五つ目の鉢:春風と物語 1
そういうことなのか。朧気に納得する一方で、引っ掛かる。――“帰って来た”?
「おいでなさい」
側まで手招かれ、ラグの上に膝を着いた。パチパチとはぜる暖炉の炎――僕は、急がなければならない。
温かい手が僕の片手をとり、そっと彼女のお腹の上へ。元気が有り余っていると言わんばかりに動く新しい命。なんだ、これは。頭ではわかっているのに戸惑ってしまう。まるで、別の生き物みたい。
「こうして命を繋いでいくのよ」
「……」
「理不尽な勅令に民は辛い思いをしているでしょう。せめてもの罪滅ぼしではないけれど、余った蜜は返すし、花をたくさん植えようと思っているわ」
女王様は自分がどう思われているか知っていた。少し悲しいことだけど、僕にどうにかできることじゃない。時間が要るんだ。
でも、僕ができる精一杯は。ポケットに手を突っ込んで、あの数々の種を取り出す。
――ソルさん、あなたは。
早く店に戻らなければという切迫感、あのひと達に真実を教えてもらわなければという焦燥感。叫び出しそうな心と呼応するように、遠く鈴の音が聞こえる。
「女王様の気持ちは、きっとみんなに伝わります」
早口で言って、種を渡す。これから僕が直面しなければならないことの重さに、予想に過ぎないのに手が震えて何粒かが零れた。
「良かったら使ってください。あの、あの……っ」
なんて言ったらいいんだろう。いくつもの言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え。
――ソルさん、確かに今回のは大変な仕事だ。だからこそ、僕は。
透けゆく僕の髪をそっと撫でる女王様は、微笑んで続きを待ってくれている。視界が光ですっかり塗り潰されそうになる間際、僕は叫んだ。
「アド、マイオーラ!」
それは空耳だったのか。彼方から響いた、穏やかな女性の声は一言。
「行ってらっしゃい」――と。
*
「君のおかげで、きれいな赤のチューリップが咲いた」
カウンターに座っているところに詰め寄ってやろう……身構えていた僕の緊張は徒労に終わった。戻ったのはあの鏡の前。僕は既に、ソルさんに後ろから両肩を押さえられていた。
「悪いけど、時間がない。次の仕事に行って欲しい」
「ソルさん、」
「これで最後だからね。あまり気負い過ぎず、頑張っておいで――」
「ソルさんっ!」
振り払おうとしたけれど、こんな小さな体でかなうはずもなく。僕は鏡越しでしかソルさんの姿を見ることができない。
「どうして何も教えてくれないんですかっ! 僕は何者なんですか、あなた達は、一体!」
静かに鏡の中の僕を見つめる蜂蜜色の瞳は底が見えない。それが初めて怖いと思った。
「全て終わればわかること。今は君はやるべきことをしなさい」
「でもっ」
「落ち着くんだわ、ピエリス」
鏡の上に腰掛けた妖精のルナさんが言った。表情は優しかったけれど、彼女も僕に答えをくれはしないのだ。
「確かにソルは言葉が足りないけど、今は従うしかないんだわ」
ルナさんが羽ばたくと、鏡に銀色の鱗粉が降り掛かる。光を放ち始めた鏡の方に押し出されながらも、僕は抵抗を試みていたけれど。
「全てを終えて元に戻ったら、ここにいた間の記憶はなくなるかもしれない。でも君の成したことは、君だけの宝物になるだろう」
頭上から降ってきた声に思わず動きを止めた。
また、忘れる? いや違う、元の記憶を得る代わりにここでの思い出がなくなるのだ。
嬉しいけど、嬉しくない。だって僕はソルさんもルナさんもこの店も、仕事で出会った全てのひとも好きなんだ!
硬直する僕の体をソルさんが突き飛ばした。
「これで最後になるね、ピエリス。……アド・マイオーラ」
*
最後の最後に、僕はなんてことをしてしまったんだろう。笑顔で……僕らこそ笑顔で別れの挨拶をきちんとするべきだった――したかった。
後悔して泣いている僕の手を、誰かがそっと包み込んだ。手を引かれるまま歩いていくと、いつの間にか、ログハウス風の小屋の中。木の椅子に座らされ、紅茶を出され、そうしてやっと顔を上げた僕の目の前に座っていたのはひとりの若い女性。
「こんにちは」
ピンクのドレスを身に着けた、愛らしい笑顔のひと。小窓から入ったそよ風が、彼女の柔らかなクリーム色の髪を波打たせ、僕の頬をごわごわに乾かしていった。
にこにこと見つめられると、みっともなく泣いてしまったことが思い出されて、恥ずかしさに耳まで熱くなった。
「紅茶」
「……はい?」
「嫌いかしら?」
泣いていたことに触れないでくれるのはありがたいけど、いきなり『紅茶は嫌いか』と尋ねられても困惑してしまう。でもこのひとの笑顔が消えるのは嫌だったから、小さく首を振ってカップを両手で持った。温かい。
「あなたの最後のお仕事は、わたしが相手よ」
「げほっ」
むせた僕を誰が責められようか。
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