第7話
「どうでしょう?」
僕が一通り蝶を生態展示する企画と、調べられる限りで考えた飼育器の説明をして、話を切りだしてみた。相手は昆虫研究所の小泉哲治さん。
ここは神奈川県の端っこにある昆虫館。この昆虫館の目玉は大きな温室。温室の中で年中蝶の成虫が自由に飛んでいる姿が、展示されている。
自分の休日を使って蝶について話を聞くために、電車とバスに揺られて一人でここまで来る情熱があるとは自分でも驚いていたが、この昆虫館で話を聞けば企画書もうまくまとめられる気がしていた。
ただ昆虫館に教えてくださいと話を聞きにくるだけでは、相手に申し訳ないので、ネットや書籍で調べられる情報にあたって、生態展示するためのテラリウムのような飼育器のアイデアもいくつか考えてきていた。
昆虫館に到着して、小さな会議室に通され、メールで伝えておいたイベントの企画の説明を10分ほどして、小泉さんがどういう反応をくれるか、ドキドキしていた。
「うーん。どうでしょうってねぇ、上手く行くかなぁ。アクリルの水槽は基本的に、素材として堅いでしょ。水槽を一メートルとか、大きくしても、蝶の羽が痛んじゃうんですよね。それで衰弱していくんです。あともう一つ、生態展示する蝶はどこから手に入れるんですか?」
「それはこちらの昆虫館で飼育されている蝶を、お借りすることはできないでしょうか?」
「うちで飼育してる蝶の数は、うちの温室で展示する数だから、そんなにたくさんは貸せませんよ?」
「一、二週間で、お借りしたいのは十匹か二十匹なので、なんとかならないでしょうか」
「うーん、それくらいなら何とかなるかな... 面白い企画だとは思うから、協力はしたいんですよ... 」
やっぱり子どもの頃に昆虫好きだった程度では、話にならないか。企画として生態展示ができないなら、生態展示はあきらめるかな、でもそれでイベントとして成立するだろうか?そんなことを思い始めたところで、小泉さんがしゃべり始めた。
「やっぱり蝶の成虫を飛ばしつつ、飼育するなら昆虫採取するときの
網みたいな素材で囲うようにするのが、ベストなんですよ。そうやって蝶の成虫を飼育されている方はいらっしゃるんです。でもそうすると、外からは見づらい。そこがネックかなぁ」
「じゃあ、全体的にはその網で囲うとして、ビニールみたいな透明ののぞき窓を、部分的に付けるというのはどうでしょう?」
「んー、まあ、それならいいかもしれませんね」
小泉さんは、五十歳すぎくらいだろうか。話し方は温厚そうな性格だが、蝶の話をしているときは、めがねの奥の目が鋭くなっているようにみえる。
「じゃあ、もう少し具体的な話をしましょうか。実際に展示したいと思っている蝶の種類は何種類とか、具体的に名前を挙げてもらえますか」
「え、じゃあこの企画、乗ってもらえるんですか?」
「まだ決まりってわけじゃないけど、細かいことを話さないと、見えてこないので」
「あ、そうですか... 蝶の種類は、三種類か多くて五種類くらいで、神奈川では見られないような種類の蝶も入れて欲しいと思っています」
「なるほど... 。まあ春先の時期で室内展示するんだったら、室温も二十五度以下だろうし、暖かい沖縄の蝶なんてどうでしょう?うちの温室では沖縄の蝶が多いから、そういう点でいいかもしれない」
「なるほど。沖縄の蝶って、どんなのがいるんです?」
僕がそういうと、小泉さんは会議室の壁に掛かっている昆虫標本を指しながら、
「リュウキュウアサギマダラなんてきれいだし、オオゴマダラも見応えがありますよ。うーん、他は飼育できている数が少ないので、場合によるかな」
「あと、わがままですが、蝶を見に来た子どもたちが、実際に神奈川でも採れる蝶も展示したいのですが」
「なるほど、じゃあナミアゲハか、クロアゲハがいいかな」
小泉さんは標本を指してくれた。見たところナミアゲハは、神奈川でも見かけるアゲハチョウだ。
「そんな感じでスタッフに話してみますよ。実現できるかどうかは、現場の人間の声を聞かないと判断しかねるので。できるだけ、いい返事ができるようにはしますがね」
「ありがとうございます、小泉さん。私も企画書を仕上げたいと思います」
「じゃあ、メールで三日以内に返事できるようにしますね」
小泉さんに出口まで見送られて、昆虫館を後にした。
企画書作成も話をつめる作業に入った。生態展示は小泉さんと話した内容でいいとして、商品販売コーナーは蝶のアクセサリーのハンドクラフトを全国から集めて、昆虫館に並んでいた商品も置いてもらう。その他に、蝶に関する書籍やDVD、虫を採るための網や昆虫標本を作るためのアイテムをそろえたり、アウトドアグッズのコーナーも企画書に加えた。
ステージを作って人間とCGの蝶の合成写真を撮れるようにして、間の時間で昆虫館のスタッフさんにトークイベントをしてもらう。あとは蝶の標本をパネルに飾るという具合で考えた。
昆虫館の方たちに手伝ってもらう部分は、小泉さんに相談したら、「できるでしょう」とメールで返事をもらっていた。
肝心の、この企画に昆虫館が協力してもらえるかという、小泉さんからのメールは、会ってきっちり三日後に届いた。
「スタッフとも話し合って、この企画は実現可能だと判断しました。やりましょう」というメールに、「よろしくお願いします。成功させましょう」と返事を送った。
「後は、企画書のタイトルだ... 」企画書を読み返していた集中力がふっと切れたところで、唯一職場に残っていた太田から声がかかった。
「頑張ってるね。企画書でしょ?できた?」
「まあ、なんとか。後はイベントの名前を決めないと」
「もう遅いんだから、今晩は帰りなよ」
そう言われて時計を見ると、午後十時半を過ぎようとしている。
「そうですね。お先に失礼します」
職場を出て、寒い夜の帰り道についた。今日は、霧島に行くかな。
プラットフォームから赤い電車に乗り込む。この時間でも乗客はけっこういる。走り出した電車から見える住宅地の明かりが、窓の外を流れてゆく。赤い電車が夜を泳いでいるみたいだ。
霧島のドアを開けると、マスターと最初に目があう。
「いらっしゃいませ、ケンさん。今日は遅かったですね」
いつもの常連さん、紫垣と橋田、トラさんが飲んでいる。
「仕事?熱心だね、ケンさん」
トラさんはこの時間なので、さすがに酔っているようだった。
「企画書が何とかまとまりそうだったので、遅くなっちゃって」
トラさんに返事して、マスターに生ビールを注文した。
「企画通りそうなの?」
紫垣が次いで話す。
「まだわからないよ。企画書を書き上げられたら、係長に見せられる。まあイベントにできるかどうかは、上の方で判断してもらわないと」
「あの九つだっけ?の中から、どんなイベントになるか、見に行ってみたいと思ってるから、うまくいくといいね」
「おまたせしました。生ビールです」
マスターが生ビールを、コースターに乗せたのを手にとった。
「「「「お疲れさまです」」」」
言葉とグラスが重なった後、僕はたばこに火をつけた。
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