五つ目の鉢:春風と物語 2
五つの鉢植えを咲かせる仕事が終わったら、もうあの花屋には戻れないのだろうか。
――“最後になるね、ピエリス”
ソルさんの言葉。僕は自己嫌悪に唇を噛む。
けれど、終わらせたくないと思う一方で、目の前の彼女を悲しませたくないとも思う。彼女は僕のもやもやとした気分も知らないみたいに、ただにこにこと笑っているばかり。底抜けに明るい笑顔は、見る者の気持ちもちょっぴり穏やかにさせる。まるで……
「ピエリス」
「は、はい!」
「わたし、本を読みたいの」
「本……どんな、ですか」
「なんでも」
にこにこ、にこにこ。
「なんでもいいのよ、読んだことのない本であれば。だから、」
だから。
「あなたが書いて」
「…………へ?」
このひとは何を考えているんだろう。文句ではなく、純粋に疑問。
本を書く。僕にできる精一杯と言ったって、いくらなんでも……。
「あなたの話を教えて欲しいの。それはあなただけの物語になる」
「僕、上手な文章は書けないかもしれません」
「いいじゃない、楽しければ」
……聞いてくれない。
「教えて」
ふわりと風が吹いた。華やかな笑顔。金色と薄桃が景色を満たす錯覚に、僕は眩しくて目を細める。体の奥底、眠っていた生命が揺り起こされるような、優しい目覚めの合図。このひとはまるで……
「ああ……!」
知らないうちに声が漏れた。物語を綴る。僕が、僕だけの物語――宝物を。
書こう。このひとのためだけじゃない、僕自身のために。色とりどりの思い出を忘れないように。
*
それから僕は二階の書斎を借りて執筆に取り掛かった。
朝も昼も夜も。寝食も忘れて……というかそもそも必要もないのだけれど、とにかくペンを握りしめて机にかじり付いた。
何度も書き直した。でも手は止まらない。むしろ書きたいことが多過ぎて、腕の痛みが焦れったくはあれど、心地いいくらい。次々と溢れてくるのは鮮明な思い出、不思議な花屋と五つの鉢の物語。
よく晴れた日の夕暮れ時だった。暖かな橙色の光の中、ふらふらと疲労に覚束ない足取りで階段を降りていくと、彼女は初めて話をした時と同じように椅子に座り、同じように紅茶を飲んでいた。
僕は紙の束をテーブルに静かに置き、そして……彼女の名前を呼んだ。
「
ゆっくりと顔を上げた彼女は相変わらずにこにこしている。返事はなくても確信はあった。
「出来ました」
「ありがとう」
嬉しい。良かった、喜んでくれて。でも鈴の音が聞こえることはない。
彼女は原稿に手をつけることはせず、代わりにすっと手のひらで向こうを示して言った。
「あなたにお客さんよ」
お客さん?
僕がドアの方向に首を向けると、そこには。
「お疲れ様なのだわ、ピエリス」
「ルナさん?!」
妖精のルナさんが空中で、おどけた仕草でちょこんとお辞儀。彼女も嬉しそうに笑っている。
「どうしてここに? お店を離れられないんじゃ、」
「あたしそのものは店に残したままなのだわ。ここにいるのは、あたしの意識のようなもの」
忙しなく薄羽を動かして、ルナさんは僕の前へと飛んでくる。言いたいことがたくさんあった気がして、実際その通りなのだけど、喉でつっかえて何も言えない僕。
「よく頑張ったわ、ピエリス。あたしが褒めてあげるのだわ」
これはお別れの予感だ。ベールさんに会う前よりももっと迫るもの。
「はじめはソル、おわりはルナ」
待って、僕には、まだ言いたいことが。
「だけど、おわりの次はまたはじまりが来る。あたし達はみんな廻り続けるのだわ」
口の中が渇いている。ひりつく喉から音は出ない。
何か言わないと、伝えないと……焦る僕の視界が霞む。光ではなく、涙のせいでルナさんの表情がよく見えない。でも彼女が思い切り顔に近づいてきたことはわかった。僕の額に、そっと口付けたことも。
「ピエリス、本当にありがとう。――またね」
ぐにゃぐにゃと体が内側から作り変えられるような気持ちの悪さ。手足の感覚が消失していく。
――唐突に、思い出した。
いま見ているのと似たような、色鮮やかな渦巻きの中に飲み込まれる幻影を、かつて僕は見た。目が回る。
――“ピエリス、力を貸してくれ”
僕の額に口付けたひとは、ルナさんより前にももうひとりいたのだ。それははじまりの声。蜂蜜色の瞳を持つひとの、声。
会いたい。薄れゆく意識の中で僕は願う。
――もう一度、あの花屋へ。
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