘もささずに次のバス停まで歩いた。

左へ曲がるゆるいカーブを抜けると、行きしなに立ち寄った川原の前に出る。やはりふらふらと降りて、ぼんやりと流れる川を眺めた。強い雨のせいで流れが速く、大きくなっていて、水は茶色く濁ってしまっていた。鬱蒼と茂っていたはずの木々がやけに光って見える。派手に音を立てる川を見て、やはりここでは釣りなどしようがないなと思った。

岸に魚が一匹打ち上がっているのが見えた。目は白濁し、膨れ上がった体はところどころ破損している。もはや流線型とは言い難いいびつなものだった。目を凝らすと無数の虫がもぞもぞと蠢いているのが見える。両手で抱えると存外に軽かった。崩れないように持ち上げ、いつか見たキャッチアンドリリースの映像を思い出しながら川の中に沈めた。ぼやあとした白い体を覆い尽くして、川の流れは魚を泳がせていく。逃げるように去る魚をぼんやりと見送った。雨は一向に弱まる気配さえ見せない。そうして書けなかった一通の遺書を思い、見ることのない慟哭を思う。

その雨は余りにもふしだらで残酷だった。軒下に拡がった蜘蛛の巣を、動くことのできない獲物ごと流してしまう。主である蜘蛛でさえも覆い尽くして。俺には見送ることしか出来ないのに、跡形もなく消えていく。雨が降り続いて、みんな溢れて流れ出してしまう。みんなきっと、そうして消えていく。

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