迎蝶、人喰い

 つい最近、この世には、俺が思うほど散漫な嘘も、吐き気がするような誇張もないような気がしてきた。すべてがありのままにあり、そのことについていちいち理由があるんじゃないかと思い始めている。すなわち、愚かな俺みたいな男でも、立って仰ぎ見ることさえできれば、全てを知ることが出来るんじゃないかと思えるようになってきていた。

 とはいえ、知って得するようなことは何一つなく、ここにあるのは僅かばかりの狂気と退屈なだけの視界ばかりで、なんのドラマもない。だから俺は立とうともせずに、目は伏せたまま、ロマンティックな回想を試みたり、物語の効力についてなんかを延々と考えたりしている。

世界が真実に基づいて構築されていようと、欺瞞に満ち溢れていようと、俺の妄想の産物であろうと、何ひとつも変わりはしない。ただ目を瞑り、ありもしないようなロマンスを想像し、ただふらふらとほっつき歩くのみだ。俺に出来ることはそんなことぐらいしかなく、人生というものが「何かを残さざるを得ないもの」と定められていたとしても(実際にそうなのかどうかは何の関係もない。大事なのは俺がそう思っているかどうかだけだ)、俺はなにひとつ生産をしない。したくない、ではなく、できはしない。ひたすらに閉じて、箱庭の中を眺めて暮らていくだけの毎日を、ただ無為に、無意味に過ごしていく。


 そんな俺にもかつて、輝かしい時代があった。無敵感。歩いているだけで、ただそこに立ち尽くしているだけでも無限の可能性を感じた。自力、他力、森羅万象に至るまで、何事も容易に操作できるような感覚が確かに俺の中、しっかとあった。博打打ちがくだを巻くような根拠のない熱い自信などではない。緻密に計算された上に立つ100という数字。単純な確率の問題だ。結果が俺の目の前にきちんとあって、俺はそこに辿り着くまでの過程を楽しむだけでよかった。どのような方法を取ったとしても結果は同じような気さえしていたぐらいだ。そんな時代が確かに俺にもあった。

 多くを望まなければ幸せに、というのは弱者の遠吠えに過ぎない。とはいえ、過剰に欲しがったりはしなかった。俺はいつも同じものを、同じように、そして貪欲に欲しがった。だからこそ確実に手に入れられただけだろう。それでも俺はそのひとつのものさえあれば、他に何も必要がなかった。それさえあれば何だって出来るからだ。逆にそれがないと俺は何一つ満足に出来る気がしなかった。酸素を欲するのと同じようにそれを欲しがった。 

 ただ愛情だけをひたすらに欲した。関心と置き換えられるぐらいの、味も深みもない愛情。大きな、深い愛情を欲しがりはしなかったのは、そんな愛情があるということすら知りはしなかったし、万物すべて等価であるはずだと考えていた俺には、大きな愛情に見合うだけの行為や結果を提供できる気力がなかったからだ。簡単に手に入る愛情だけを手に入れ続けて、いやそれは正しくない。俺に出来ることだけをして、それに釣り合うだけの愛情を手に入れていただけに過ぎない。だからこそ、確実に手に入れ続けられたのだろう。他の事やものなどは、誰もが同じような力加減で、同じような気力を費やせば確実に手に入る。すなわち、欲して動きさえすればいくらでも抱え込むことは出来るわけだから、必要になった時にでも動いて手に入れればいい。

 同じような愛情だけをひとつだけ。等価のバランスが崩れてきたら、愛情の供給者がそれ以上の要求をしてくる様になったら別の人へ。俺は沈む船からまた新しい船へと飛び移るだけでよかった。人の数だけ愛情の供給源があり、尽きるまで貰い続けるだけでよかった。


 大きな愛情を欲するようになったことで全ての風景は一変した。いつのまにか。誰もが海の底に沈んだように見えなくなってしまっていた。燃費の悪い俺はすぐガス欠を起こし、すべての資源を食い潰してもなお飽くことなく欲した。新しい土地へと漕ぎ出しても、過剰に愛情を注いで息切れしたあげく逃げ、愛情を育てようとすらしなかった。どれひとつも満足の行く量にまで積み上げることができなかった。

 誰も彼も聖人にはなれはしない。必ず、身分不相応の欲望に身を焦がす。自分の人生に、過ぎる日常に、その一瞬に。金と生活。肉と快楽。人心と栄光。それを恐れてはならない。多くを望むからこそ、醜い。なるべく抑えて、たった一つ、望めばいい。それだけで生きていける。たった一つ、何よりも強く望み、それを食らって、生きていくべきだ。多くを望むから醜いのだ。たった一つだけでいい。

俺は何も変わってはいなかった。もちろん、望むような大きさのものは得られず、満ち溢れていた無敵感すら微塵も残っておらず、今に至る。俺はそんな時代すらもふらふらとほっつき歩いているのみであった。

 かつての俺はすべてを手に入れる事ができた。そして、何一つ残すことが出来なかった。たったそれだけのことだ。


 そんな男を、御身を削って養う女がいた。2時間以上も手を洗い続け、まるで出て来はしなかった。


 世の中には人間関係と一切縁のない人間がごまんといる。彼ら、彼女らは人と人との関わり合いに於いて発生するいかなる感情も、そしてその行為も、知識としては理解しているが、自らがそれを体験し、実感することはない。大抵なにかしらの理想や幻想に絡めとられていて、宣伝は上手であるが、演出が過剰で本質的には常に演じる立場にある。ひたすらに自己顕示欲が旺盛で、極度に自意識過剰なこれらの人々は、極度の嫌悪のほか、自分以外の人間になんの感情も抱くことがない。自らは常に理想的人物として振る舞い、相手にはその演出された自己を、より正確に解釈することのみを求める。

