四つ目の鉢:廻るいのち 2

 大切なことを忘れているような、もやもやとした気持ちの悪さを抱えたまま歩いていくと、何やら少しずつ声が聞こえてきた。大勢のひとの姿が見える頃にはもう、様々な種類の花が咲き乱れる区画に入り込んでいた。ソルさんとルナさんの店には負けるけど色とりどりの花々が、抜ける青空の下いっぱいに広がっていて、大勢のひとはそこで何か作業をしている。

「ピエリス! おまえ、どこに行ってたんだよ!」

 ぼんやりと突っ立っていた僕の腕を、怒ったような顔をした小さな少年が掴んだ。急な衝撃に驚いて、それ以上に……名前を知られていることに驚いて。濃いグレーの髪と瞳、明るい黄色のシャツ……僕はこんな子、知らない。知らないのに。

「君は……」

「「コリアス」」

 言えた。彼の名前を僕も言えてしまった。

 愕然としている僕をコリアス少年は怪訝そうに覗き込み、それから「あっ」と小さく声をあげる。

「おまえ“ピエリス”じゃない“ピエリス”か! 間違った」

「え……」

「だからおれが探してる“ピエリス”は、蜜集めを放り出してどっかに行きやがった“ピエリス”で、おまえのことじゃないんだ。ごめん」

「……ピエリスって、僕以外にもいるの?」

 発音が微妙に異なる風でもない。思わず尋ねると少年は一層、信じられないものでも見ているかのような目付きで、僕のことを上から下までまじまじと見つめた。変なことを言ってしまったみたいだ。

「おまえ、大丈夫か? ピエリスはいっぱいいるじゃないか。コリアスもいっぱいいるし」

 少年は「おまえも、あれも、あっちのも、ピエリス」花の中で作業しているひとを次々に指差していく。「おれと、あっちのやつ、それからあそこのも、コリアス」。

「みんな一緒だろ」

 幼い子に言い含めるように、そしてどこか呆れている少年。「でも、」と僕は口籠もる。いよいよわけがわからなくなってきて、とにかく何か言おうとした僕の口から飛び出したのは、金色のひとの名前だった。

「僕のこの名前は、ソルさんっていうひとに付けてもらったんだ」

 ところがそれがまた少年を驚かせたみたいで。

「“ソル”だって? おまえ、ソル様に会ったって言うのかよ?!」

 ソル……“様”? 僕が曖昧にうなずけば、彼はぱあっと顔を輝かせた。

「すげぇ、すげぇなそれ! 冗談だとしてもうらやましいぜ!」

「冗談じゃ、」

 むっとしたけど否定するのはやめた。コリアスのあまりの興奮に、僕と彼が考えている“ソル”が同じひとなのか怪しく思えたから。有名な歌い手ツェティアさんを前にした時の、ゾステロプス達の反応ともちょっと違う。有名人への憧れと……尊敬、畏怖、のような? ソルさんって何者なんだろう、本当に。

「まぁいいや、ほら、早く蜜を集めなきゃ!」

「蜜?」

「なんだよ、おまえ、道具も持ってないのか。おれのをひとつ貸してやるよ」

 半ば押し付ける形で渡された小さな瓶とスポイト。僕もやるの、なんて、周りで作業しているひと達を見てしまっては言えない。

「それで花の蜜を吸い取って、瓶に集めるんだ。美味いからって飲むなよ。これは城に持って行くんだから」

 わからないからといって動かなければ何も進まない、終わらない、帰れない。コリアス――“隣にいる”コリアスの手伝いが、今回の仕事なのだろうか。どことなく違和感を感じつつ、見よう見まねで蜜を採取していく。確かに、甘い匂いはひどく魅惑的だった。



 集め終わった蜜はこのパピリオの国の中央、女王が住む城へ持って行くのだという。

 僕とコリアス(最初に声をかけてくれたあのコリアスだ。何人もいると、いちいちややこしいなぁ。)は、いっぱいになった瓶を持って一緒に大通りを歩いていた。さすがに中心地だけあって、ここでは道沿いに花畑ではなく屋台が並んでいる。あくまでも“普通の”商店街。売っている食べ物や雑貨はお金で買える。

「面倒ったら、ありゃしないよな」

 さっきからコリアスはぶつぶつと文句を言っている。

 城に蜜を持って行くのは、女王様に献上するため。少し前にお触れが出され、国民は期間毎に交代でひとり一瓶ずつ、花の蜜を集めて差し出さなければならなくなったのだそうだ。

「これはおれ達にとっても大事な食糧なのに」

 コリアスの言葉に、琥珀色に輝く液体を透かし見た。僕もこれを食べたことがあるのかもしれない。砂糖より美味しそうに見えるし、実際にその通りだという確信も持てる。……そう、僕は僕で、少しだけ苛立っていたのだった。過去の何もかもがはっきりしない、自分自身に。

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