三つ目の鉢:重なる歌声 4
ツェティアさんが引っ込んで、代わりに僕達が舞台に立つと、騒めいていたお客さんがいきなり静かになった。
いや、静かというか。小声の会話が飛び交っている。耳を澄ますと聞こえてくるのはツェティアさんの名前、それと隣の彼に向けられる無遠慮な興味。
大丈夫。引っ張ってきたままだった手を握ると、彼の震えが伝わってくる。
歌いさえすれば。僕がコクスィネルさんにうなずくと、返事として楽器と弓が構えられる。曲は事前に伝えてあるからあとは彼が歌うだけ。ヴァイオリンの用意を見て、再び会場は静まり返る。
弓が滑り出す。前奏が終わって――
――さぁ、歌って!
……ところが。一小節、二小節。曲がどんどん進んでも、一向に彼は歌わない。それどころかずっと顔を伏せて震えている。
長すぎる前奏に、お客さんもちらほら奇妙だと思い始めたのだろう。さざ波のように騒めきが伝播して、とうとうコクスィネルさんが弓を引くのを止めてしまった。
どうしよう。たくさんの視線に僕らは晒されている。違う、聞いて。彼の歌を聞いて欲しいんだ――。
「これは……」
コクスィネルさんが困っている。こんなはずじゃなかったのに。どうしよう、どうすれば。
その時、隣の彼が繋いだ僕の手をぎゅっと握った。
僕は少し冷静さを取り戻す。頑張らなくちゃ。彼も心から笑う権利があるのだから。
仕事が終わったらここから立ち去る僕は、彼ほど失敗を恐れる必要はないはず。ちょっとずるいけどね。恥ずかしくないぞ……自分に言い聞かせながら僕は歌い始める。僕の知っている曲なんて限られているから、歌うのはもちろんソルさんがよく奏でている曲。それにどこかで聞いたような詞を合わせて、全くちぐはぐなものを即興で歌った……というより唱えた?
そうしたらお客さんも静かになって。ひとりは厳しいかなぁと思いつつ、うろ覚えの歌らしきものを口に出していたら、なんと後ろから聞こえてきたヴァイオリンの音。ちょっとだけ振り返ってみると、初めてのはずの曲を少しずつコクスィネルさんがなぞって、いい感じの伴奏で支えてくれていた。さすがだなと僕は感動。
支えてくれたのはひとりだけじゃない。いつの間にか重なる歌声が――隣から。
歌えるんじゃないか。僕は嬉しくなって、段々と離脱。ついに彼は、彼自身の歌を歌い始めた。
ご覧よ。僕だけじゃなく、お客さんだって君の歌を聴いてる。ちゃんと君の声が届いてる。
曲に合わせて体を揺らしているひと、頑張って一緒に口ずさもうとするひと。
「……お前より、俺のが上手い」
「本当だよ」
そんなお客さんを前にして、間奏の最中に彼が囁いてきた。ふたり同時に小さく笑う。
「でも……ありがと」
「うん。――君の名前は?」
むず痒い嬉しさを誤魔化すように、弾む明るい音色に紛れることなく聞こえた鈴の音を確かめるように、僕は最後に彼の名前を尋ねた。そっと手を離し、このまま続けるようにと彼にジェスチャーして、そろそろと舞台の隅へ。驚いていた彼も次の瞬間には小さく微笑んで、唇をはっきり動かしてくれた。
――ゾステロプス。
草色の髪に白縁眼鏡の、友人の名前だ。
舞台袖ではツェティアさんが待っていた。壁にもたれて腕を組んだまま僕を見る。
「行くのかい、少年?」
僕は黙ってうなずく。そう、と言ったツェティアさん、止めることも驚くこともしない。サマになる立ち姿が羨ましい。
「ならボクからも最後に質問、いいかな」
「何でしょうか?」
「キミが最初に歌ってたの、歌詞じゃなくて曲の方、あれはなんていう題名?」
困った。題名なんてあるのかすらわからない。
「……ええと、僕も詳しくは知らないんです。ただ知り合いの音楽家が弾いていた曲をうろ覚えで」
ソルさんは音楽家ではないけど。
僕の言葉を聞いたツェティアさんは、暗がりの中で静かに目を瞑り、軽く上を向いて穏やかな声で歌うように紡ぐ。
「……まるで雨音のような曲だね。是非とも本物の音色を聴いてみたいものだ」
――雨音。雨。
「引き留めてすまなかったね」
「いいえ」
「貴重な出会いをありがとう、少年。また機会があれば会おう」
はい、という返事は届いたろうか。ツェティアさんはじっと目を閉じたまま、僕は光の中へ帰っていく。
……その音楽会のすぐ後で、よく似た歌い手ふたりがすごく仲良くなったなんてこと、僕には知る由もない。
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