ロジックライト・スーサイドロマンスカー

安達テツヤ

踵、鳴らして

 なぜだかわからないが、仕事の帰り、電車の中で突然、ずいぶん長い間忘れていた昔のやり方を思い出した。数年前まで寸分の狂いも無く出来てたあのやり方を。

 こんな俺にも、誰よりも独善的で、輝かしい時代があった。何よりもタフで、何者をも必要としないそんな時代が確かにあった。俺の命は一日一回転で、朝が来た時には何も残ってはいない。けれど、強靭でタフだ。シンプルな精神と、吐き出しても尽きることのない言葉があった。あのときの俺は果たしてどう見えた? あなたたちの前では正しい形の狂人として映っていただろうか? 薄ら寒いセンチメンタリズムも、感性も、そんな世界は叩き潰してしまえ。完璧に思い出せ。俺にあるのは生きることと、書くこと。才能、才覚の類ではなく、本能としてそこにあるべきだ。

 生活が壊れる事に対してなんの躊躇いもないが、切り替えのまずさを人に見られるのはごめんだ。まだ俺は世界の中に存在していたい。あわよくば、全てを賭して俺を守ってくれる人が欲しい。血走った目は全てを拒絶するし、狂人になど耳を貸すものなど居はしないのだから、その姿は誰にも見せちゃあいけない。のたうちまわるのは一人の時だけでいいし、その独善を見やるのは俺だけの仕事だ。設計図通りに作った関係性の内であったとしても、俺にとっては大事な世界だ。飽和し、崩壊するのだけは避けなければならない。次こそはちゃあんとやる。


 ごとごとと電車の中。数十分の覚醒。ずいぶんと気分がよかった。

 今日は、いい酒を飲もう。猫と、帰れないガキどもがいるあの公園で、鼻歌を歌って、おかしなステップを踏んで、踊ろう。地下を抜けて階段を上がれば月だって見える。手元に大量にある白い薬だって必要ない! 酒でも飲みながら朝まで踊ろう。あと、あの子。あの子に電話でもして、俺は書くぜ、と言い放って、バカだねなんて言われて笑って、しよう。こんなにいい気分は久しぶりだ。は、俺だってこうやって飛べるんだぜ!

思考が滑らかになれば成るほど、機嫌が良くなる。スキップ! 両手を高く掲げて、叫びだしたりしながら、狂人の真似事をして、俺は踊る。なにひとつ俺は間違ってなんかいない。だからこそあの子に会おう。なんか、この誇らしげで滑稽な顔、見せてやりたい、なんて思ってひとつ先の町まで行くことにした。あそこには川がある。あと適度に緑。街灯と橋。あの子。なんていい景色なんだろうって、俺は言うのかもしれない。それを見せるべきだと思った。

 家に帰ってすぐ、アパートの隅に置きっぱなしになっている単車に乗った。

 医者に単車に乗ることを止められていて、乗るのもずいぶん久しぶりのことだった。どうやら咄嗟の判断力? なんかそういうものが足りないって言われた。あの子は、あんな危険な乗り物やめてよね、って笑う子だったな。だからね、俺はそんな危険な乗り物で行くべきなんだろうって、そう思って、乗ったら見事にすっ転んだ。危険な乗り物、ね。面白い。

 幸い大した怪我もなく、単車の方も、これ動くのか? ああ、別にどうでもいいか。俺は動ける。それだけでなんとかなる。

 俺からずいぶん離れて、からからと音を立てている単車を横目に、そのままうつ伏せて聞き耳を立てた。地面が冷たい。あの光ってるのなんだ? ウインカーか。ちょうど街灯に照らされてとても綺麗だ。うっとりとする。音がする。耳鳴りじゃない、でもそれに近い周波数で低く唸るような音。そうだ。夜の音だ。違う。俺はそれをはっきりと「夜の音」と思ったのだけど、その名前を与えてくれたのはあの子、今から俺が会いにいくはずだったあの子だった。はっきりと、確実に夜の音がする。しばらく聴こえることのなかった、あの輝かしい時代には聴くことのできた夜の音だ。ずいぶんと懐かしい。


 ひたすらに風の強い、五月蝿いだけの夜だった。自転車に跨って俺を見下ろしていたっけ、あの子。コンビニの角でぶっ倒れてた俺を見てた。焦点の定まらない目を覗き込んで、不思議そうな顔をしていた。