 大概の友情は本物である。誰もが経験する恋愛の感動も苦悩も怒りも、すべてが生々しい現実だ。彼ら、彼女らはその言葉を理解し、真似などをしてみるが、その実、なにも実感はできない。他人は常に支配し、操作するものであると体に染みついている。これは強者弱者という話ではなく、精神の病だ。この世には自分ひとりしか存在せず、あとの人間はすべて観衆か何かだと思っている。すなわち、役者である。

 そして、どれほど素敵な人格にも恋することがなく、勇敢を持つものを友とすることもない。ただ冗長な誘導尋問を延々と続けるだけだ。もっとも空しく、もっともつまらない事は、これほどまでに重大な欠陥を持つにも関わらず、この者たちが社会を生きるのに何の不便もないということだ。


 俺も女もそういった人間だった。


 俺たちには自分たちのことがよく判っていた筈だ。自分がどう振舞えば人に好かれるのか、どう動けば懇願さえ得られるかさえも全て知っていた。行動倫理は経験と知識。誇ることもせず、悪びれもせず、ただ淡々とこなし日々を繋いでいく。何の問題も無かったし、なんの不安もなかった。元より他人など観客に過ぎず、物語という軸の中にいる。そうやって生きていくことしか知りはしなかったし、それが当然の権利とさえ思っていた。諦念も妥協も出来たから、俺たちはずいぶんとうまく生きていたのだろう。世界を全て知っていた。その手に掴んでいた。

 だが、信頼する友との出会い、別れ、そこに至る課程、それらに付随する感動や安心や喜びや失望、そういったすべてのことは、未体験のものであり、今後も体験する予定は絶望的なまでにない。互いを許し合い、なぜだか一緒にいるだけで心休まる愛しいあの人との別れ。幸福など微塵もないのに、なぜか惹かれ合い、互いに痛みを共有しながら悲劇へと突入していくふたり。胸を引き裂く言葉にならない怒りや哀しみ。嗚咽。一時だけの理解者。寄り道。なにもかも未体験のものであり、今後も体験する予定は一切ない。ただ、熱く語られた夢のような話を、妄想の中で自分に置き換えて遊ぶことしかできず、その感動を真に得ることはない。情報を、人そのものを飲み込むことでしか、そこまでしても俺たちは、それらを知識としか得ることしかできない。

 文字通り人を食って生きてきた。感情、愛情、愛憎、友情、全部食らい尽くし、屍になったかつての相棒を踏みしめて、俺はのうのうと歩いて生きてきた。そう、弱者強者の話ではない。何度も言うように精神の病であり、明らかな欠損だ。取り込まないとこちらが生きてはいけない。こんなものでも、こんなものだからこそ生への執着心は人一倍強く、いかにも儚げな振りをしてみては、平気な顔で人を喰らい潰して、そこらに打ち捨てては生きていくのだ。


 俺も女もそういった人間だったから、出会ってからの数年間の間に、何度も別れと出会いを繰り返した。どちらかが立ち振る舞いに疲れ、息が詰まったら終わる。人食いを何度か繰り返して、その屍の上を踏み潰して戻ってくる。そんなことを何度も何度も繰り返した。

 

 ある時に女が家庭を作ってみようと言い出した。女も俺も随分な歳になっていて、疲れ切っていたのかもしれない。俺も女も積み上げることを知らなかったから、もちろん何一つ持ってはいなかった。だからそこにあるものを掻き集めて、家庭のようなものを作った。見た目だけが豪華な張りぼての家だったが、観客からはとてもすばらしい家に見えた筈だ。

 一匹の猫を飼い、出来る限りの愛情を持って愛でて育てること、玄関にはその季節に綺麗に咲く花を絶やさぬこと、この二つの約束事を作った。俺たちには厳格なルールが必要であったし、理想的に振舞うことは俺たちの生活にとってとても重要であったからだ。俺たちが知っている理想の家庭なんてものは、所詮、絵空事に過ぎず、経験もなく実感もない。それでも、この絵に描いたような偽善は思いのほか心地よく、俺たちは大変に喜ぶことができた。

 猫は俺たちにとって初めて共通の家族と言えたし、息子であり、兄であり、共通の父であった。俺たちは全くの他人同士だったが、この猫だけは本当に俺たちの家族であったと思う。猫がここにいることで、俺たちには帰る場所が出来た。それだけで充分であった。花があって、猫がいる。他のどの場所とも違い、そこだけは俺たちをいつでも迎える準備が整っていた。花も猫も、無償で、俺たちが何一つ振舞えなくともそこに存在していた。


 この生活は今までのどの営みよりもうまくいった。この数年がどんな生活よりも遥かにマシだった。女が手を洗い続け、言葉をほとんど交わさなくなった頃でも、俺たちの場所はそこにあったと思う。何も積み上げようとせず、何一つ生産することがなくても、猫はそこに居たし、花は絶えずその満面の笑みを湛えていた。女が猫を連れてここを出て行くその時まで、この物語は続いていたはずだ。一点の曇りもなく、正確に日々続いていた。少なくとも、観客たちの前だけでは。


 

 俺は相変わらず何かを演じずには居られない。嘘っぱちなのは世界ではなく、俺のほうだ。この世には散漫な嘘も、吐き気がするような誇張もない。俺はもう人を食うことすらも出来ず、得た知識の中だけでこうやって物語を綴っている。それでも演じ続けているに過ぎないのだ。なにひとつ俺には、本当のことなどないのだから。

 よって、静かに閉じ、目を伏せて生きていく。物語の中に埋もれて、迎える蝶を待つことすらも出来ずにふらふらと歩いて生きていく。

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