 開口一番、なにしてんの? だとよ! 全く、気がどうかしてんだと思った。その時の俺といったらまるで浮浪者のようだった。その日も、帰る場所もなく、所在なく、量が多いだけの酒を買ってぶらぶらしてた。なんの見るところもないつまらない男。なにしてんの、だって、俺には行くところもやることもない。消費することで日々を消化してただけだ。なにひとつしてはいなかった。

 あの子、こんな街で暮らしをしているわりには、真面目そうで、清潔な感じのする女だった。実際、彼女は風俗嬢でもなければホステスでもなく、ただのウェイトレスだった。特別美人でもないが、落ち着いた話し方と、優しい雰囲気が、俺はなんとなく気に入った。年は俺よりも五つか六つ上だった。

「買い物、してるの?」

 ふざけたような明るい言い方だった。「いや」とだけ言い、ポケットの煙草を探した。

「お腹空いてるんだったら、なんか食べいこうよ。まだやってるとこもあるでしょ?」

「うん」

 俺はライターの火を両手で覆い、首を傾けたまま上目遣いで答えた。


 俺はべつに、話したいことなどなかった。ただ女のなめらかに話す様子や、自然で愛らしい仕草を眺めているのは楽しかった。カウンターの中から、無愛想な中国人がビールを運んできた。女は焼き魚の定食を頼み、俺は酒を飲むとほとんど食事を口にしないので、刺身の盛り合わせを一皿だけ頼んだ。

「あんまり食べないんだ?」

「貧乏、だからね」

「だからって言って、外で寝るほど貧乏でもないはずでしょ? こんな風の強い日にまで外に出なくたって」

「俺に金がうなるほどあったとしても、雨が降っていたとしても同じように寝てたよ。持っている酒が少しばかり高級なものになってるだけじゃねえのかな」

 女は足下に置いた小さな鞄をいじりながら、くすくすと笑った。そうした彼女の小さな仕草が、俺の目にはやけに自然で垢抜けたもののように映り、表情こそ変えなかったが、彼女の一挙一動に目を奪われていた。

「まあここに住んでる人たちなんて、ね、まっとうな道歩いてる訳じゃないしね。行くところなくてここに集まってくるんだから」

「うん、まあ。でもあのへんで一番ダメなのは俺だと思う。今日だって借金しに知り合い、回ってきただけだった」

「そうなの? よくないなあ。じゃ、いいこと教えてあげる」

 女が俺の目を覗き込む。一瞬だけ、ある種の輝きを持って、光ったように見えた。錯覚かもしれやしなかったが。

「いいことって、なに? もう何も残ってないし、何も作らないよ俺は。もう、枯れた。だからここへやって来たんだろ?」

「いや違うの。私だって何も作らないし、持ってない。全部、捨ててきちゃった。でもさ、こんなところでも、どこだって出来ることはあるんだよ? 音、聞くの。何をしていなくても鳴っている音を」

「ここに居て聞こえる音なんて大したことないだろ。誰かが喧嘩なんかしてる声とか、ろくでもない相談事とか、ガキどもが騒ぐ声しか聞こえない」

「あのね、私、雪のすごい降る町に住んでて、うん、ここに出てくるまでずっとそこにいたんだけど、ね、やっぱりそこに居たくなくてこの街へ出てきて。なんにもないところだったからね。冬なんかね、全部が雪で埋まっちゃって。どこへも出ていけなくて。ね、鬱屈とするでしょう? でもね、すごい雪が降る夜は音がするの。言葉で言えないような音だけど。私、それを聞いているのが好きで、窓を開けて聞いていたりして、そんな音」


「うん。ここには雪は降らないし積もらないんだけどね。ちょっと静かなところに行くじゃない?夜中、ほら、あの運河のらへん。立ち止まると音がするなって思って。なんか同じような音がして。夜の音、っていうのかな? お昼とかは聞こえないの。聞くとすごい安心する。あそこに帰りたいかって聞かれたら首を振るだろうけど、なんだろね? 懐かしいのかな、たぶん」

 そこまで言い終えた彼女の顔をぼんやりと見ながら、夜の音といわれた音のことを考えていた。俺が夜、ふらふらと出歩くのも夜が好きだからだ。部屋に居たって、なにもない。それでも外にさえ行けば音が鳴っている。俺はもしかしたら、その音を聞いていたいのだけかも知れない。女の上気した、くるくると回る瞳を見ながらそんなことを考えた。


「私さ、いつまでもここに居て、こんなことしてちゃいけないなあって思うんだ」


「べつにこだわる理由もないし、それほど楽しいわけじゃないしね」


「お金だって、そんなにいらない。ただあんまり働きたくないだけ」


「なんか自分まで荒んでいくみたい」


「でも捨てられないんだよね。べつに何かしてるわけじゃないし、普通に暮らしてるだけなのに。お店っていうかさ、あの界隈の、独特の冷たい感じ。閉塞感、緊張感、半端な仲間意識、今みたいにあなたみたいなひととこうして話してる、不自然な感じ。明け方の病院通り。どうってことないのに、忘れられないし、抜け出せないの。なんだろう、出会いとか、何か変わるかもしれないとか、息が詰まりそうで、かと思ったらすっごく気がラクで。ほんとは楽しいことも嫌なことも、何にもないのにね。なにかあるみたいに、自分で思っちゃってさ。でもやっぱり、特別なのかな。こういうの。こういう場所で、こんなふうに生きてくの。きっとそう思ってるから、捨てられないんだよね。何もしてないし、何もできないのに、こういうの、最高なんだよね。明け方、自転車で病院通りを帰るの、好きなんだ。何にもなくて、本当にがらんとして、寂しくて、つまんなくて」


 自転車を押す彼女の左側で、眩しい朝日に、俺はほとんど目を開けられなかった。車の量は増え、俺と彼女のような若者のほかにも、反対方向に進む人々が増え始めていた。病院通りの静寂はとっくに破られ、そこはただの凄惨な街そのものだった。彼女は酔うにつれて、段々と陰気になり、俺と同じように朝日に顔を歪めていた。

「家、どこにあるの?」

「Cってマンションだよ。あの川の近くにある」

「ホントに?」

「うん」

 女の家は、俺のマンションのすぐ隣の、やはり彼らのような若者向けの古いマンションだった。

「すぐ隣だね」

「ね。じゃ一緒に帰ろう」

 車の喧噪を避けて、二人で小道を折れ、川沿いの狭い道路を進んだ。道は上下にうねり、左手には、ドブ川のような汚らしい流れの川が、右手には、暗く冷たい雰囲気のマンションが、どこまでも続いていた。川向こうには、何十年も前から捨て置かれたままの、くすんだ商店が連なっている。みすぼらしいブリキの看板に「素泊まり五百円」と書かれた浮浪者向けとしか思えないような宿もあった。二人はもう話さなかった。歩きながら、俺は時折眩しそうに空を仰いだり、ぼんやりと遠くを眺めたりした。

 茶色いタイル張りのマンションの前で足を止めた。無言で立ちつくす彼女の背後では、灯りのないロビーだけが、やけにひんやりと涼しそうだった。

「ねえ」

 俺の声に女がやっと顔を上げた。

「同じなんだよ」

 彼女はやはり黙ったままだった。

「俺も同じだから」

 俺はどこを見るでもなく、ぼんやりと首を傾げたまま言った。そして、飲み過ぎたのか、疲労のためか、とにかくそう言いながら、まったくべつの妄想を、たとえば彼女と夕暮れの商店街を歩く様や、重苦しい灰色の空の下、やはり川沿いの道を二人して歩く様などを、夢想していた。それから、そのまま向きを変えると、数十メートル先の自分の家に向けて歩き出した。

 そして、胸のポケットから煙草の空箱を出すと、だらしなく腕を振ってそれを捨てた。黒く煤けた廃墟のような演芸場が見えた。その前で足を止め、自販機に小銭を入れ、ボタンを押した。それから、自販機にもたれかかるように両手をついて、奥歯をぎゅっと噛みしめた。しゃがみ込んで煙草の青い箱を取る。瘡蓋と血で汚れた指で赤いテープをするっと引いてビニールを取ると、二本指をぱっと開いて、そのまま勢いよく吹き付ける風に乗せて捨てた。



 俺はあのときより何も変わってはいない。ただ消費して、日々を生きるより他にない。冷たいアスファルトに耳をつけて、夜の音を聞く。大丈夫だ。ここにも、俺にも、何もない。もちろん、彼女にだって。

 流れる音を聞きながら、起き上がって足を踏み出す。電話は、もう、いいか。書くよ、とだけ呟いて、スキップ! 潰れて、 ぐしゃぐしゃになった煙草の青い箱を取りだす。痛みの残る指で赤いテープをするっと引いてビニールを取ると、二本指をぱっと開いてそのまま風に乗せて捨てた。耳にはしんしんと夜の音。何も問題は、ない。

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